教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

仮説を否定する論文の価値

2007年03月04日 19時22分07秒 | 教育研究メモ
 本日、研究室にこもっているとき、久しぶりにウグイスの鳴き声を聴きました。絶妙の美しい声で、様々なバリエーションの「ホーホケキョ」を聴くと、うれしいやらかなしいやら。なぜかなしいかというと、春になってしまった実感がわいてくるので(まだひきずってんのかよ(笑))。
 昨晩は結局徹夜し、午前6時くらいまで博論構成を練っていました。なかなか適度な規模の問題意識を設定できたように思います。ま、いつものように、いいものができたつもりでも根底から否定される可能性は高いのですが…
 一時帰宅し、3時間ほど仮眠。それから再び登校しました。今日は、板倉聖宣・中村邦光・板倉玲子『日本における科学研究の萌芽と挫折-近世日本科学史の謎解き』(仮説社、1990年)を読む。本書は、「日本に物理学が生まれそこなった歴史」を解明するため、近世の和算や秘伝書から物理学的な問題を探し、その特質を明らかにするものです。本書の研究方法は、仮説-実証を丁寧に繰り返し、事実または論理上間違った仮説の破棄と、資料や通説によって証明され、かつ論理的にもより正しい仮説を導き出す方法をとっています。我々が「事実」と思っていることも実は未来の「仮説」にすぎないかもしれないと考えると、本書に見られる仮説-実証の繰り返しこそが研究の過程そのものを示しているようにも思えてきます。
 本書には、最初に提示した仮説の否定を結論とする論文が多く掲載されています。このような論文を読むと、何ともやりきれない思いがします。しかし、結果的に次に続く論文が研究目的を達成するための踏み台になっているならば、「この仮説設定では研究問題を解くことはできない」ということを示す論文も決してムダなものではありません。その分、本書の論文は、本書全体の目的(「日本の自然に対する考え方が物理学になりそこねた歴史を描く」)に対して、誠実に対応しているため、結論が仮説の否定でも興味深く読めます。学問は論争や新たな研究を引き起こす問題提起によって発展を始めるのであり、同学の者に問題提起する論文ならば、仮説の否定が結論である論文は意味があります。ただし、逆を言えば、学問の環境が自由かつ継続的に同学の者が論争することができない環境である場合、仮説の否定が結論である論文は論争につながるものにはなりえず、無意味なものになるでしょう。
 本書の内容について少し。17世紀の砲術秘伝書・和算書は、同時期のヨーロッパでガリレイが最初に叙述したとされる「弾道が放物線を描くこと」を明らかにしていました。しかし、日本の弾道研究はあくまで現象論的な説明に終始し、「力」や「速度」といった物理学に重要な力学的概念が見出せませんでした。本書では、その意味で、日本の弾道研究は「物理学になりそこねた」ことを主張するのです。本書では、弾道研究の他に、「密度」「円周率」「てこの原理」についての「物理学になりそこねた歴史」が叙述されています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 邦楽ノート・雅楽特集 | トップ | ん~ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

教育研究メモ」カテゴリの最新記事