【個人的評価 ■■■■■□】(6段階評価 ■□□□□□:最悪、■■■■■■:最高)
結論から言うと、とても面白かった。
****青春映画から社会派娯楽映画へ****
客観的に見れば、前作の方が映画として優れている。
前作は、あくまで青春映画であり恋愛映画であった。ロミオとジュリエットのアレンジストーリーだ。
若い男女の恋を阻む大きな壁として民族同士の歴史的確執があり、それらは決して解決しないけれども、若いカップルはそれを乗り越えて恋を実らせる。
よくできた恋愛映画であり、本来万人受けする内容であった。実際キネ旬一位をはじめ数多くの映画賞に輝いているし、ミニシアター作品という規模の中ではヒットもした。
しかし、ご存知の通り、世の中には、特にネット上には、盲目的韓国・朝鮮ぎらいがいる。
かつてのナチスの、ユダヤ人は全部ダメ、ユダヤ人の考えた理論を使って研究することもダメ、とキチガイじみた反ユダヤ主義のように、朝鮮嫌いたちは朝鮮人と日本人の恋愛物語なんてそれだけで腹立たしいと、映画「パッチギ!」に猛烈なバッシングを加えた。
それで頭にきたのだろうか?
続編はもはや青春映画だの恋愛映画だのといったジャンルムービーの皮をぬぎすて、直接的に差別と戦争を題材にした社会派映画といってもいいものになった。万人受けはすまい。
壮絶な内容である。
兄は映画を観る限り日々暴力に明け暮れ、横領と密輸で金を稼ぐ。
妹はいかがわしい芸能プロダクションに所属し、月並みではあるが、プロデューサと寝て役を得る。
妹はともかく、兄はどうみてもただの犯罪者である。
だから朝鮮人は!!
お前みたいな奴のせいで俺たちが!!
と、どっちの陣営からも批判されそうなキャラである。
しかし、佐々部清監督の(あのつまらない)「カーテンコール」のように、「善良な朝鮮人、差別に耐えて頑張っています」的物語より「差別には、男は暴力と犯罪で、女はセックスで立ち向かう」物語の方が、映画としてはるかに面白い。
実際、そういう人たちと仲良くなれるかはわからないが、映画のキャラとしての魅力は圧倒的だ。物語ははるかにエキサイトするし、犯罪だセックスだとなれば因果応報的に様々なトラブルにも見舞われて、物語は必然的に二転三転していく。
こういうキャラを主役に設定することで、差別する側とされる側の戦いをフェアにしているような気がする。
一方で敵対する右翼のにいちゃんたちはと言えば、これが過度なカリカチュアにより、一見するとコミカルで、ある意味「単なるアホで、にくめない連中」として描かれる。
しかも、朝鮮人VS右翼の血みどろの殴り合いではお互いに気の済むまで殴り合わせることで、いわば差別側を許しているともとれはしないだろうか?
差別自体の否定というよりは、差別はあるという前提でそれでもたくましく生きていく人間たちを描くことで、まずは娯楽として成立させることを重視している。
だから面白いのだが、一方でカリカチュアによる問題点も生じる。それについては後述する。
****愛と平和のメッセージ****
恋愛映画という太い背骨を失い、物語はバランス感覚を失い、差別、暴力、戦争、芸能界、右翼、恋愛、難病、ギャグ、風刺・・・と、とめどもなく様々な方向にむいてはぶれていく。にもかかわらず、立派にエンターテインメントとして成立させたのは、脚本家羽原大介(「パッチギ!」「フラガール」そして「ふたりはプリキュア」)の見事な構成力によるものである。詰め込みすぎ感が逆に、次どうなる?次どうなる?と期待感をあおる。
話がぶれて、青春映画としての体裁もないため、物語は着地点不明のままさまようが、終わってみるとなんてことない、サブタイトル通りに「LOVE & PEACE」というメッセージに無事降下する。
LOVEは家族愛で、これはそれほど強く訴えかけてはこないが、PEACEについては強烈に訴える。
父親は朝鮮人として「日本のために死ねるか」との思いで、兵役から逃げ、戦場を逃げ回る。
その思いは娘に受け継がれるが、それは娘の中でもっと大きなものに進化する。
彼女が朝鮮人であることに固執していれば、日本人が戦争で特攻して死のうが、まして映画の中でなら、勝手にやってろよと思うことだろう。だが彼女は国籍も民族も関係なく、人として、愛するもののために死ぬという考えに反対する大演説をぶつのである。どんなに無様であろうとも生きて帰ってきてと願うことこそ愛なんだと。
父から娘へと受け継がれ、しかも時代を経て進歩していく、愛と平和についての考え。そこは単純に感動できる。
ただしこの反戦大スピーチとその後の展開については、楽しさ半分不満半分であったりするのだが、それについては後で記す。
****映画として批判されるリスク****
この映画が、映画的に批判されるとしたら(ここでは単純な朝鮮嫌いたちの盲目的バッシングは批判の数に含めない)、カリカチュアされた描写だろう。
カリカチュア
「事物を簡略な筆致で誇張し、また滑稽化して描いた絵。社会や風俗に対する風刺の要素を含む。漫画。戯画。風刺画。カリカチュール。」
前作でも70年代の風俗や全共闘やらがカリカチュアされていたが、ギリセーフだったと思う。
しかし近作では、少しやりすぎな感じがする。
右翼にいちゃんたちの描写もそうだが、映画「太平洋のサムライ」などはやりすぎてむしろ笑えないくらいだ。
戦時中の国策映画じゃあるまいし、あそこまで露骨な特攻賛美はないんじゃないかと思うし、メディアにバンバン露出している割に、挿入される映画のショットはことごとくハリボテ感ただよう安っぽい映像である。ギャグのつもりなんだろうなとわかってしまうのがかえって笑えない。
むしろ、朝鮮人側のカリカチュアの方が、ツボを抑えている。
父親たちが日本軍に無理矢理集められ、そこから逃走するシーンにおける、朝鮮人たちのオーバーアクトはまるで反日国策映画をそっくり再現しているようで笑える。
うまい犬肉食わしたる、とか、白蛇の祟りばらいとか、自虐的ともいえる「朝鮮人もけっこうアホやろ」描写が楽しい。
深刻な差別問題、民族性の違いとか歴史認識とかを扱いながらも、どこかで「たかが映画やろ」と一歩引いて観ているのではないだろうか。
あまりに激しく反差別を訴えるのをやめて、あくまで楽しい映画であろうとしたのだろう。
だが、ギャグに逃げずに、やるならとことん戦ってくれと、むしろ朝鮮贔屓たちから批判されかねないくらいに、この映画はエンターテインメントであることをを言い訳にしている印象を受けなくもない。
****最後に個人的に少し不満なとこ****
キョンジャの反戦スピーチのせいでプレミアをめちゃくちゃにされてしまったにもかかわらず、「これはこれで話題になるよ」と言う右翼思考の映画プロデューサがキャラとしては魅力的だった。誰よりもしたたかで、さすが大物だなと思わせるキャラである。
反共映画をプロデュースするかと思えば、アカ狩りを告発する映画を自ら監督するアーウィン・ウィンクラーを思い出す。
だからこそ、その「悪者」プロデューサが、善良で差別嫌いの日本人にぶん殴られて、キョンジャが芸能界から「救出」され、ささやかながらも平和な生活へと還る展開が個人的には不満である。
むしろキョンジャがあのプロデューサと組んで思想的に対立しながらも二人で芸能界を駆け上がっていく物語へと続いてほしかった。
********
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結論から言うと、とても面白かった。
****青春映画から社会派娯楽映画へ****
客観的に見れば、前作の方が映画として優れている。
前作は、あくまで青春映画であり恋愛映画であった。ロミオとジュリエットのアレンジストーリーだ。
若い男女の恋を阻む大きな壁として民族同士の歴史的確執があり、それらは決して解決しないけれども、若いカップルはそれを乗り越えて恋を実らせる。
よくできた恋愛映画であり、本来万人受けする内容であった。実際キネ旬一位をはじめ数多くの映画賞に輝いているし、ミニシアター作品という規模の中ではヒットもした。
しかし、ご存知の通り、世の中には、特にネット上には、盲目的韓国・朝鮮ぎらいがいる。
かつてのナチスの、ユダヤ人は全部ダメ、ユダヤ人の考えた理論を使って研究することもダメ、とキチガイじみた反ユダヤ主義のように、朝鮮嫌いたちは朝鮮人と日本人の恋愛物語なんてそれだけで腹立たしいと、映画「パッチギ!」に猛烈なバッシングを加えた。
それで頭にきたのだろうか?
続編はもはや青春映画だの恋愛映画だのといったジャンルムービーの皮をぬぎすて、直接的に差別と戦争を題材にした社会派映画といってもいいものになった。万人受けはすまい。
壮絶な内容である。
兄は映画を観る限り日々暴力に明け暮れ、横領と密輸で金を稼ぐ。
妹はいかがわしい芸能プロダクションに所属し、月並みではあるが、プロデューサと寝て役を得る。
妹はともかく、兄はどうみてもただの犯罪者である。
だから朝鮮人は!!
お前みたいな奴のせいで俺たちが!!
と、どっちの陣営からも批判されそうなキャラである。
しかし、佐々部清監督の(あのつまらない)「カーテンコール」のように、「善良な朝鮮人、差別に耐えて頑張っています」的物語より「差別には、男は暴力と犯罪で、女はセックスで立ち向かう」物語の方が、映画としてはるかに面白い。
実際、そういう人たちと仲良くなれるかはわからないが、映画のキャラとしての魅力は圧倒的だ。物語ははるかにエキサイトするし、犯罪だセックスだとなれば因果応報的に様々なトラブルにも見舞われて、物語は必然的に二転三転していく。
こういうキャラを主役に設定することで、差別する側とされる側の戦いをフェアにしているような気がする。
一方で敵対する右翼のにいちゃんたちはと言えば、これが過度なカリカチュアにより、一見するとコミカルで、ある意味「単なるアホで、にくめない連中」として描かれる。
しかも、朝鮮人VS右翼の血みどろの殴り合いではお互いに気の済むまで殴り合わせることで、いわば差別側を許しているともとれはしないだろうか?
差別自体の否定というよりは、差別はあるという前提でそれでもたくましく生きていく人間たちを描くことで、まずは娯楽として成立させることを重視している。
だから面白いのだが、一方でカリカチュアによる問題点も生じる。それについては後述する。
****愛と平和のメッセージ****
恋愛映画という太い背骨を失い、物語はバランス感覚を失い、差別、暴力、戦争、芸能界、右翼、恋愛、難病、ギャグ、風刺・・・と、とめどもなく様々な方向にむいてはぶれていく。にもかかわらず、立派にエンターテインメントとして成立させたのは、脚本家羽原大介(「パッチギ!」「フラガール」そして「ふたりはプリキュア」)の見事な構成力によるものである。詰め込みすぎ感が逆に、次どうなる?次どうなる?と期待感をあおる。
話がぶれて、青春映画としての体裁もないため、物語は着地点不明のままさまようが、終わってみるとなんてことない、サブタイトル通りに「LOVE & PEACE」というメッセージに無事降下する。
LOVEは家族愛で、これはそれほど強く訴えかけてはこないが、PEACEについては強烈に訴える。
父親は朝鮮人として「日本のために死ねるか」との思いで、兵役から逃げ、戦場を逃げ回る。
その思いは娘に受け継がれるが、それは娘の中でもっと大きなものに進化する。
彼女が朝鮮人であることに固執していれば、日本人が戦争で特攻して死のうが、まして映画の中でなら、勝手にやってろよと思うことだろう。だが彼女は国籍も民族も関係なく、人として、愛するもののために死ぬという考えに反対する大演説をぶつのである。どんなに無様であろうとも生きて帰ってきてと願うことこそ愛なんだと。
父から娘へと受け継がれ、しかも時代を経て進歩していく、愛と平和についての考え。そこは単純に感動できる。
ただしこの反戦大スピーチとその後の展開については、楽しさ半分不満半分であったりするのだが、それについては後で記す。
****映画として批判されるリスク****
この映画が、映画的に批判されるとしたら(ここでは単純な朝鮮嫌いたちの盲目的バッシングは批判の数に含めない)、カリカチュアされた描写だろう。
カリカチュア
「事物を簡略な筆致で誇張し、また滑稽化して描いた絵。社会や風俗に対する風刺の要素を含む。漫画。戯画。風刺画。カリカチュール。」
前作でも70年代の風俗や全共闘やらがカリカチュアされていたが、ギリセーフだったと思う。
しかし近作では、少しやりすぎな感じがする。
右翼にいちゃんたちの描写もそうだが、映画「太平洋のサムライ」などはやりすぎてむしろ笑えないくらいだ。
戦時中の国策映画じゃあるまいし、あそこまで露骨な特攻賛美はないんじゃないかと思うし、メディアにバンバン露出している割に、挿入される映画のショットはことごとくハリボテ感ただよう安っぽい映像である。ギャグのつもりなんだろうなとわかってしまうのがかえって笑えない。
むしろ、朝鮮人側のカリカチュアの方が、ツボを抑えている。
父親たちが日本軍に無理矢理集められ、そこから逃走するシーンにおける、朝鮮人たちのオーバーアクトはまるで反日国策映画をそっくり再現しているようで笑える。
うまい犬肉食わしたる、とか、白蛇の祟りばらいとか、自虐的ともいえる「朝鮮人もけっこうアホやろ」描写が楽しい。
深刻な差別問題、民族性の違いとか歴史認識とかを扱いながらも、どこかで「たかが映画やろ」と一歩引いて観ているのではないだろうか。
あまりに激しく反差別を訴えるのをやめて、あくまで楽しい映画であろうとしたのだろう。
だが、ギャグに逃げずに、やるならとことん戦ってくれと、むしろ朝鮮贔屓たちから批判されかねないくらいに、この映画はエンターテインメントであることをを言い訳にしている印象を受けなくもない。
****最後に個人的に少し不満なとこ****
キョンジャの反戦スピーチのせいでプレミアをめちゃくちゃにされてしまったにもかかわらず、「これはこれで話題になるよ」と言う右翼思考の映画プロデューサがキャラとしては魅力的だった。誰よりもしたたかで、さすが大物だなと思わせるキャラである。
反共映画をプロデュースするかと思えば、アカ狩りを告発する映画を自ら監督するアーウィン・ウィンクラーを思い出す。
だからこそ、その「悪者」プロデューサが、善良で差別嫌いの日本人にぶん殴られて、キョンジャが芸能界から「救出」され、ささやかながらも平和な生活へと還る展開が個人的には不満である。
むしろキョンジャがあのプロデューサと組んで思想的に対立しながらも二人で芸能界を駆け上がっていく物語へと続いてほしかった。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
いやあ、こういう見方もあるんですね。
とても考えさせられました。
映画って、その観点によって
まったく変わってくると言うことを
改めて感じました。
いつもお世話になっております。
えいさんも指摘していた「戯画化と言うか誇張が激しく」ということについては同感です
ただ実は前作よりも、メッセージ制が直接的になっている今作の方が(やり方として下手かもしれないけど)私は好きだったりします。
一般受けは絶対前作の方がするでしょうけど
コメディ映画かアクション映画として考えれば大人げない乱闘もアリかなと思ったりもします。
主張を映画に取り入れていることには興味があるけど、主張そのものには実はあまり興味がない観方をする人間なもので、こんな感想になったんだと思います。
そんなこんなでコメントどうもでした。
この映画、単なる恋愛映画じゃないんです。
井筒監督によれば、この映画を作った理由の一つは、現代の日本人が知らない過去の歴史を学んで貰うため、だそうです。
あの作品のクライマックス直前、葬式のシーンである老人が主人公を詰ったシーンがありました。
あのシーンについて、井筒監督は朝日新聞、H19年2月9日夕刊の記事において、次のように答えてます。
<最近の日本は、悪しきナショナリズムで自分の国のことばかり語り過ぎる。日本が周りの国にどんなひどいことをしてきたか、知らなきゃ本当の友達にはなれない。無知は罪ですよ。若い人には、この映画を見て、泣いて笑って、そして知ってほしい。>
実際、あのシーンを見て、歴史に関心の無い人達の多くは、昔の日本はそんな事をしてたのか、と思った様(何人ものブログを見た限りでは)です。
ですが、日韓の歴史に関してある程度知っている面々(私も含む)に言わせれば、あの老人の台詞は嘘なんですよね。無理矢理連れてこられた、なんて言うのは。
この映画が作られる何年も前に出版された、鄭大均・都立大学教授の「在日・強制連行の神話」という本では、在日が無理矢理連れてこられたというのは神話(嘘と言うこと)で、実際には自分の意志でやって来た、と主張しています。
他にも、この映画で描かれている、北朝鮮への帰国事業が史実と異なっています。
これについては、元・在日三世にして名古屋大学の講師である、浅川晃広氏がこの作品を名指しで非難しています。
こういった点について、この映画は散々批判されていますが、「朝鮮人と日本人の恋愛物語」が駄目、なんて批判する人がいるんでしょうか?
私は見たことありませんが。
嘘なんだフーン。だから何?でもバッチギは面白いよね・・・というのが私の基本的考え。
井筒がどう考えているかより、結果としてそれが傑作となるかどうかが重要だ。観客の受け取り方と監督の主張が一致する必要はないと思う。
例えばの話だけど、別にシンドラーがほんとはユダヤ人を利用していただけだったとしても、最悪、ホロコーストなんてホントは無かったってことが定説になったとしても「シンドラーのリスト」は傑作だと思う。それが定説ならヒットはしなかっただろうが
映画にイデオロギーや歴史認識はつきものだが、映画の価値はそういうものと違う次元で決まる。
イデオロギーや歴史認識と関係なく「駅馬車」も「十月」も「民族の祭典」も傑作だ(知らなかったらごめんね)
右寄り作家たちを総動員して朝鮮人強制連行のねつ造を暴く傑作サスペンス映画でも作られたらいいね。傑作ならほめてやるよ。
日本人と朝鮮人の恋愛がダメなんて批判する人を見たことあるかないかということで言えば、私は見たことあるよ。不毛な言い合いだね。
そういう人たちも、奴らは歴史をねつ造するから、恋しちゃいけないんだ・・・と反論するだろうけど
結局、「朝鮮嫌い」という感情論は(時にそれだけが暴走するけど)、その根底には歴史的、政治的な確執があるということだろう。
だからこういう問題を扱う映画はとてもリスキーだが、それをきちっと作品にして世に出す井筒の方が、ネットで吠えるだけの奴らより私は好きである。吠えるのも自由だけどね