今某大学で「アートマネジメント」なる学問を勉強している。
当然外国から入ってきたものだが、アメリカ・ドイツ・フランス・イギリスで
その定義や内容は微妙に違う。
ただ、共通してかつ思いっきり単純化していうと、
「アートを通してまちづくりをするための学問」である。
確かに時代の流れでアートも単に表現するだけでなく、
コミュニティづくり、まちづくりという役を担わざるを得ないのだろう。
一方では確かに納得する。
現代美術のビエンナーレ・トリエンナーレなどはその筆頭だろう。
しかし一方で文化芸術は別に直接的に目に見える形で
社会に貢献する必要があるのだろうかという疑問も生まれる。
例えばある時観た舞台に対する感情や思いは
極めて極私的なものであっていいのではと。
いや古代ギリシャの時代はともかく
近代以降作家の自己表現であり、
その表現を鑑賞者が様々な思いで受け止める。
それでその鑑賞者の心が動けばそれでいいのでは、と。
しかしそれは目には見えず、数字にも出来ない。
どちらがいい悪いという問題ではないとは思う。
しかし近年の極端なアートマネジメント論者、
アウトサイダーアート(エイブルアート)擁護者、
文化行政を見ていると
「社会貢献」という名の呪縛さえ感じる。
アートはもっと私的なものでいいのではないのだろうか?
当然外国から入ってきたものだが、アメリカ・ドイツ・フランス・イギリスで
その定義や内容は微妙に違う。
ただ、共通してかつ思いっきり単純化していうと、
「アートを通してまちづくりをするための学問」である。
確かに時代の流れでアートも単に表現するだけでなく、
コミュニティづくり、まちづくりという役を担わざるを得ないのだろう。
一方では確かに納得する。
現代美術のビエンナーレ・トリエンナーレなどはその筆頭だろう。
しかし一方で文化芸術は別に直接的に目に見える形で
社会に貢献する必要があるのだろうかという疑問も生まれる。
例えばある時観た舞台に対する感情や思いは
極めて極私的なものであっていいのではと。
いや古代ギリシャの時代はともかく
近代以降作家の自己表現であり、
その表現を鑑賞者が様々な思いで受け止める。
それでその鑑賞者の心が動けばそれでいいのでは、と。
しかしそれは目には見えず、数字にも出来ない。
どちらがいい悪いという問題ではないとは思う。
しかし近年の極端なアートマネジメント論者、
アウトサイダーアート(エイブルアート)擁護者、
文化行政を見ていると
「社会貢献」という名の呪縛さえ感じる。
アートはもっと私的なものでいいのではないのだろうか?
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