ソメイヨシノはもう満開。
桜の季節には決まって思いだす詩がある。
『甃(いし)のうへ』
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音<あしおと>空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂(ひさし)々に
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音<あしおと>空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂(ひさし)々に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ
(「測量船」)
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ
(「測量船」)
僕が中学生の時の、国語の教科書に載っていた詩だ。
これを、僕は隣の街にある女子高の生徒たちを思い描きながら読んでいた。
その当時、中学生の僕には、女子高の生徒がとても大人に見えた。
をみなごしめやかに語らいあゆみ、とそのように感じていたのである。
還暦を過ぎた今でも、その情景を鮮やかに思い浮かべて、少しセンチメンタルな気持ちになる。
今の高校生を見ていると、とてもそんな風情は感じられないけれども。
さて、そろそろ五大桜も見頃だろうか。
村を一回りしてみた。
水中(みずなか)のしだれ桜。北の零年という映画のロケで吉永小百合がここに来た。
この桜は五分咲きといったところ。
これは赤和のしだれ桜。
この桜は赤和観音という岩屋観音の登り口にある。
色が濃くてきれい。
黒部のエドヒガン桜。
色が一番濃くて、樹齢数百年の古木。
なかひらのしだれ桜。
ここはほぼ満開。
夜にはライトアップされる。
坪井のしだれ桜。
ここでは売店があって、桜茶をサービスしてくれる。
おでんとおやきで昼食。
農家のおばちゃんたちが農産物も売っている。
全国から観光客がやって来る。
18日と25日は桜めぐりトレッキングが行われる。
この分だと、多分桜は持つだろう。
この季節、毎年のことだが、長い冬から解放されたうきうきした気分と、何かしら憂鬱で感傷的な気分とが、ないまぜになっている。
『もの思う秋』とはいうけれど、どこかなまめかしい春風に吹かれると、封印してある感情や思い出がうごめき出したりもする。
昔、とても輝いていた言葉の数々が、今はもう色褪せてしか見えない。
そのことに、僕の感性が死んでしまったのだと思おうとする。
だが、やはり時には美しい言葉に酔い痴れてみたい。
科学的であること、論理的であること、具体的であること。
それは必要なことで、大切なことだ。
ただ、それだけでは心に響かない時がある。
膨大なブログの海の中で、輝きを放つ文章を見つけようと今日も漂う。
以前、違うステージでブログを書いていた。
コメントをやりとりする友達も何人かできた。
親しくなり過ぎて、心理的に微妙な関係になったりもした。
そのステージは閉鎖になり、ブログ友達は他のステージに移り、僕はここに来た。
ここで、気儘に日々の出来事や感じたことを綴っている。
他のステージに移ったブログ友達はたまに記事を書く。
僕は、そこにコメントを付ける。
そのステージで僕は記事を書かない。
で、『また記事を書いてください』とブログ友達の彼女はコメントを返す。
僕がここで書いていることは教えていない。
どうしてなのだろう。僕にはよくわからない。
親しくなり過ぎることに、怖さを感じているのかもしれない。
色々なことを、タイトルとは無関係に書くことが僕のスタイル。
だって、単品よりか幕の内の方が楽しめるじゃないか。
付録、おまけ、追伸のようなものか。
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