今から、書くことを読んで、驚く人もいるかもしれないが…わたしたちは、この、松であり、石であり、
水なのだ…写真とは、これらと対話すること、或いは一体化、同化することなのである…日本の庭園美の真髄も、そこにあるのである。
晴耕雨読とは…前述したような、安穏の中にある人にとっては、定年と共に、得られるもの。
何故か、家庭運のなかった人にとっては、様々な煩悩やetc.が続く事になる訳だが。
芥川は、この20年、闇の中の魑魅魍魎の世界で生きて来た…僕は、言いたい。
芥川が、何者かを知らず、何度も足を引っ張ってくれた人たちよ。僕の沈黙が、日本の「失われた20年」、を作ってもいたことに気付いてくれ、と。…それが、indecentな20年の始まりでもあったんだと。
日本にとって、どれだけ大きな損失だったかを。…あなたの邪気、あなたの餓鬼が、日本の20年を作ったことを、とことん、知ってほしい…と言っても、この人たちが、そのような事を知ったり、気付いたりすることはないか…それこそが、邪気、餓鬼の本領なのだろうから。
しかし、どこにでも、地湧の人…正しく生きる人はいるもの…前述の石が、芥川を目覚めさせた時、
このような、天気にも関わらず、一人で、写真を撮っている若者がいた。…尋ねれば、大阪から来たと言う…このような人もまた、羅漢として生きる人であろう…他者を傷つけることなど、考えもしない、素直な心で、美しい心を、終生、失わない人だろう…でなければ、小雨まじりの12月30日に、一人で、この庭園を、見に来る訳が無い…しかも、600円要るのである。
さらに、視野を変えてみた…石よ、ありがとう、君のおかげで、僕の心眼は開いた。
今朝、目覚めた時に、この20年の集大成のような、思いに、少し、こころを捉えられたこともあって、
芥川は、前日とは違い、朝に、Feistの、♪Past in Present♪、のような素晴らしい音楽が、脳裏に流れる事もなく、言わば、邪気に満ちた世の中を生きてきた人生への嘆きetc.で、absent minded boy のような状態で、この庭に入らざるを得なかった…この石が、芥川を、芥川にしてくれた。衆生の苦しみから、解き放ってくれた。
邪気と言うのは、ありとあらゆる場所に存在しているのである…エリートであるとかないとかにかかわらず…大半は、邪気そのものと言っても良い位なのである。…無宗教であることの、それが欠点なのだろうが。…長所と短所は、常に表裏一体なのだから。