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世界三大宗教の一つ「キリスト教」の成立を解明する歴史番組を観た。
3時間にわたる三部作番組だったが、今まで知らなかった「キリスト教」の成立の事情がかなり見えてきたように思った。
ナザレのイエスがローマ帝国により罪人として十字架刑に処せられた後も、秘密の集会によりその教えは受け継がれていた。
そしてイエスの死後60年くらいたってパウロ、ペテロという殉教者(死刑)により教団が序序に形成されていったらしい。
イエスは唯一のメサイヤ・救世主と看做された。つまり一神教の誕生だった。
当時、ローマ帝国の宗教は多神教であり、生贄を捧げる習慣を持つ宗教だった。
生贄の儀式を拒否し、一神教であるキリスト教徒は、ローマ帝国社会では異質だった。
しかし、一般に伝えられるほどの弾圧も殉教も無かったと見られている。
ローマ帝国は多民族の国家と宗教を吸収する寛容性を持っていたためだそうだ。
ところが、皇帝ネロの在位中のローマ大火がキリスト教徒によるものという風評から、弾圧を受けることになる。
その後は寛容な時代と弾圧の繰り返しをへて、コンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗したことによって国教化されていく。
このいきさつには、4世紀初期当時、4分割統治されていたローマ帝国内の皇帝の覇権争いから、キリスト教徒を取り込む必要性があったことも要因だった。
このコンスタンティヌス帝がローマ帝国の新しい都として建設したのが、ヨーロッパとアジアの交差点、東西世界の交差点であるコンスタンティノ・ポリスつまりコンスタンティノープルだった。現在のイスタンブールのことだ。
コンスタンティヌス帝の援護のもと、教会が建設されてゆく。
その後、4世紀末になってテオドシウス帝は、政治的必要性からアムブロジウス司教に権力と軍事力も与えた。
ここにローマ帝国の国教である「キリスト教」は実質の力、つまり権力と軍事力を持つに至った。
この過程でローマ帝国統治に都合の悪い文書(福音書)や、教団は異端として排除された。
これに深く係わっていたのはニカエア会議を招集した、コンスタンティヌス帝であった。
その後の宗教会議においても、皇帝や司教などの権力者の統治に不都合な文書や教団は異端として排斥されていった。
こうして見て来ると、キリスト教の成立にはローマ帝国皇帝が深く関与していることが分る。
そして、国教化され、強大な権力と軍隊をも持つことによって、キリスト教の形骸化が始まったと見ることもできる。
それと、キリスト教は成立の事情から見て、権力闘争の道具として使われていた傾向も見て取れる。
中東の果てしない戦争も、キリスト教の成立自体が、政治権力に拠っていたことに、その要因があるように見える。
つまり、我々東洋から見れば、キリスト教は政治権力と共に戦闘を続けてきた宗教に見えるのだ。
ナザレのイエスが説いた教えとは裏腹に、政治権力の最高峰のローマ皇帝が、その成立に関与していたことが、この宗教にとっての悲劇ではなかったかと思えた。
「罪人がなぜ神になったか ~キリスト教の成立」の歴史番組を観て、そんなことを思った。
ここで、ふと思ったのだが、キリスト教の成立に重要な役割を果たしたのは皇帝という最高権力者だった。
ところで、日本神話による「神道」においては神々自身が「権力者」であったことだろう。
つまり出雲の神々は「出雲王権」の権力者達であり、ヤマトの神々は卑弥呼を「天照大神」とする古代ヤマト王権の権力者達だったのだろう