Dream Gate ( 中野 浚次のブログ )   

本日はようこそ開いてくださいました!お芝居のことグルメを語ります!


          

出色の『髪結新三』  -團菊祭大歌舞伎 大阪・松竹座ー

2010-05-27 | 演劇



大阪・松竹座での「團菊祭大歌舞伎」は関西初お目見得。
ご承知のように歌舞伎座の建て替えで、平たく云えば「引越し興行」。

今回は江戸の團菊に、上方の籐十郎が昼の部『勧進帳』で義経を付き合う。




本来、「團菊祭」といえば、70年余りの歴史を重ねてきた東京・歌舞伎座の吉例行事。

同時に、歌舞伎座が閉場して、倉庫に入るかも知れなかった2体の胸像が、松竹座の3階ロビーに移像、展示された。

                  (画像左が五代目菊五郎  右が九代目團十郎の胸像)





夜の部は『十種香』、『京人形』。
キリが黙阿弥の世話物『髪結新三』
観客がお目当ての團菊顔合わせの演目である。
ところが意外に盛り上がらない。




まず、序幕「白子屋の店先」
菊五郎の新三が、悪党だが、やんちゃな可憐さを醸し出す。
髪をすきながらの手順も細かい。それでいて愛嬌がある。
下手からの出にも眼光鋭く凄味があるのがいい。

それと、門口で忠七、お熊の話に聞き耳をたて「どんな話か一番聞いてみよう」というセリフが原作にあるが、今回はカットしたのがよかった。
こういうセリフは説明的だし、現代調で耳に立つ。

白子屋の娘お熊に梅枝(←画像)。輝くような美しさである。
もともと菊之助の持ち役だが、今回菊之助は勝奴にまわっている。
梅枝のお熊は驕慢の中に無邪気な愚かさが透ける。
この芝居は若い二人の無分別というところから起こる事件だけに、それが事件をよりリアルにしている。

後家のお常に家橘。芝居も大きく、安心して見られるが、少々芝居が上すべりしている。
どうしても見せかけだけの情、やればやるほど後家根性に見えてしまう。
故人源之助の名演を見ているだけに、やはり物足りない。

菊三呂の女中お菊はミスキャスト。
とても車力善八の姪には見えない。
まだ気持ちと形が離れるのは勉強会程度にとどまる。
これも小山三の名舞台がある。


次に「永代橋」
時蔵の忠七がうまい。
しっとりと大きく、何よりもこの役のニュアンスがよく出ている。

菊五郎が花道から忠七と相合傘の出がすぐれている。
はじめから無愛想なのではなく、除々に冷たくなっていって、チラリと見せる凄味がいい。

傘づくしは味わいが乏しいが、「ざまあみやがれ」で傘を廻してポンと開くイキ。
なんでもないようだが、手馴れたうまさで際立つ。




三幕目「新三内」
いつも思うことだが、この場だけは、たとえば新派『婦系図』の「めの惣」のように、じつによく出来た一幕である。
人間描写の細緻さ、「カツオは半分貰ったよ」のユーモラス、江戸下町の風情、そして季節感。

季節感といえば、まず花道から湯上りの新三が出てくると、そのうしろから、かつおを盤台に入れた魚屋がついてくる。
舞台では竹笛で聞かせるほととぎすの啼き声。

                 目に青葉 山ほととぎす初がつお

この句は江戸っ子の口の端にのって、一般の常識にさえなっている。
黙阿弥は、深川冨吉町の長屋の一角に住む、このたちのよくない廻りの髪結の生活の季節感に、うまく、ほととぎすとかつおを、とり入れたのである。


その鰹売りの菊十郎がイキがよくて出色の出来栄え。
                「かっ、かっ、かつお!!」
この甲高い声を得意にして、ついに持ち役になった。

三津五郎の家主長兵衛は意外にドッシリとした存在感。
突っこむところは突っ込んで、その強欲ぶりには感心した。

対する萬太郎の家主の女房はやり過ぎ、目立ちすぎである。
ベテランにしてクサイ芝居にはビックリした。



菊之助(←画像)は今月4役中下剃勝奴がいちばんの立派な出来。
本来は女方だから、立役は久し振り。
海老蔵バリで、いなせな江戸っ子を見せた。

團十郎の源七に「ヤキの廻ったおじさんだ!!」という捨てゼリフがじつにうまい。
客席から笑いがもれるが、これは菊之助のセリフではなく、團十郎の源七親分が立派すぎて、そう見えないからの”笑い”である。

その團十郎は貫禄充分。
            「おらぁ 弥太五郎源七だ!」
口を開けば、そう言うところなど、いかに親分風を吹かせても、それゆえに哀愁際立つ落ち目の親分をきっちり見せたのはさすが。

非常時にこそ芽吹く好機もある、という。
この「團菊祭」が大阪の地に根付くとよいのだが・・・。


                                     【2010年5月20日 大阪・松竹座 夜の部所見】
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わたしの好きなティールーム -ホテル日航大阪「ファンテン」-

2010-05-22 | 喫茶店めぐり


開放感にあふれるハイセンスな空間。
スタイリッシュに、ゆったりと・・・。
それがホテル日航大阪1階にあるティーラウンジ「ファウンテン」

ホテルのラウンジといえば、フロントの正面にあるか(←たとえばホテルニューオータニ大阪)
でなければ、フロントに隣接して仕切られた空間。
ホテル客でごったがえし、飲み物もオーダーしないで、図々しくソファーにオッチンのおばはん。
隣のソファには旅行鞄が占領。
ウンザリした光景を見かけますよね。




ホテルのラウンジでありながら、ホテルとは関係のない空間。
「ファウンテン」は御堂筋に面したゆとりのあるスペース。
ゆったりソファー!!

高い吹き抜けのスペースで洗練されたティールーム。




小ぬか雨ふる 御堂筋
  こころ変わりな 夜の雨

雨の御堂筋』でしたね。
かつて欧陽菲菲が歌ったっけ。

もしあなたが御堂筋に面した窓側の席であれば、”雨の日”には素敵なドラマが。
街路を行き交うひとびと。 色とりどりの雨傘。
まるで『シェルブールの雨傘』のワンシーン

窓ガラスを叩く水滴が
何がしかの絵文字をかいているようです。

ファ二チャーでくつろぎのひと時を演出してくれるラウンジです。



コーヒー、紅茶にとどまらず、軽食、多種の飲み物が用意されています。





そして、エレガントです。

珈琲も美味しいし、接客サービスが抜群(←サービス料10%加算されますが)。
地下鉄「御堂筋線」「千日前線」「鶴見緑地線」はホテルから直結です。


                                    【営業時間  9:00~22:00】
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あなご丼つくりました!!

2010-05-19 | 本日の○○



飲み会でのこと。
友人から「おまえのさブログ、丼もの多いよね」
そう言われました。

はあ!? そうかな?
あまりぶっかけもの好きじゃないんだけど。
手っ取り早く出来ちゃうから。

というわけで、今回もまた「丼物」になりました。
ハイ。「あなご丼」つくっちゃいました(笑)。


「焼あなご」はわたしの地元の名産なんです。
あなごは「うなぎ」よりも脂肪が少なく、あっさりしています。
いつも「焼あなご」を買うのは、創業明治から続いている老舗の「下村商店」。
2串以上買えば、蒲焼のタレも付けてくれます。
お値段は目方で決まります。
2尾1串で2000円前後です。



わたし流「あなご丼」のレシピ

 グリルに軽く温めた「うなぎ」を、1尾およそ4分割にします。
  頭(かしら)は吸い物に使います。

 丼にアツアツのご飯を盛り、「あなご」をのせて、蒲焼のタレをかけます。
  大葉を添えてみるのも、ちょっとしたプロ感覚になります。
  
  ※海苔を振りかけたり、卵とじにしたり、ものの本に書かれていますが、あまりお奨めできません。

 お好みで粉山椒を少量ふりかけてもよいでしょう。
  蒲焼のタレは、博多のうなぎの吉塚を見習って、別途小皿に入れてみました(←画像)。 


 


もう一品。こんどは付き出しの一皿。
生ビールは好物のエビス。
ちなみに「あなご丼」の調理時間は15分。

シンプルな「どんぶり」こそ、本格派の「どんぶり」だと思います。
美味しさの秘訣は、新鮮な「あなご」を使うことは云うまでもありません。

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王女の恋 甘く 切なく 舞台版『ローマの休日』

2010-05-16 | 演劇




☆美しい気高いラブストーリー

オードリーヘプバーンを一躍有名にしたのは、不朽の名画『ローマの休日』だった。
かつてローマを訪れた観光客は、必ずスペイン広場でジェラートを食べたものだ。
それほど『ローマの休日』が愛され続けたのは、なにより永遠性を持つラブストーリーに他ならない。

その『ローマの休日』が、こんどは舞台になった。
しかも、たった三人で演じるというユニークな趣向。
アン王女を元宝塚の朝海ひかる、新聞記者のジョーを吉田栄作。、カメラマンのアービングを小倉久寛

作品の持つ気高さを掬い取ったのが、今回上演された舞台だった。
それでいて、映画のロマンチックや甘やかさはそのままに。
さらにジョーのバックグラウンドという補助線を引いて、緊密な三人芝居に仕立て上げた。




☆アン王女の役は、世界中がオードリーのものだと思っている!!

「みんなが抱いているアン王女のイメージを崩さずに演じたい」

と朝海ひかるさんは語る。そして付け加えた。

「初日に生卵が飛んで来ないかと実はドキドキしてました」

妖精めいた透明度、髪をバッサリ切ったオードリーの清々しい魅力に、当時の女性は、この「ヘップバーン・カット」を真似たものだ。

今回感心したのは、一幕でのアン王女の気持ちの動きが、舞台ならではのキメ細かさで描かれているいることです。
アン王女は好奇心が旺盛で、その気持ちがふくれ上がって街に飛び出すヤマ場。
しかも、舞台に織り込まれたディテールがまたキュート。

朝海は、素直に、ユーモラスに、このピュアな恋を凛々しく、気高く演じた。




☆「人間には義務と同時に権利というものがあるんだ」
殻を破れないという王女に、ジョーはそれまでの自分の人生を重ね合わせて言うセリフだが、説得力があり、重みがあった。

というのにはワケがある。
原作映画の脚本を書いたトランボは、冷戦時代の米国で共産主義者を弾圧した「アカ狩り」に巻き込まれた。
その実話を、今回舞台で吉田栄作扮するジョーという新聞記者に投影した。
セリフに込められたメッセージは共感できるし、とてもいいシーンだった。

なんらかの先入観があるのかもしれないが、どう見ても吉田栄作は新聞記者には見えない。
もっと大事なことは、なぜジョーがローマにいるのか、屈折したところやなんとなく翳のある人物像が希薄というか、あまり見えてこないのが惜しまれる。




カメラマンのアーピング役の小倉久寛は手堅い。
持ち前のユーモラスで舞台を引き締めている。

難をいえば、「スクープの分け前」を欲しさに、ライター型カメラで隠し撮りした写真数10枚。
没(ぼつ)になるという事態に、いとも簡単に友人のジョーに同意してしまう。
それでは、いままでの苦労が水の泡ではないか。
もう少し掘り下げてほしかった。


☆ローマの町並みを舞台でどう表現するか?

今回の舞台化は、当初からスタッフ一同が無謀な挑戦だと思ったらしい。
ストレートプレイにするには、はじめ役者は三人だけ、舞台装置はジョーのアパート一室のワンシチュエーションだったらしい。

三人芝居はともかく、セット一つはどうしてもムリだったようだ。
『ローマの休日』といえば、かの有名な「真実の口」、「ジェラート」、そして二人がローマ市街を駆け巡る「べスパ」が必需品のようなもの。
結局、これらは完コピーでやることになった。

全体に舞台ならではのキメ細かさ。
クライマックスでの男と女の絶妙といえる”間”にいい味がある。
おしのびの王女と彼女に寄り添う記者のジョーが、惹かれ合うもののそれぞれの立場をわきまえて、たった一度だけのキスで別れていく。
そんなピュアな恋を封じ込めた煌く結晶のような舞台であった。


                                     【2010年5月13日   シアター・ドラマシティ 所見】
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ジャズ喫茶論

2010-05-15 | ジャズ



『ジャズ喫茶論』ーといっても決して堅苦しい研究書とか学術書ではない。
全国各地のジャズ喫茶を巡る紀行文の体裁をとりつつ、そこには鋭い観察と分析力ゆたかな思考がちりばめられている。

かと思えば、いたるところ「脱線」の連続で、あたかもジャズの即興演奏のように綴られていく。


若者は「ジャズ喫茶」に行かなくなった!
近年、「スターバックス」や「ドトール」、「サンマルク」などの味気ないチェーン店を除けば、若い人たちが喫茶店そのものに入らなくなったのも事実です。

若者のジャズ喫茶離れは、レコード(CDを含めて)とオーデイオ装置の音源が、はるかに購入しやすくなったこともあるでしょう。
それと、ilpodやケータイのような音源も忘れてはならない。
さらにインターネットによって気軽に音楽をダン・ロードもできる。

わざわざ「ジャズ喫茶」に足を運ばなくても幅広いジャンルの音楽を聴くことができるからです。

「ジャズ喫茶」全盛時代のジャズは”行動”だった!
ひところ、ジャズ喫茶像の根底に、ジャズは切実な<同時代の音楽>であり、<安保闘争>にも密着しており、そして何よりもジャズは”行動”だった。

ジャズを聴き、そのエネルギーを吸収して、デモに出かける学生。
文学作品を生み出した若い作家や詩人。

「ジャズ喫茶」が、インスピレーションとエネルギーを与えてくれる”場”であったわけです。

80年代以降の「ジャズ喫茶」は博物館になった!
ネット時代を迎えて、いよいよ衰退しつつあるジャズ喫茶。
今日の「ジャズ喫茶」はもはや、「文化の拠点」でも「フーテン(←死語)の溜まり場」でもない。

かつての常連客にとって、今日のジャズ喫茶」は懐かしい<場所>であり、過去を連想させてくれる「場」になった。
あの隆盛を誇った「ブルーノート」でさえ、若者の姿はなく、中年のサラリーマン客、かつてのジャズ喫茶に入り浸った高齢者が目立つ。
もしジャズ喫茶に行ったことのない若者が、今日初めて訪れたら、どこかの「老人ホーム」という施設にでも迷い込んだと勘違いするだろう。

80年代以降のジャズ喫茶は「博物館」同様になった。
保存されているのは、ジャズ喫茶という消えつつある<空間>。
古いジャズ・レコードという貴重な<物>だけになってしまった。

そして・・・
老いていくジャズ喫茶常連客自身の<過去>でもある。

作者は結んでいる。

ジャズ喫茶を含め青春時代を振りかえるとき
甘美な懐古感に浸かりたくなる
ジャズ喫茶が消滅していくこと自体が
まるで自分の死期を暗示しているかのように・・・



                                 『ジャズ喫茶論  -戦後の日本文化を歩くー 』
                                 マイク・モラスキー 
                                 筑摩書房
                                 本体価格;2600円
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