伝説によると、和泉式部は書写山の開山~性空を訪ねて教えを請うたと伝えられている。
その折の式部の絶唱が書写山円教寺に残されている。
暗きより くらき道にぞ 入りぬべき
遥かに照らせ 山の端の月
和泉式部が自身の昏い心中を照らしてほしいと救いを求め、それに応えた性空は何を語ったのだろうか。
おそらく法華経への誘いではなかったかと思われる。
書写山円教寺は天台宗の寺であり、西の比叡、とよばれていたようだ。
開山・性空の名声は都にまで聞こえていた。
権力争いに敗れ傷心の中宮彰子に伴われて、性空を訪ねた和泉式部であったが。
和泉式部自身も結婚と離婚、二度に及ぶ恋人との死別、娘との死別など女性としての哀しみを重く背負った半生だった。
都からはるばる、なぜ書写山の性空であったのか。
書写山円教寺は天台宗の名刹であり、天台宗の根本経典が法華経であったからだろうと思われる。
では、なぜ法華経なのかというと、女人成仏、を説く唯一の仏典が法華経だったからだろう。
仏教においては、女性は業が深く、仏種を炒れる者とされた。つまり、救われない存在とされていた。
唯一、法華経のみが女人の成仏を説く経典であった。
書写山の性空を訪ねた和泉式部はその帰途、堂に籠って法華経を読んだという伝説が残っている。
平安時代に末法思想が流行した頃、女性達は法華経に救いを求めたのではなかっただろうか。
それ以前にも聖徳太子が好く講説したのは法華経であった。
日本の精神文化の底流には法華経の影響が色濃く覗えるといわれる。
紫式部の源氏物語がそうであるし、平家納経にも法華経が見事に書写されている。
女人に救いをもたらす法華経の存在、それが和泉式部達を書写山に赴かせたのではないか、と推測される。
和泉式部と性空が出会ったというのは伝説であり、はたして本当かどうかはわからない。
しかし式部が法華経に救いを求めたのは間違いないと思われる。
「風の音~書写・式部(城山如水作曲)」