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空気人形 [監督:是枝裕和]

2009-12-05 22:55:50 | 映評 2009 日本映画
個人的評価: ■■■■■□
[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)]

韓国の女優と台湾のカメラマンと日本の監督による日本映画。三カ国の才人が結集し神々しいばかりに美しい映画が生まれた。

ペ・ドゥナ。
ぶっちゃけ、美人でもカワイイでもない。印象深い派手なパフォーマンスをするでもなく、過去の大ヒット作の当たり役の記憶が残っていたりなど勿論ない。
しかし、私は彼女がそこにいるだけで、気になって気になって仕方なくなる。そんな存在感。過去に5作品で彼女を見てきたが、いずれもどこかぼんやりした女の子のイメージ。周りに流されずマイペースで楽しんでいるような印象。
彼女がそこにいるだけで映画はコメディ映画の雰囲気を持つ。
つまり彼女はひたすらに異物として映画の中に存在してしまうのだ。決して映画の中に取り込まれることは無く、ひたすらに異物であり続ける。
だから気になるし、記憶に残る。
だからこそ人間世界の中をふわふわと漂うように飛び回る本作の空気人形役は彼女にうってつけの役だった。

重要なのは、彼女は、「ひたすらにペ・ドゥナであり続ける女優」ではなく、「異物になりきる女優」という点だ。
本作の彼女を観ていると、それがペ・ドゥナという女優であることを忘れ、意思を持った人形として作品中の彼女を認識してしまう。
意思を持ち好奇心のまま徘徊する人形として
心を持った人形として
息を吹き込まれ恍惚する人形として
空っぽな心でセックスの道具となる人形として
廃棄された人形として

わかりやすい芝居をするでも、リアルなメイクが施されるでもなく、しかし顔いっぱいに感情を表すかと思えば、完全に顔から心を消す、それだけで様々な人形を完全に演じ分ける。

ペ・ドゥナが人形を演じたこの作品を観賞後に、ある一人の人物をふと思い出した。といっても実在の人物ではなく、漫画の中のキャラである。
「ガラスの仮面」というスーパー面白い漫画を知っているだろうか。その主人公、北島マヤを思い出す。
マヤは美人でも可愛いでもない「ただのみそっかす」であるが、演技の天才である。
「ガラスの仮面」にこんなエピソードがあった。天性の演技勘で演劇界で次第に知られていくマヤは多くの舞台で、脇役として客演を務めていくようになるのだが、その一方で彼女は脇役にもかかわらず主役を食ってしまうほどの存在感を放つため、「舞台荒らし」と恐れられ出演依頼がこなくなってしまう。
そんなマヤに彼女の師匠である月影先生は新たな試練を与える。彼女に人形役を与えるのだ。
ほぼ出ずっぱりの役でありながら、人形として完全に心を消し、観客にその存在を意識させてはいけないという。月影先生曰く、人形に心があることを観客に感じさせたらこの舞台は失敗だと言う。ある意味で超難役ともいえる人形役にマヤは果敢に挑む。そして、共演者でさえマヤの存在をわすれてしまうほどに、マヤは人形になりきる。しかしある日の公演で、とっても悲しい出来事があったマヤは本番中にもかかわらず涙を流してしまう。機転のきく共演者が咄嗟に花瓶の水をマヤにぶっかけたため事なきを得るが、月影先生にむちゃくちゃ怒られるマヤだった。
そんなマヤが性処理代用品の空気人形役のオファーを受けたらどんなアプローチで挑むのだろう。ヘレン・ケラー役の感覚をつかむため数日間も目と耳をふさいで生活したマヤのことである。男たちとセックスしまくるのだろうか。そんなマヤを速水社長や桜小路君はどんな思いで見るのだろうか。

なんだか本論からズレてしまったが、ペ・ドゥナはマヤと違い、心のある人形を演じ、それでいて人形であることを感じさせるという、北島マヤ以上に難しい役を演じきる。しかも時としてマヤと同じように心の空っぽになった人形にもなる。
そんな彼女の変身を支えるのは、大きな目だ。その目は時として好奇心でいっぱいになり、絶望でいっぱいになり、川面を滑る遊覧船とともに流れていく街を写し、生と死の狭間における恍惚を浮かべ、そうかと思えばどす黒い虚無になる。
大げさでなく、本作のペ・ドゥナの演技は奇跡の名演と呼ぶにふさわしい。ペ・ドゥナは完璧に人形を演じきったのだ。本年度の映画における一番の名演どころか、ここ10年くらいで考えてもベストクラスの演技だったと言えよう。

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本作で、自分の心をズギューンとゴルゴのように撃ち抜いたのはペ・ドゥナの演技だけではない。
リー・ピンビンのカメラもだ。
徹底的にカメラは被写体から遠く離れ、被写界深度の浅い望遠レンズで撮影される。
被写体と背景でフォーカスは明確に別れ、前景と後景でもくっきりとわかれる。我々はその映像に日常の肉眼風景では見れない遥かな奥行きを見る。スクリーンという二次元世界が撮影マジックではっきりと三次元になる。それは本物の三次元より三次元的に見える。
映像は作品全般で、空気をイメージした漂い流れるようなゆっくりした移動撮影が施されているが、そこに望遠レンズによる奥行き感が加わることで、「世界は空気で満ちている」ことを我々により強く認識させる。同時にピンぼけした背景の中に浮かぶペ・ドゥナを写すことで人形の孤独感をも際ただせる。
これしかないと思った。安い映画でもとにかく遠くから望遠で狙えばそれだけで画はきれいになる。そんなのは所詮ただのまやかしの美しさに過ぎないかもしれないが、だったら私はまやかされ続けたい。
今、短編映画を撮っている。いまさらながら「空気人形」の望遠映像に衝撃を受け、とにかくカメラを俳優から遠ざけて撮っている。自己満足かもしれないがそれらの絵はやっぱ美しい。カメラ離せばかっこいい画が撮れるの法則を実証中。もうカメラを持って俳優に近づくなんて(その必要に迫られない限り)したくない。
どうして日本映画はもっとこういう画を撮らないのだろう。
私は勝手にリー・ピンビン撮影監督を師匠と呼ぼうと思う。

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[追記]
空気人形Q&A

Q1・・・どうして空気人形は動き出したんですか?
A・・・それは製作者がオダギリジョーだったことから考え、仮面ライダー的な力が働いたと考えるのが妥当でしょうね。
少し深読みしますと、オダギリさんの奥さんは言わずと知れた香椎由宇さんですが、彼女は「リンダリンダリンダ」でペ・ドゥナと共演しています。思うにオダギリさんは本当はあの女子高生バンドのボーカルの娘に近づきたくてギター担当の香椎さんに近づいたんじゃないでしょうか?そのうちズルズルと香椎さんと結婚してしまったオダギリさんはそれでもペ・ドゥナさんが忘れられず、韓国でキム・ギドクの映画に出たりもしましたが満たされず、ついにペ・ドゥナさんの人形を作ってしまったのです。
オダギリさんの熱い思いが込められた空気人形は「超変身!!」とか叫んで人間に変身したのでしょう

Q2・・・空気人形はどうやって死体を高層階から一階まで運んだのですか?
A・・・はい、それはもちろん彼女が普通に運んだのです。作品を見る限りあの空気人形は自分の質量を自由に変化させることができることが判ります。そうでないと家の中ではふわふわと舞っているのに、レンタル屋ではステップを踏み外してズシンと落下する理由がわかりません。質量が変わるということは筋肉組織の代わりの器官も増えるということです。おそらく愛する男を失った悲しみで体重を数百キロくらいまで増加させ、難なく死体を運んだのでしょう。
だったら皮膚を強化して穴空き対策ぐらいしろよとお思いでしょうが、所詮中身は空気なのでそこまで頭はよくありません。

Q3・・・どうして寺島進さんは何をやってもヤクザっぽく見えるんですか
A・・・それはあの方がワルだからです。でもな、そんなワルを作ったのはどこのどいつだ。お前たちだよ


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