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手洗いが大事

コロナウィルスで世の中は大混乱。

マスクも消毒薬も見つからないので、とにかく手洗いと、うがいしかない。

こんな状況はいつまで続くのでしょう。

とにかく手は洗いましょう。

 

 

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侍女図

侍女の図。

マンガを描く時間が欲しいなあ。

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炬燵に入る雪江さん

『吾輩は猫である』の登場人物。

時々絵に描きたくなります。

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忘れられない選手・2(山田宏臣)

日本人で初めて8mを跳んだ走り幅跳びの選手。

跳び方は、現在のような空中で2回半足を交差させるスタイルではなく、1回半のみ交差させるオーソドックスなはさみ跳び。

でも山田選手のジャンプは、手足を精一杯大きく伸ばして跳ぶ、大変ダイナミックなものだった。

見ていて気持ちの良い雄大なジャンプ。

スピードも100m10秒台のスプリント力を持ち、素質としては抜群だったろうと思う。

ただ、彼の前に立ちふさがったのは、戦前の南部忠平さんが出した7m98(当時の世界記録)という日本記録と、「8mの壁」という重圧だった。

8mを跳ぶために山田さんは血の滲むような努力を重ねた。朝隈善郎(ベルリン五輪走り高跳び日本代表)コーチの下での、京都・知恩院の階段を使った凄まじい練習は語り草である。自宅に「山田大明神」と名付けた神棚を作り8m突破を祈願していたという話も聞いたことがある。

メキシコ五輪での突破が期待されたが7m93に終わり、限界が囁かれていた1970年の小田原での実業団・学生対校陸上でついに8mを超えた(8m01)。

何でも大会前に風邪か何かで体調不良になり休んだのが、ハードトレーニングで常に過労状態であった山田選手に逆に良い作用をもたらしたらしい。いつも力み過ぎていたのが、適度に力が抜けてリラックスできたのだろう。

「もうこれで死んでもいい」と男泣きに泣いたという。その試合の踏切版を記念に貰った、うれしそうな写真を見た記憶がある。

そして山田選手はその8m突破を以て燃え尽きた。以後、それに迫る記録は出していない。

引退後はホテルの支配人その他をしていたそうだが、39歳という若さで脳溢血に倒れた。

短い生涯だったが、選手としては満足だったのだろう。それぐらいしかファンとしては申し上げられないが、そのジャンプは脳裏に焼き付いて忘れられない。その姿は市川崑監督の「東京オリンピック」でわずかに見ることが出来る。ただジャンプの凄さはその映像でははっきりとは分からない。

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