以下は本日発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。日本国民のみならず世界中の人達が必読。
付け火天国
神奈川・大磯の城山公園の一角に旧吉田邸がある。
庭先からは市街地越しに相模湾が望めた。
三木武夫がそこを訪ねたとき、吉田は眺めのいい庭先にいて笑いながら三木を手招きした。
「ほら、悪党の家が燃えている」と平塚市街の方を指差した。
そこには河野一郎の二階建ての屋敷があって、紅蓮の炎に包まれていた。
少し前、民族派の野村秋介が河野邸を訪れていた。河野は不在で、野村は家人を退去させてから家に火を放った。
家人の中に生後6か月の太郎がいた。
野村は罪に服したあと今度は朝日新聞社長室に行って慰安婦の嘘ばかり並べる中江利忠を厳しく説教してから拳銃自殺した。
野村は河野邸の放火で吉田茂が大喜びしたことは最後まで知らなかった。
吉田は「インドネシアのスカルノと韓国の李承晩と河野一郎の三人を蛇蝎のように嫌った」と堤堯『昭和の三傑』にある。
三人ともカネに汚く、吉田はそれを最も嫌った。
「私のように親の財産を使って家を建てれば頼んでも放火はされない」と後に言っている。
「親」とは、元福井藩士の吉田健三のこと。
ジヤーディン・マセソン横浜支店長を振り出しに実業界入りし、フランネル輸入などで大きな成功を収めた。
吉田茂は健三に所望された養子で、40歳で急逝した養父は城山に建てた広大な屋敷と、当時のカネで50万円の財産を残した。
屋敷は昭和30年代に吉田茂が自費で数寄屋風に建て直している。
やましさの一片もない吉田邸なのに、2009年3月22日の朝、何者かによって放火された。
吉田の没後も大平首相とカーター大統領の日米首脳会談の場にもなった総檜造りの屋敷は火の付け所がよかったのか、全焼した。
実は貴重な文化財の放火はその一週間前にもあった。
横浜市戸塚区の旧住友家俣野別邸で、同じ時刻に放火され、全焼していた。
俣野別邸は昭和初期に建てられた西洋館で、04年に重文に指定され、一般公開に向けて補修中だった。
現場は高さ3㍍のフェンスがめぐらされ、侵入防止用の赤外線センサーも置かれていたが、犯人はその電源を事前に落としていた。
ここまで警戒していたのは前年の08年1月、県の重文指定を受け、一般公開用の整備をしていた藤沢市大鋸のモーガン邸が放火され、全焼していたからだ。
モーガンは東京駅前の旧丸ビルや郵船ビルを設計した米人建築家で、被害に遭った建物はモーガンが和のよさを取り入れた和風西洋館の私邸だった。
そういう前例があったから俣野別邸の補修工事は赤外線センサーを置いた。
放火犯はそれを事前に知っていたのだ。
吉田邸も実は俣野別邸やモーガン邸と同じように県の重文指定を受け、一般公開のために公費による補修が行われていた。
つまり三件とも国もしくは県の重文指定を受け、一般公開のために公費を使って補修中だった。
放火犯は内部事情に詳しい。
犯行は三件とも夜明けごろで、現場にはバイクで乗り付けている。
その線から様々な噂が出てきた。
例えば県の文化財保護に関わる部局で「大財閥が人民から搾取したカネで建てた建物にどれほど意味があるのか」みたいな論議も裏で出ていたとか。
吉田茂が「私は河野一郎とは違う」と言ったことはその場では言及されなかったみたいで、吉田邸も一緒に燃やされてしまった。
その辺から「金持ちの趣味を保存するために県民の血税を使うべきでない」と信ずる県庁関係者がホシと推測されていた。
ただ問題はそこまで犯人像が絞られながら、神奈川県警は動かなかった。
ここはオウムが坂本弁護士一家を殺しバッジまで残していったのに放置した過去がある。
今回も何もしないまま放火事件は時効を迎えた。
サンマが目黒なら「付け火殺しは神奈川がいい」なんて言われていいのか。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。日本国民のみならず世界中の人達が必読。
付け火天国
神奈川・大磯の城山公園の一角に旧吉田邸がある。
庭先からは市街地越しに相模湾が望めた。
三木武夫がそこを訪ねたとき、吉田は眺めのいい庭先にいて笑いながら三木を手招きした。
「ほら、悪党の家が燃えている」と平塚市街の方を指差した。
そこには河野一郎の二階建ての屋敷があって、紅蓮の炎に包まれていた。
少し前、民族派の野村秋介が河野邸を訪れていた。河野は不在で、野村は家人を退去させてから家に火を放った。
家人の中に生後6か月の太郎がいた。
野村は罪に服したあと今度は朝日新聞社長室に行って慰安婦の嘘ばかり並べる中江利忠を厳しく説教してから拳銃自殺した。
野村は河野邸の放火で吉田茂が大喜びしたことは最後まで知らなかった。
吉田は「インドネシアのスカルノと韓国の李承晩と河野一郎の三人を蛇蝎のように嫌った」と堤堯『昭和の三傑』にある。
三人ともカネに汚く、吉田はそれを最も嫌った。
「私のように親の財産を使って家を建てれば頼んでも放火はされない」と後に言っている。
「親」とは、元福井藩士の吉田健三のこと。
ジヤーディン・マセソン横浜支店長を振り出しに実業界入りし、フランネル輸入などで大きな成功を収めた。
吉田茂は健三に所望された養子で、40歳で急逝した養父は城山に建てた広大な屋敷と、当時のカネで50万円の財産を残した。
屋敷は昭和30年代に吉田茂が自費で数寄屋風に建て直している。
やましさの一片もない吉田邸なのに、2009年3月22日の朝、何者かによって放火された。
吉田の没後も大平首相とカーター大統領の日米首脳会談の場にもなった総檜造りの屋敷は火の付け所がよかったのか、全焼した。
実は貴重な文化財の放火はその一週間前にもあった。
横浜市戸塚区の旧住友家俣野別邸で、同じ時刻に放火され、全焼していた。
俣野別邸は昭和初期に建てられた西洋館で、04年に重文に指定され、一般公開に向けて補修中だった。
現場は高さ3㍍のフェンスがめぐらされ、侵入防止用の赤外線センサーも置かれていたが、犯人はその電源を事前に落としていた。
ここまで警戒していたのは前年の08年1月、県の重文指定を受け、一般公開用の整備をしていた藤沢市大鋸のモーガン邸が放火され、全焼していたからだ。
モーガンは東京駅前の旧丸ビルや郵船ビルを設計した米人建築家で、被害に遭った建物はモーガンが和のよさを取り入れた和風西洋館の私邸だった。
そういう前例があったから俣野別邸の補修工事は赤外線センサーを置いた。
放火犯はそれを事前に知っていたのだ。
吉田邸も実は俣野別邸やモーガン邸と同じように県の重文指定を受け、一般公開のために公費による補修が行われていた。
つまり三件とも国もしくは県の重文指定を受け、一般公開のために公費を使って補修中だった。
放火犯は内部事情に詳しい。
犯行は三件とも夜明けごろで、現場にはバイクで乗り付けている。
その線から様々な噂が出てきた。
例えば県の文化財保護に関わる部局で「大財閥が人民から搾取したカネで建てた建物にどれほど意味があるのか」みたいな論議も裏で出ていたとか。
吉田茂が「私は河野一郎とは違う」と言ったことはその場では言及されなかったみたいで、吉田邸も一緒に燃やされてしまった。
その辺から「金持ちの趣味を保存するために県民の血税を使うべきでない」と信ずる県庁関係者がホシと推測されていた。
ただ問題はそこまで犯人像が絞られながら、神奈川県警は動かなかった。
ここはオウムが坂本弁護士一家を殺しバッジまで残していったのに放置した過去がある。
今回も何もしないまま放火事件は時効を迎えた。
サンマが目黒なら「付け火殺しは神奈川がいい」なんて言われていいのか。