ジブリの「世界の宮崎駿」監督が「憲法改正絶対反対」を様々な場面で発言し続けておられる。
「国防軍はいらない、自衛隊のままでいいんです」とも言っておられた。
さらに的確な言葉は「安部総理が真っ先に戦場に行くべきです。子供も、それがダメなら孫を戦場に行かせなさい」という発言だ。
安部政権の憲法改正案は「内閣総理大臣を総司令官とする国防軍の保持」だ。
総理の御乱心も遂に「精神錯乱」にまできてしまったかという感じがしている。
アメリカ大統領はすべて軍人経験者だ。
だから強力なアメリカ軍をシビリアン・コントロール(文民統制)のもと的確な運用をすることが出来る。
日本の二世・三世議員の「お坊ちゃま総理」と「お坊ちゃま議員」に「国防軍」などを持たせようものなら、子供に「戦争ゲーム」を持たせるようなものだ。
戦争の悲惨はイージス艦や戦闘機のイメージとは全く違う。
人間が人間で無くなり、狂気の殺戮集団に変貌するのが軍隊であり戦場なのだ。
首、手足、胴体が吹き飛び、腐乱した内臓が散乱し、異様な死臭・腐臭が立ち込めるのが戦場の真実の姿だ。
父母・子供、家族を失い、恋人を失い、生活の場を失い、悲嘆と絶望の絶叫に溢れているのが戦場だ。
戦場で、敵であれ「人を殺した重責」は生涯、その兵士の心の重荷となって精神を蝕む。
ベトナム戦争、アフガン戦争、イラン・イラク戦争に従事したアメリカ軍の帰還兵達の精神疾患は深刻だ。
戦争は最新鋭兵器がスマートに「戦争ゲーム」を行うのとは分けが違う。
国防軍となって、実際に海外支援などの悲惨な戦場に送り込まれるのは墓者達なのだ。
自衛隊であればこそ、「誇りを持って」国土と国民を守る「自衛の任務」を遂行することができる。
国防「軍」となれば、、殺人のプロフェッショナル、「人間殺戮集団」に変わるのだ。
軍人となった兵士は「国家が認める殺人のプロ」であり「人間」を失うことになる。
なにはともあれ、安部総理、麻生副総理以下、国防軍憲法改正を叫ぶ人々は、まず紛争地帯・実際の戦場に滞在すべきだ。
自ら兵士となって戦場で戦ってくるべきだ。「国防軍」はそれから言い始めても遅くはない。
かつて開高健氏は自ら志願してベトナム戦争に参戦し、ベトコンの襲撃に何度も死を覚悟したという文学者だ。
安部総理、麻生副総理以下の閣僚に、現在の紛争地、戦場に「一兵士」として赴く勇気があるのだろうか。
一度でいいから銃弾とミサイルが飛び交い、自爆テロが頻発する戦場に「一兵士」として参戦してもらいたい。
それから「国防軍憲法改正」を発言してもらいたい。
宮崎駿監督のみならず、すべての文化人が絶対平和主義の「日本国憲法」について声を上げる時がきていると感じる。
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