文中黒字化は私。
鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。
国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。
林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。
彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに保津峡で投身自殺した。
この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。
なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は、1999年(平成11年)に京都市指定文化財に指定されている。
…後略。
さぁさ皆様がたよ。下記書店を、今直ぐクリックして購読なされい。
それが日本人の務めなるぞ。あなたがたが真に日本人ならば、今直ぐ、購読為さること、それ以外に、日本と世界を救う道は無い。
まともな知性をもっている人、
一生働いて年収500万円の労働者層にはいるが、貴重な時間を、ゲームなんぞに現を抜かして消費したり、人を騙したりは絶対にしない人、
decentな日本人であると思っている人。
外国に住む外国人だけれど、日本が好きで、日本の重要性を感じている人、
全ての人が「文明のターンテーブル」を購読する以外に、日本と世界を decent にする道は無い。
この本を購読しないと云う事は、闇の中の魑魅魍魎に居るに等しく、
人類の中の5%である、悪人に等しい、と言うことである。
「おためごかし」なモラリズム、「底知れぬ悪」、「まことしやかな嘘」を座視、黙視し、
その悪に加担し続けるに等しい、と言うことである。
私の本が、購読、功徳、御購読だというのは、そう言うことなのである。
前章の番組に、北京在住の、一日2万回のアクセスを誇る日本人女性ブロガー、東京パンダさんとあり、生活振りやブログの紹介だけはなく、本人を生出演もさせたりしながら。
この時に、私は思ったのである。
gooにおいて、私は、常時1万回以上のアクセスがあり、ずっと、平均1万5千回前後のアクセス数と平均1千人の訪問者数だったのである。
先ず、妙に訪問者数が落ちて来た。アクセス数も何だかおかしい。
そうしている内に、或る日、突然に、8千回に下がり、その2週間後には、一気に2千回レベルにまでダウンした。
訪問者数も300人台が続出等と言う有様。
これは統計学的にも考えられない。
皆さま方は御存知の様に、私は、変わらず、ブログを書き続けているのである。
インターネットというのは、本当に穴だらけなのだろうが、私が遭遇した悪党というのは、本当に信じ難い悪党なのである。
私は、こう云う面では、イスラム教の方が、ずっと良いな、と、時々思うのだ。
勿論、信長殿の時代なら、もっと良いのは言うまでもない。
文中黒字化は私。
金閣(舎利殿)
通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物で、正式には舎利殿と称する。
初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。
初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。
二層は書院造風(武家造)で「潮音洞」(ちょうおんどう)と称し、岩屋観音坐像と四天王像を安置する。
三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置する。
屋根は椹(さわら)の薄い板を重ねた杮葺(こけら葺)で、頂上には金銅製の鳳凰が飾られている。
なお、金箔は二層および三層に貼られている。
…後略。
文中黒字化は私。
1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝金閣(舎利殿)と安置されていた仏像等を焼失(金閣寺放火事件)。
文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。
再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に夕佳亭の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。
1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなった世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。
…後略。
黒字化は私。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も1649年(慶安2年)に大修理された。
明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により、1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
金閣(舎利殿)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。
また1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。
庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により、1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝(後に特別史跡・特別名勝)に指定されている。
…後略。
黒字化は私。
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。
この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。
邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。
1394年(応永元年)に義満は征夷大将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を行っていた。
1408年(応永15年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌1409年(応永16年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。
その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、1419年(応永26年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。
また、1416年(応永23年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている。
1420年(応永27年)に、北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。
夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。
…後略。
歴史
この地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んでいた。
これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有し、同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。
このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
…後略。
いつも世界中から様々な人が訪れている様に、金閣は永遠。
我らが日本もまた、金閣の様に回復しなければならぬ。
「おためごかし」なモラリズムを糾して、在るべき場所に、我らが気高き日本を回復するのじゃ。
今や、私の皮膚感覚である、この場所について、思う所があって検索してみた。
文中黒字化は私。
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。
舎利殿「金閣」が有名なため金閣寺(きんかくじ)と通称される、相国寺の山外塔頭寺院である。
寺名は足利義満の法号・鹿苑院殿に因む。
山号は北山(ほくざん)。
寺紋は五七桐。
足利義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。
建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、
1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。
1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。
…後略。
昨日の夜、いつもならNHKのスポーツニュースを放映している時間に、日韓の今の問題である竹島等について、韓国の学者たちと、日本の方々、
私が、チラッと見たのは、桜井よし子さんが、一人で、見事に、日本国を代弁していた様だった。
一方、反日教育と言う名のファシズムを為し続け、「親日」、であることは「売国奴」であるなどという、ファシズムそのものの中で、自分達の過去の歴史を改ざんして李氏朝鮮が良い国であったかの如くな教育を成しているだけではなく、
李承晩という独裁者…金九などという、とんでもない個人的な殺人を犯して刑を受けただけではなく、政敵を暗殺し続けたにも関わらず、
私は韓国には行った事がないから、体験した事は無いが、ウィキペディアに依れば、英雄扱いされているような国に登場した、乱暴者が、勝手に、領海線を引いた。
しかも、日本が、サンフランシスコ講和条約を結ぶ前後の事である。
「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘の国」、1,000年超に渡っているものを源流としているが、今は、民主主義の世界にいて、グローバルネットにも繋がっているから、
態度は、とにかく、あいまいにしかならない。
私は、これもまた、「おためごかし」なモラリズムの源流だな、と思って観ていたのである。
ここ数日間と、今日、購読してくれた方々に贈る。
これは、9月22日に、招かれる様にして訪れた、私に、
思いがけぬ病が癒えつつあることを一緒に喜んでくれた、
見事に美しかった大輪の花。
国宝である本堂=清水の舞台=の横から、縁結びの神社に向かう一角に咲いていた。
私にも、購読者の貴方にも、善男善女の世界中の95%の人に、微笑んでいる花である事を、
私は確信する
2012/9/22、清水寺にて。
信長さんの力に成れなかった事、本当に残念なの。
良いんだよ。
こうしてさぁ、私の目を、いつも最高に楽しませてくれている事が、一番の力になっているよ。
本当?
本当だよ。
2012/9/16、京都府立植物園にて。
そうだよね。信長さん。
信長さんが、それが一番自然だと思う様に、書いて行けば良いと思う。
それにしても、信長さんが、ビジネス人生最後に遭遇した悪党は、ネット上に於いてまで、本当に、日本人では考えられない悪党ね。
あたしが信長さんだったら、たたっ切っているところなんだけど。
あたしは、お花さん達と一緒の命を生きて行くだけで、
その姿を信長さんにお見せする事しかできない命だから、
2012/9/16、京都府立植物園にて。