本日は主権回復の日です。主権回復の日とは、日本との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、日本が主権を回復した日となります。
今日は程よい風に境内にあるオガタマの花の甘い香りが漂っております。
多くの皆様にお参り頂いておりますが、当社の御祭神・由緒など改めてお話させて頂きたいと思います。当社の社務所前には、由緒書を無料で配布しております。下の写真左側が旧由緒書、右側が昨年に新しくなりました由緒書です。
写真(左)旧由緒書、(右)現由緒書
旧由緒書に一部
現在の社殿は平成5年に平成の大造営にて竣工した社殿でございます。旧由緒書は旧社殿の写真となります。
改めて当社の御祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)/素戔鳴尊(すさのをのみこと)の二柱の大神様をお祀りいたしております。
由緒として、鈴鹿明神社は、遠く第二十九代欽明天皇の御代に創祀せられ伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着し、里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられています。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と言った(正倉院文書)ところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥したとも推察されております。
これは新編相模風土記でも記されております。
鈴鹿明神社が記載されている新編相模風土記のページ
鈴鹿明神社は、往古、東南西方平坦な水田で、その中央一丈余りの高所に、はるばる大洋を望むかの如く鎮座し、境内は船の形、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様でありました。その遠景を人は「舟形の森」「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏もなく、地形も変動して面影はなくなっております。しかし神社の地形が前方後円墳にも似るところから、昭和三十九年に社殿の東側草地を発掘したところ、千五百年以前の地下式住居跡(約七坪)が発見され、また境内の樫の古木は最大のもので樹齢九百年といわれ、座間市原始林の一部であるところから、古代の祭祀遺跡埋蔵されている事も想起され、かすかに昔日をしのばせる。
明治二年十二月、神奈川県下二十大区、二十七ヶ村(座間市入谷村、座間宿村、新田宿村、四ッ谷村、新戸村、磯部村、下溝村、上溝村、当麻村、田名村、大島村、下九沢村、上九沢村、相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田、矢部村、同新田村、渕ノ辺村、鵜ノ森村、上鶴間村、下鶴間村、柏ヶ谷村、栗原村、上今泉村、下泉村)の郷社に列せられた。これは現在の座間市、相模原市の全域と大和市と海老名市の一部を占める広域なものであった。さらに昭和四十三年一月、神奈川県神社庁献幣使参向神社となり、現在に至っています。
明日は、当社氏子会総会となります。昨年度の事業報告・決算、今年度の事業計画・予算についての総会となります。明日のブログでお伝え致します。