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ハーフェズ ペルシャの詩 [監督:アボルファズル・ジャリリ]

2008-05-15 18:46:31 | 映評 2006~2008
個人的評価:■■■■□□
[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)]

【作品評】
私の心に感じたまま自由な解釈によって言わせてもらえば、これは宗教映画である。
とはいってもイスラム教の布教啓蒙を目的とした宗教映画というわけではない。信教の在り方とは何ぞや?・・・というところを問いかける、という意味での宗教映画である。
何教の信者であろうとも、私のように無神論者であろうとも、人にとって宗教とは何だろう・・・と考えさせ心に残る作品である。
(映画オタク的に表現すれば、セシル.B.デミル的宗教映画ではなく、イングマール・ベルイマン的宗教映画である。)

宗教を否定する映画ではない。神の存在を信じている。そしてベルイマン的「神の沈黙」、黒澤的「嘆く天」のように下界不介入の神様ではなく、正しきものに祝福を与えるという割と下界に対しオープンな神様である。
同じイランのマジッド・マジディ監督は無垢なる少年の無償の愛に神が祝福を与えるような描写が印象的であったが、それは無垢なる魂への賛歌であった。
「ハーフェズ」の主人公は無垢な子供ではなく、立派な大人である。彼は詩人でもある。詩は、音楽や美術と同じように明確な意味を読み取ることより、むしろ一人一人が自由に解釈し感じ取るからこそ美しい。
アラビア語でコーランを暗唱できる者に授けられる「ハーフェズ」の称号を持つ聖職者でありながらも、詩人として宗教に対し自由な考えで心の赴くままに行動していく主人公。しかし、教義や戒律による思想制限、宗派の対立、そして警察国家の厳しい取り締まりは彼の自由思想を危険とみなす。
恋人と引き離され社会から拒絶される主人公だが、彼が心のままに行った修行は数々の奇跡を引き起こす。
そう、この映画は宗教映画であると同時に、束縛を拒否し自由を求める芸術家への賛歌とも言えるのではあるまいか。神への愛と芸術家の魂がそれぞれ高めあう様を描き、暗に古い因習に囚われた宗教観を批判している。

ただこの映画が曲者なのは、黒澤やベルイマンのように判りやすい作りになっていないことである。
ベルイマンは難解な作家と言われはしたが、ベルイマンの映画はストーリーはよく判るがその意味するところがよく判らないものだった。
対してジャリリの本作は、まずストーリーを語ろうとしておらず、どんなストーリーだったかまで観た人それぞれの解釈に委ねているといってもいい作りになっている。

どういうことかと言えば、まずストーリーを説明するための台詞がほとんどなく、感情移入を促すようなモンタージュもほとんど用いられない。いわゆる「淡々とした映画」である。
まずストーリーがあってそれを伝えるために台詞を設けているのが一般的な映画のつくり方だとすると、本作はその場その場での出来事を写し取り、つなげてみたらそこに薄ぼんやりとストーリーらしきものが浮かんできた・・・かのような作り方である。感触としては劇映画よりむしろドキュメンタリーに近いのだが、もちろんこの映画は脚本があって俳優が脚本に書かれた台詞を喋っているわけだから、意図的にドキュメンタリー的なストーリーテリングを目指している。
ドキュメンタリーみたいなフィクションは、ジャリリの他の作品も、というかイラン映画全般に通じるスタイルではある。しかしイラン映画のそうしたスタイルは、俳優ではない一般人たちをキャストにして映画を作り、それによって自然とにじみ出てくる「現実の重み」に依存していたような気がするが、本作では俳優と演技と脚本によって意識的にドラマを追う事を映画作りから排除した様に感じる。

結果、ドラマとして観た場合、エピソードの時間配分などは明らかにバランスを欠いている。エピソードを全て時系列で並べ、主人公の意図不明な行動なども特に説明せず淡々と描写し、やがてああそういうことだったのかと判るようにはなっているが、台詞の力の編集の力にも頼らず起こったことを全て描いていくものだから時にエピソードは異様に長くなる。
それでも全編その姿勢を貫く事が、監督の意図として必要だったのだろうが、それでも観ていて感情移入が途切れつらくなるところは否めない。
特に、終盤あたり、第二の主人公ともいえるシャムセディンが主人公の試練の旅の後を回るところの長さはつらい。
主人公の試練の旅の後に起こった奇跡を追いかける、というのはテーマ上必要なエピソードだっただろうし、主人公ハーフェズの本名と同名のキャラが、主人公の起した奇跡を知るというところに、何か重要な意味があるような気もする。それでも、物語は引き離された恋人の2人にフォーカスをあて、2人に起こる出来事を中心に進めていくほうが、感情移入はしやすいし、映画の軸もぶれなかった気もする。
(日本人的にもっと麻生久美子(主人公の恋する女性役)の出番を増やして欲しかったという残念感もあるのだが。)

それでも、監督が追い求めた信教の在り方というテーマには色々考えさせられるところもある。
メタファの散りばめられたような「もう何度か見れば意味がわかりそう」と感じさせる様々なショットや小道具などに興味も沸くし、荒涼としたイランの大地の美しさをそのまま切りとった映像や、そこに生きる人々の日本人には意味不明な儀式などにも心惹かれる。
基本的には難解で?マークがいっぱい溢れる映画だし、他のジャリリ作品ほど心打たれたわけではないのだが、やっぱり心に引っかかる印象深い映画であった。

【監督のこと】
監督の説明が後回しになったが、本作はこれまで「かさぶた」「ダンス・オブ・ダスト」「キシュ島の物語 (第二話)」で私を魅了してきたアボルファズル・ジャリリの新作。個人的にはイランの監督で一番好き(キアロスタミなんかよりはるかに好き)。
キアロスタミやマジディとともにイランの子供映画のメインストリームを形成してきた人物だ。過酷な環境で生きる子供たちを題材にし、実際に現地で暮らしている子供たちを出演させて作る映画は、既に述べた通りドキュメンタリと劇映画の境目が曖昧になる。そして暗に社会批判を込める反骨ぶりも、観る者に生きる力を与えてくれるようだ。

【キャストのこと】
本作は麻生久美子の大ファンだったというジャリリが是非是非とお願いして、麻生の海外進出第一弾と相成った。麻生は出番も少なく台詞も少なく、演技的な見せ場はほとんど無い。しかしいたずらっぽく微笑む彼女はとても可愛らしく、チベットの民族衣装もよく似合い、子供っぽくも神秘的な雰囲気を醸す。監督の麻生久美子へのほれっぷりがよく出ていた気がする。
また主人公を演じたメヒディ・モラディという俳優がいい。
アジア・中近東の映画によくある、「えー、こいつが主役??」みたいなセックスアピール・ゼロなブオトコさんが主人公ではない
主役のメヒディ・モラディが、なかなかの濃い顔イケメンというか、ちょっとアントニオ・バンデラスっぽい、イスラム教国の男性にこんなこと言うといけないのかもしれないけど、セックス強そうなフェロモン俳優的風貌。他の男性キャラがみんな日本人にはなじみの無い民族衣装姿なのに主人公はいつも黒いスーツをビッと着ていて、西側文化圏の人たちには受け入れられやすいルックスである。
その彼といい、一人だけ色白東洋人な麻生久美子といい、他のイラン一般人っぽい地味~~な方々とは明らかに一線を画した安心感のある外見であり、また他の傍役たちと一目で別人と判り印象にも残る外見でもあり、イランの俳優さんたちのことをほとんど知らない私には親切なキャスティングである。

----本作の批評はここまで。以下は自分のために自分なりに整理したストーリー解説-----
【私のための私なりのストーリー解説】
主人公は詩人である。役名はハーフェズだが、これは本名ではなくコーランを全部暗唱できる者に与えられる称号である。また、公式HPによればハーフェズとは昔々に実在したペルシャの国民的詩人の名でもあり、主人公はコーランの司教(?)様との禅問答(?)や、コーランの記述内容の意味を聞いてくるナバートに対し、古い詩人ハーフェズの詩をもって答えたりする。
そもそも詩とは、明確で理路整然とした文章ではなく、音楽や美術と同様に、見聞きした人それぞれの感じ方によって全く異なった意味を持つ、形の定まらないものである。法律を石とすれば詩は雲の様なものだろう。
詩人でもある本作の主人公ハーフェズは、心に思うまま自由に解釈を膨らませることに美徳を感じる芸術家タイプの人間であった。
一方で、主人公を取り巻く環境は、そんな芸術家魂の人間にとっては窮屈この上ない。
教義の違いから対立する二つの宗教組織がある(その「教義の違い」は、恐らくは「コーランの解釈の違い」によって生まれたものだろう)。それぞれには戒律があり、それを破ることは当然許されないし、また社会の伝統を重んじる風潮も強い保守的な環境では新しい事は好まれない。おまけに、イスラム国家としてコーランに背く者たちを容赦なく取り締まる警察(軍かも?)の姿も写される。自動小銃をちらつかせる警察によって師父さまの家に連れてこられる主人公ハーフェズの姿が、冒頭で写される。また婚礼祝いをする家に警察がガサ入れに入り、外国製のウィスキーやウォッカを取り上げ飲酒した者を逮捕する描写もある(検閲通るのかこれ・・・と余計な心配をさせられる)。
少なくともコーランに関しては勝手な解釈など決して許されない。政府とあと各地方や宗教組織の決定に従わねばならない。
さて、ハーフェズのもとに使いが来て、彼の所属する対立する宗派のとっても偉い人から、娘にコーランの暗唱を教えてくれと頼まれる。
なんで対立宗派に依頼するのか、はっきりとは語られないが、おそらくあの界隈でハーフェズの称号をもっていたのは主人公くらいだったのだろう。
問題の娘さんはナバートといい、宗教組織の偉い方の娘さんで、イラン・チベット混血のかわいらしい娘さんである。
さてコーランというやつは日本語版もその辺の書店に行けば買う事はできるが、本来はアラビア語で書かれたものだけを「コーラン」と呼び、他の言語に翻訳されたものは厳密にはコーランとは呼ばない。イスラム教徒としては、アラビア語でコーランが読めるようになるというのは、少なくともイスラムの聖職者にとっては必修の教養なのである。
イランはペルシャ語の国であるし、しかもこれまでチベットで暮らしてきたナバートは、アラビア語の読み書きなどほとんどできなかったろう。
そこでアラビア語ペラペラのハーフェズが登場となる。
このコーラン暗唱の勉強は、英語を喋れない俳優がハリウッド映画に出るためボイストレーナーをつけて一生懸命発音の練習をするのと似た様なもんだろう。ハーフェズは発音だけ教えればいいのだが、好奇心いっぱいのナバートは、どういう意味?どういうこと?と、発音よりも意味・解釈を知りたがる。
そこでハーフェズもついつい、得意の詩をもってコーランの解釈を語るのだが、これがいけない。暗唱だけ教えろと言ったやんけー!!と、聖職者さまに怒られるのである。コーランに個人の勝手な解釈を施すなどもっての他、というわけだ。
でも娘は意味を知りたがる。
またハーフェズはハーフェズで、ナバートに恋心を抱いてしまう。
ナバートがハーフェズにコーランの意味は?と聞くのも、単に好奇心からだけではなく、彼女もまたハーフェズに恋心を抱いたからでもある。
この辺の2人の恋心が燃え上がる過程がまた、はっきりとは語られず、うすぼんやりと匂わされるのみであるし、恋に落ちるまでが、この淡々とした作品の流れに追いてさえなお、あっという間に恋に落ちちゃった感が強い。
100年前から続く映画の伝統「ボーイ・ミーツ・ガールの法則」。いい男といい女が出会えば、即効恋の炎が燃え上がる・・・に則ったまでと、そこは突っ込まずに流してあげましょう。
ま、ともかく惹かれ合う2人は、コーラン暗唱の学習中に私語をし見つめ合うなどという「戒律違反」を犯してしまい、ハーフェズは家庭教師をクビにされた上、「ハーフェズ」の称号まで剥奪されてしまう。
しかもナバートは父の命令で好きでもない男と結婚させられてしまう。
警察にも目を付けられ、近所の過激な連中は戒律違反のハーフェズをとっちめてやれと、家を襲撃。
その後彼は、恋する女性を忘れるため、「七つの鏡の誓願」に出発する。
七つの村で処女に鏡を拭いてもらい、代わりに拭いてくれた女性の願いを一つかなえてあげる・・・というものだ。
地元の人たちは「アホねえ、あの誓願は恋の願いを叶えるためのものなのよ」と、くすくす笑っているが、自由な詩人ハーフェズ様はそんな因習に囚われなどしない。恋を忘れるにはこれしかないと思えば、真っすぐそれに突き進む。
ところでこの「鏡」というやつが、本作の重要な小道具である。何度も印象的に写される。物を写す鏡の宗教的な意味についての説明もあったが、淡々とした流れの中でさらっと語られただけなので、忘れてしまった。
ともかく鏡の誓願に赴くハーフェズ。
鏡拭きと引き換えにパンを500枚焼いて頂戴と言われたら、まずパンの材料を買うための金を稼ぐところから丁寧に丁寧に描いていく。何の説明もなしに井戸の水汲みの様子が延々と写され、何やっとんのじゃい?と思ったら、その水を売って金にする。そんな感じでやっと材料を買いパンを焼き・・・やっと出来上がるころにはそもそも何でパン焼いてるんだっけと、忘れてしまうくらい鏡の願かけの試練は長くつらい。しかも焼き上がったパンは泥棒にとられてしまう。
またとある村でやっと見つけた処女は、いい歳した初老の女。私の願いは結婚することよ、と言えば結婚までしてあげるハーフェズ。恋を忘れようとしてんだか、やぶれかぶれになってんだかよく判らない。しかしその老女は結婚式の日に満足げな顔で急死(処女のまま)
しかししかし、神様はそんなハーフェズの試練を看過してはおられなかった。ハーフェズの本名と同名の男シャムセディン(ハーフェズの宗派で、下っ端働きをしていた男)が、ハーフェズを探して彼の旅した後を追いかけてみれば、ハーフェズが試練の旅をした後には数々の奇跡が起こっていた。
しかもそのころナバートは、ハーフェズから引き離されて以来日に日に衰弱していたのだが、ハーフェズへの想いの強さを知った亭主は離婚を認める。しかも亭主さん、自分を想ってくれないナバートと夫婦の契りを交わす事ができずナバートは処女のままであった。なかなかいい奴じゃないか。
そしてラストだが、2人の再会は直接的に描かれない。
鏡にかけられる赤い液体(赤ワイン?イスラム国家でワインはないか)やら、鏡の上に置かれた二つのザクロなどで、ハーフェズとナバートの再会が暗示されるのみである。

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2 コメント

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TB有難うございます (佐藤秀)
2008-05-15 11:26:35
>あの誓願は恋の願いを叶えるためのものなのよ」と、くすくす笑っている

恋の願いが叶ったら、
I'm in the seventh heaven♪
てなわけでしょう。
返信する
コメントどうもです (しん)
2008-05-17 13:22:57
>佐藤秀さま
忘れるどころか叶っちゃったのだから、主人公的には計算違い、地域的には言い伝え通りだったわけです。
神様気まぐれ
いずれにせよ主人公の自己満足は満たされていたから
願いが叶わなくても
with or without you, I'm in the seventh heaven♪
てなかんじでしたでしょう。
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