文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

少なくともグーグル日本支社の支社長である人物の目に届く事を、強く願う。

2012年09月19日 23時20分03秒 | 日記

昨日、知人と電話で話ながらお互いに同じ画面をグーグルで検索して観て確認する事にした。

なんとまぁ、呆れた事に、私のグーグルの画面は、何者かに操作されていたのだった。

知人が観ている同じ画面の検索数には、65,000台の検索数とあるのに、芥川が観ていた画面は、8,950回等と言う信じられない数字が記載されていたのである。

当然ながら、電話の向こうで、知人は、あなたのグーグルのアカウントに何者かが、「なりすまし」を働いているのじゃないですか、と。

当然ながら、私は、即座に、グーグルのアカウントを抹消、退会したのだが、こんなに簡単に、犯罪を許す、グーグルと言う会社は、何と言う、いい加減な会社なのだろうか、と、つくづく思ったのである。

以前から、おかしいな、とは思っていて…検索数1,662,000回と出て来ていたものが、数分も経っていたかいないかのうちに、10万台の検索数に急減。

同じ画面を弊社専務とそれぞれのPC画面から確認していたのである。

専務は、数分、遅れてPCを開けたので、1,000人超、検索数が減ってはいたが。

その数分後に、急減したのである。

或いは、これ以前の、しばらく前の事、自宅で、PCを開けた私の目に、検索数748,000回と出て来ていた時もそうだったのである。
芥川は知人に電話をした。
彼はすぐにPC画面を開いて「確かに…」と話し合っていた時に、お互いの目の前で、この検索数が、突然、100,000台に急減した。

これらのことを連絡しようにも、繋がる電話が一本もなく、止む無く、彼らのフォームに書いて送ったのだが、何の返答もなく。

流石に、昨日は、酷過ぎたから、もはや、これは間違いなしと瞬時に決断して、登録の抹消と退会を為した訳である。

悪党というものの、執拗さ、「底知れぬ悪」「まことしやかな嘘」の国に由来する悪は本当に度し難いものだが、こう言う悪の犯罪を簡単に許し続けるグーグル社が、世界有数の会社であるなんて事は、本当は、在り得ないのだ、と私は、確信する。

私の、この章が、少なくともグーグル日本支社の支社長である人物の目に届く事を、強く願う。

勿論、米国本社のトップの目に届く事を更に強く願う事は云うまでもない。


参考文献 等…ウィキペディアから。

2012年09月19日 20時09分49秒 | 日記
阿片戦争を扱った作品

小説
『阿片戦争』陳舜臣著 ISBN 4061311883・ISBN 4061311891・ISBN 4061311905

映画
『阿片戦争』(1943年日本、監督:マキノ正博)
『阿片戦争』(1959年中華人民共和国、監督:鄭君里、岑范)
『阿片戦争』(1997年中華人民共和国、監督:謝晋[シェ・チン])

ドラマ
『年忘れ必殺スペシャル 仕事人アヘン戦争へ行く 翔べ!熱気球よ香港へ』(1983年)

参考文献
『支那外交史とイギリス〈その1〉アヘン戦争と香港』矢野仁一 著 ISBN 4122016894
『林則徐―清末の官僚とアヘン戦争』堀川哲男 著 ISBN 412202837X
『清代アヘン政策史の研究』井上裕正 著 ISBN 4876985200
『林則徐』井上裕正 著 ISBN 4891742291
『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』角山栄 著 ISBN 4121005961
 『近代の誕生 第Ⅲ巻 民衆の時代へ』ポール・ジョンソン 著 別宮貞徳 訳 共同通信社 ISBN 4764103427






からです。



 

日本への影響 …ウィキペディアから。

2012年09月19日 20時06分42秒 | 日記
日本への影響

清朝の敗戦は清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。

以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。

そのため魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。

幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。

天保14年(1843年)には昌平黌にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。

それまで異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた幕府は、この戦争結果に驚愕し、天保13年(1842年)薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる。

 この幕府の対外軟化がやがて開国の大きな要因となり、のち明治維新を経て日本の近代化へとつながることになった。



 

銀の高騰 …ウィキペディアから

2012年09月19日 20時01分28秒 | 日記
銀の高騰

アヘンの輸入量は1800~01年の約4500箱(一箱約60kg)から1830~31年には2万箱、阿片戦争前夜の1838~39年には約4万箱に達した。

このため1830年代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出し、国内の銀流通量を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらした。

当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動していた。

乾隆時代には銀1両(約37g)は銅銭700~800文と交換されていたが、1830年には1200文となり30年代末には最大で2000文に達した。

また、地丁銀の税額は銀何両という形で指定されるが、農民が実際に手にするのは銅銭であったため、納税の際には銅銭を銀に換算しなければならなかった。

 したがって銀貨が倍に高騰するということは納税額が倍に増えることに等しかったのである。

以下続く。



 

例えば日本の江戸幕府が長崎を拠点に行ったようなそれ…ウキペディアから。

2012年09月19日 19時56分59秒 | 日記
戦争の余波

清への影響

阿片戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。

北京から遠く離れた広東が主戦場であったことや、中華が夷狄(いてき:異民族)に敗れることはまま歴史上に見られたことがその原因である。

しかし一部の人々は、イギリスがそれまでの中国の歴史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。

たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に『海国図志』を著した。

「夷の長技を師とし以て夷を制す」という一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。

この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。

それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。

 ただし、この試みはあくまでも魏源による個人的な作業であって、政府機関主導による体系的な事業(例えば日本の江戸幕府が長崎を拠点に行ったようなそれ)ではなかったので、魏源による折角の努力も後継者不在の為発展せず、中国社会全体には大して影響を及ぼさなかった。



 

これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。

2012年09月19日 19時50分03秒 | 日記
以下も、前々章から続きウィキペディアからである。

終戦後の推移

1842年8月29日、両国は江寧(南京)条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。

この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。

このイギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。

この戦争をイギリスが引き起こした目的は大きく言って2つある。

それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。

しかし、結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的「全ての中国人にイギリス製の靴下を履かせる」という目論見は達成されなかった。

中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。

これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。




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おお、空海殿、と私は呟いた。

2012年09月19日 19時28分17秒 | 日記

殿。

有無。


この日、何故か、苦もなく外出が出来た私は、午前中の内に東寺に向かった。

何時もの様に、東門から入って直ぐに、堀に向かったのだが、

この日は、最初は何も居なかった。

が、堀の角を曲がって程なく、ひときわ高い、異様な鳴き声が響き渡った…青鷺は滅多に鳴かない。

大講堂の辺りから、青鷺が、見事な姿で、飛んできたのである。

おお、空海殿、と私は呟いた。


更に、堀を進んで行くと、空海殿が「病が癒えつつあるようで、何よりです」

と、云って現れたのである。

私の目に、涙が浮かんだのは当然だった。




2012/9/17、東寺にて。


以下も、前々章からの続きで、ウィキペディアから、である。

2012年09月19日 19時22分09秒 | 日記
以下も、前々章からの続きで、ウィキペディアから、である。

艦隊は林則徐のいる広州へは赴かず、いきなり首都北京に近い天津沖に姿を現した。

天津に軍艦が現れたことに驚いた清政府は(政権内の権力闘争も加わって)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。

1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出すが清政府はこれを拒否し、翌年1月7日、艦隊は攻撃を開始した。

虎門の戦いでは関天培らが奮戦するもイギリス側は完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。

1841年5月、広州に上陸したイギリス軍は略奪や暴行事件を起こして民衆の怒りを買い、正規軍である八旗兵ではなく、三元里と周辺の郷村の一万余の民衆が決起して「平英団」を名乗り、イギリス軍を包囲して攻撃した。

折からの豪雨で英軍は火器が使用できない状態で、刀や矛で襲いかかる三元里住民の攻撃に対して銃剣で防戦するも、英軍は全滅の危機に晒された。

英軍は広州の清朝政府に包囲の解除を求め、からくも脱出に成功した(三元里事件)。

 以下続く。



 

中国が、抗英、抗英等と言うのは誰も聞いたことがない…。

2012年09月19日 18時16分19秒 | 日記
そうだよね。信長さん。
今の、愛国教育=反日教育=ファシズム教育を受けた、中国人は、芥川さんが言及する通り、精神年齢12歳のファシストとなって、何かと言えば、抗日、抗日、と言うが、中国に対して戦争を為したのは、日本だけではなかった事は、歴史的な事実なのに、
中国が、抗英、抗英等と言うのを聞いたことはないでしょう。
つまり抗日というのは、プロパガンダではないと、誰が言えよう。
だから、日本は、信長さんが云うように、21世紀にもファシズムの教育が為されている事を、国連に提訴すべきなんでしょう。

 有無。




 

こんな恥さらしな戦争はない…ウィキペディアから。

2012年09月19日 18時11分26秒 | 日記
イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すればアヘン以外の貿易を許す」と返事した。
実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。
そこで、クェーカー教の教義に従ってアヘンを扱っていなかったトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。
これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
戦争勃発
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。
「麻薬の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の議会でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。
ちなみに当時のイギリス国内においてもアヘンの売買や使用は規制されておらず、宗教的・道徳的に忌避されていても、違法行為には当たらず反対論の中心であったグラッドストン自身も実はアヘン製剤の常用者であった。
アヘンに対する規制が強まるのは、1912年の万国阿片条約の締結以降の話である。

 …以下続く。




 

*同級生や先輩、後輩の方々は、林則徐…おお、懐かしいなぁ、と思われたはずである。

2012年09月19日 17時55分12秒 | 日記

アヘン取締
この事態に至って、清では官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。
概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い」というものである。
この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。
その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
*同級生や先輩、後輩の方々は、林則徐…おお、懐かしいなぁ、と思われたはずである。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。
1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年6月6日にはこれをまとめて海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって処分した(その化学反応で発生した煙によって、焼却処分したと庶民の間では伝承されてきた)。
この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。
その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
以下続く。






阿片戦争…ウィキペディアから。

2012年09月19日 17時43分26秒 | 日記
阿片戦争(アヘンせんそう、英: First Opium War, First Anglo-Chinese War)は、清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、アヘンの密輸が原因となった戦争である。アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも。
アヘン貿易
当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。
一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。
イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。
そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
清では、既に1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していた。
禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、また国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。
また、アヘンの代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。
  …以下続く。