「黒蜥蜴」という芝居には、何か人を魅了してやまないものがある。
日常のムシャクシャした生活のなかで、この芝居を見ると文句なしにスカッとした気分にさせてくれる。
現在わたしたちは、パッケージ化された商品が並んでいるような世界に生きている。
しかも日常は常にぬるま湯の中に浸かっている。
毎日は平板で、魂の本当の昂揚を感じることがほとんど皆無だといえないだろうか。
でも、「黒蜥蜴」にはかけがえのない"一瞬”に満ち溢れている。
まさにその"一瞬”のためにすべての力を注ごうとする「見世物」だと云っていいだろう。
まず、全編に宝石を散りばめたような三島由紀夫のレトリックな台詞と出会う一瞬。
「美」と「死」が結びつく盗みの一瞬。
孤高の魂を持つ者同士が火花を散らす一瞬。
そもそも芝居とは、そういった「一瞬」のためにすべての力を注ごうとする「見世物」なのだが・・・。
さて、このたびの『黒蜥蜴』も例によって、美輪明宏(画像/左)は、主演、演出、美術、音楽、衣装を担当。
総合舞台人としても、三島由紀夫の美学を、ゴージャスにして魅惑的な舞台に紡ぎあげた。
観客の大半が女性で美輪明宏の熱狂的なフアンである。
その一方で美輪明宏をあまり知らない人までが、昨年大みそかの『紅白歌合戦』で美輪が「ヨイトマケの唄」を歌ったのを見てから、その反応がすごかったらしい。
「美輪明宏ってただのキもい金髪のおかまだと思っていたが、すごい人ですよね!!」
ツイッターでも大反響だったらしい。
今回の公演の目玉は、最終幕の恐怖美術館の装置であろう。
ルードヴイェヒ王の城の寝室を思わせる重厚さに、一種の倒錯的な気分に襲われる。
この美輪明宏が形づくった、暗くて懐かしい、モダンで粋な「黒蜥蜴」ワールドに自然と見ているものをのみこんでゆくのである。
恐怖美術館
何度も見ていると、やはり前回よりも手直ししたところが目につく。
たとえば「東京タワーの展望台」。再演ごとにテンポがよくなってきた。
タワーの見物客にしても、風俗、衣装が時代に合わせて気を配っている。
群衆処理も蜷川演出とは一味違った切れのある演出である。
ことに花束を持った若者が舞台に二度登場するが、その歩き方に良質の喜劇味を感じた。
おだなりの役者が多いなか、仕出し役ながら今回の出演者の中ではMVPもの。
黒蜥蜴と明智小五郎の対決のありようは、第二幕で展開される。わたしの好きな場面である。
舞台上手に明智の事務所。下手が黒蜥蜴の隠れ家。
交互にシーンが展開するのだが、最後にはその隔たれた時空が融合して、二人は同じ舞台に立つ。
つまりは三島好みの「歌舞伎の割ぜりふ」となる。
「 そして最後に勝つのはこっちさ 」
と同じセリフで、相手の打倒を誓うのである。
これこそ演劇の醍醐味ではあるが、今回は二人の緊張感があまり伝わってこない。
どうしても黒蜥蜴の美輪だけに圧倒され、二人がピーンと糸を張った場面にならなかったのは残念である。
さて今回、明智小五郎に抜擢された木村 彰吾(画像/右)。
股下90㌢の容姿で、骨太の声柄、その感性を期待したのだが、いささかこの大役には荷が重すぎた。
ヘタな演歌歌手の様に、手振りが多いために、三島戯曲のレトリックを解き明かす術には程遠いようだ。
「本物の宝石は、もう死んでしまったからです。」
このラストのセリフを、両足を踏ん張っていうのはよくない。
つまるところ明智小五郎は、凛々しい美しさ、切れ味の鋭い、知性と度胸の持ち主でなければならない。
雨宮潤一役には中島 歩(画像/左)、その恋人役の早苗には義達 祐未(画像/中央)。
両人ともオーヂィションで選ばれたらしい。
どちらも新鮮さは買うが、演技は素人の域。演技以前の問題である。
宝石商の主人役に若林哲行(画像/右)。
前進座、新国劇出身の苦労人。
美輪明宏作品には今回がはじめてらしいが、「宝石商」らしく演じて、舞台に厚味を加えた。
戯曲『黒蜥蜴』は昭和36(1961)年、『婦人画報』に掲載され、
翌37年に東京・大手町のサンケイホールで初演された。
演出は松浦竹夫、出演は黒蜥蜴に初代水谷八重子、明智小五郎には芥川比呂志だった。
千秋楽には作者の三島由紀夫がボーイ役で特別出演している。
←画像は私の蔵書から。
造本は三島由紀夫自らが手がけた限定版である。