観たのは千穐楽の前日で、夜の部の『弁天娘女男白浪』と舞踊劇の『闇梅百物語』の二本の狂言である。
正直にいって、「弁天」はあまりにも淡白である。
「まるで新派みたい」とは作家の松井今朝子さんの弁。「今までに見たこともない浜松屋」、「いつもの浜松屋」ではなかったと、音羽屋に
詳しいはなみずきさんが、自身のブログでつぶやいている。たしかに、ダシの効いてないうどんを啜っているような舞台であった。
かつて観た「地芝居」のほうが余程おもしろかった。素人芝居にせよ熱気が漲っていた。そこには観客との交流があった。
今回は7人揃って、1か月の本公演ははじめての経験(松也、歌昇などは声を涸らしている)。かなり萎縮しているのではないか。
出演者がよく口にする「世話物は難しい」にせよ、期待していた「若さ」「熱っぽさ」、加えて歌舞伎味がほとんどなかった。
いかに松也を座頭格に、平成生まれの若手俳優を揃えたのが興業の目玉だとしても、今回の公演で「上置き」がいなかったということだ。
「上置き」とは、座頭と同等以上の実力俳優が特別出演することである。
もちろん白波五人男は若手にやらせ、浜松屋の主人か番頭か、鳶の頭に出演してもらえばよい。とすれば、「浜松屋」がもっと締まった
芝居になる。
まず幕開きは「浜松屋」の店先で4~5人の接客をしているところ。これがすべて男客。双蝶々の「角力場」ではあるまいし、老舗の呉
服屋に立役ばかりが群がるのはいかがなものか。番頭のいう「よいといちでも来ないものか」の伏線のつもりであろうか。
さて「弁天」は松也。もともと「女方」を修業して来た役者さんだけに期待していたが、花道の出から面白くない。
つまり花道へ出たところの娘姿の初々しさ、可憐さ、愛嬌、そして座頭格の大きさが、弁天の見せどころだが、すべてが裏切られた。
「弁天小僧たァ おれがことだ」の力みすぎ。サラッと自然に襦袢がすべって桜の刺青が目に入る、そのイキさがこの芝居の大事なところ
だが、いかんせん段取りが見えみえで、ながれがイマイチ冴えない。
南郷の巳之助だが、亡き父三津五郎もこの役に手慣れた人だけに、お鉢が回ってきたのであろう。
「待て待て」からのセリフだけは見事だ、
ただ弁天とのやりとり、呼吸感にいささかズレがあるように見えてならない。
巳之助はどちらかといえば鳶頭のニンではなかろうか、私だけの思いかもしれない
歌昇の日本駄右衛門は出からよくない。障子の隙間から様子を伺っているのだが、現在の若者が覗き見してるのと変わりがない。
せりふにある「千人あまりの領分」の貫禄がない。「子供カブキの領分」である。
、、、
弟の種之助は鳶の頭。父又五郎に教わった通りにやっているのであろうが、、この場の雰囲気を締めるには程遠い。
この難役を当てられたのは気の毒である。余談だが、過去に弁天の鳶頭には幸四郎、菊五郎、梅玉丈ら、いわいるご馳走役でやることが多い。
欠点ばかり書きつらねたが、「浜松屋」でよかったのは、米吉の倅宗之助と吉六の按摩である。
米吉は、ことさら出しゃばらずに、役の領分を心得ている。吉六の按摩は素直に、ことさら芝居をしないのがよい。それでいて要所だけは押さえている。
「弁天」のあんまは、いままで多く見てきたが、こんなにうまい按摩ははじめてである。きけば彼は国立劇場新人賞をもらったことがあるとか。たのしみな役者である。
2番目が舞踊劇の「闇梅百物語」。
「弁天」とはうって変って、演者が水を得た魚のようにリズミカルに演じている。踊りの面白さを堪能したし、1時間ほどの幕が15分ほどに感じられるほどであった。
それに徳松、菊三呂の奥女中が揃ってうまい。菊三呂が花道で、真山青果の『御浜御殿』の浦尾のようなせりふまわしをやるが、これもご愛嬌。
ラスト近くに現われたのは勇将に扮した松也。なんだか「石切」の梶原風だが、本来の松也に戻った感じがした。