在りし日の浦上天主堂のマリア像
皆さんに
うちのお乳ばたっぷりのましておあぐっけんな。
とっても甘か 甘かとば。
そしてから
ゆっくり、皆さんのご相談にのりましよ、ね、ね。
「マリアの首」の幕切れ、マリア像(マリアの首)はこう語りはじめた。
恐らく、マリアの乳をもっとも欲しがっているのは、作者の田中千禾夫自身ではないだろうか。
少なくとも、この「マリアの首」には、そのような願いが込められている。
かつて、浦上天主堂の正面には美しいマリア像が置かれていた。
しかしあの日、爆心地から500㍍にあった天主堂は一瞬のうちに壊滅する。
秋になって復員してきたひとりの神父が、がれきから奇跡のようにマリアの頭部を見つけた。かき抱くように持ち帰って大切にしたのが、
今日でいう”被爆マリア”である。
さて「マリアの首」の初演は1959年3月、作者自身の演出、渡辺美佐子の忍で新人会が俳優座劇場で上演した。
私が最初に見たのは、1973年俳優座による再演で、忍は佐藤オリエ、鹿は大塚道子の配役だった。
正直に云って、当時はあまりよくわからなかった。難解な芝居であった。高踏さを感じた。アンダーグラウンド演劇だとも思った。
しかし幕が下りたあと、なぜか妙に私の心に爽やかな贈り物をもらったような気がした。あの長崎弁の快いリズム、芥川也寸志の美しい
ギターの旋律に惹かれたのかもしれない。
物語は、一口で云えば娼婦をしながら、浦上天主堂の焼け跡に残されたマリアの首を盗み出そうとする女性3人と、男たちの話
である。
冒頭に私が難解だとか高踏だと云った。一つの例をあげると病室に寝ている矢張という学生と、看護婦の鹿が対話するシーンで、
突然、哲学的というか詩的で、抽象的な表現になったりする。
つまり原爆という社会的主題と、マリア崇拝という形而的主題をからませたところが、田中千禾夫の独創だし、それによって文体は多彩
となり、ドラマはいきなり重層的になる。
今回の再演を見て、改めて明晰な骨組みをまず肌に強く感じた。そして作者の怒りや祈りの重みを。
それでいて新鮮な抒情、緊迫感は、長い年月を経た今日でもすこしも色褪せていないのである。
画像左より 伊勢佳世 鈴木 杏 峰村 リエ
主演の鈴木 杏は『元禄港歌』以来だったが、昼間は病院で看護婦、夜は淫売婦をしている鹿。鹿にはケロイドの疵があった。。マリア
崇拝者でもある彼女の心の中では、マリア像の首こそが、唯一無二の”神の存在”なのであろうと思わせるだけの切迫した心理をみごと
に表現した。
それに台詞もリアリズムと詩的な世界の切り替えのうまい役者さんだ。
忍の伊勢佳世は、時には深く、時にはさりげなく自在な表現の豊かさ、細やかさ。この難役に挑んだ努力は買いたい。
峰村リエの演じる静は、本来チョイ役で台本にはあまり書き込まれていないが、この人なりのベースを自分で創り、奔放で明るい人物
像をつくり上げて、鮮烈な印象を残したのには感心。本作品中いちばんの出来。
もう一つ。印刷屋の植字工室の場をカットこそしていないが、舞台端で簡単に処理したのには、物足りなく残念である。
その植字工、老医師の二役を演じた山野史人が時代を匂わせたいい味を出していた。
右が初演の俳優座のパンフ
(2017.6.03 兵庫県芸術文化ホール 中ホールで所見)