大阪・松竹座を見てきました。
それも昼・夜の部通しで、さすが見る側も疲れました。
このたびの昼・夜の部は、出し物といい、役者さんの顔ぶれといい、芝居好きにはたまらない大芝居。
どれもがいわゆる「濃~い芝居」で、これぞ大歌舞伎という、最近ではついぞ見られない面白さである。
それにくらべれば、恒例の12月南座での「京の顔見世」だって、これだけの役者が揃ったことはない。
いつも上方勢が大半で、東京から実力派の名題が3人ほど加わる程度である。
それでいて、チケット代がべらぼうに高い。
今回は襲名公演であるにせよ吉右衛門、新又五郎、梅玉、魁春、染五郎、東蔵、芝雀、歌六、上方から仁左衛門、我当、孝太郎が加わっている。
さらに、新歌昇、種之助、米吉、隼人ら次世代の歌舞伎を担う、平成生まれの若手が大役に挑んでいるから芝居が新鮮に見えてくる。
われわれは歌舞伎を何故見にいくのか?
ストーリーの面白さではないだろう。役者さんの芸を見に行くのだ。
芸に深みのない芝居だと、見る側の心を打たない。
深みがなければ「お芝居」を堪能することが出来ないのである。
先に「濃~い芝居」だと云ったのはここにある。
前置きが長~くなった。以下順を追って感想を書きとめておきたい。
● 「引窓」
義太夫狂言『引窓』はいまそつさらながら名作だと思う。
登場人物四人の人間関係、人情の機敏が実によく描かれているからである。ことに、どの人物も互いに何かを隠しているところにこそ、この狂言の主題があり、義太夫のノリで役者の仕どころが豊富にある。
梅玉の与兵衛は、時代にこってりでなく、サラサラと淡彩に芝居を運ぶ。
すべてが、行き方が控え目で、ソツなくリアルにやる。
それでいて芝居のリアリティに手応えがあるのも事実である。
「狐川を左に取り」から「あの長五郎はいずれにある」・・・ここだけはこの人らしい名調子を聞かせてくれるのだが、幕切れでも,ピシャンと戸を閉めても
きまったりしない。それでいて形はきちんとしている。思わず胸が熱くなる一幕であった。
これも梅玉らしいうまさである。
東蔵の母お幸がいい。
わが子濡髪をいとおしむ具合、与兵衛への義理、嫁お早へのあしらい、すべてが申し分がない。
ただすべてが仮名手本六段目のおかやとたいして違いがないのは、この人の芸質なのだろうか。
我当の濡髪もしっとりと味わい深く、心持ちが手に取るようにわかるうまさである。
「未来の十次兵衛どのへ、すみますまいがな」の突っ込みも十分。
ただこのところ足がご不自由。歩き方が気の毒なくらいたどたどしいが、それでもめいっぱい動いて感動的でもあった。
孝太郎のお早は八回目らしいが、少々演技過剰が目立った。
今回は「はいどうどう」などカットしてるのに、花街上がりらしい色香すら見えてこない。
芝居が段取りだけになってしまってるのが惜しい。
松江の三原伝造と進之介の平岡丹平の二人侍はそれなりにやっているが、どこか物足りない。
どちらも兄弟が濡髪に殺されているのである。
もっと突っ込むのかと思いのほか、意外に淡白。人相書を持ってきただけの役に終わっている。
少なくとも一人は適役にしたほうが芝居の伽がはっきりすると思ったりした。
● 棒しばり
大阪・松竹座でははじめてという『棒しばり』は、新又五郎の襲名披露演目。
次郎冠者(新又五郎)と太郎冠者(染五郎)が縛られたまま巧みに酒を飲み交わし、さらには不自由な状態で存分に踊るという歌舞伎舞踊の傑作の
一つ。
共に踊りの名手と謳われたふたりが、テンポといい、リズムといい、足と躰の芯を使って踊る難しい踊りだが、二人のイキがピタリとあっていたのはさすが。
明快で、賑やかなフンイキが、観客にいちばん受けていた。
それでいて松羽目物の品格をきっちり見せていた。
今月の昼夜通しでいちばんの出来である。
長唄の立三味線は栄津三郎、後見は種之助。温かくて、ほほえましい一幕であった。
● 「荒川の佐吉」
「荒川の佐吉」を見るのは今年になってからでも二度目。
前回の佐吉は染五郎(←詳しくはコチラ)。今度は佐吉を当たり芸にしている仁左衛門だが、やはり格別にうまい。
つまり一人の三下奴が一人前の男として人間として成長していく過程を適確にとらえていることである。
たとえば大詰で、相政(吉右衛門)と丸総のお新(芝雀)を前にして述懐する場面での語り芸のうまさ。
大芝居をするでなく、淡々と出来事を語って、しかも憎悪だの、口淋しさ、愛情がうずまいているのに、しっとりと語るところなどは名人芸である。
その一つひとつが手にとるようにわかるし、また感動させられるところである。
対する吉右衛門の相政は、じっと聞き入るのみ。
時には目を閉じ、腕組みをして聞いているが、そこに「聞く芝居」をしているのである。
しかも貫禄十分。
こんどは佐吉を説得する件になると、言葉の一つひとつに重みがある。
それは言葉だけでなく、人を説得するというハラがあるからであろう。
梅玉の成川、歌六の鍾馗の仁兵衛、その娘のお八重に孝太郎。いずれも手堅い。
大工の辰五郎には新又五郎。歌昇時代からの持ち役。
「荒川の佐吉」は子別れのお涙頂戴劇ではないが、この人のうまさで観客は思わず嗚咽してしまうのである。
● 渡海屋 大物浦
夜の部の最初が『渡海屋 大物浦』。
この大時代な「義太夫狂言」は、"チンプンカンプンわからない芝居”になるか、”意外にわかり易い芝居”になるかは、それを演じる役者の技量によることが思い知らされる狂言でもある。
まず最初の傘をさしての吉右衛門の銀平の出は、颯爽と、その大きさに驚いたが、いかんせんその後の芝居がぞんざいになる。
この銀平が大物浦では、知盛に一変してからが俄然よくなる。
血染めの装束、水入りの鬘。
なにもしないでも「この世から悪霊の相」に見えるところだが、いかんせん形容だけで、期待にたがわぬ出来であるのは惜しい。
いつものような湧き上がる力、意気込みが足りず見劣りがする。
入江丹蔵には新歌昇。大阪松竹座では初御目見得らしい。
前半と後半では柄が全く変わる役で、ことに後半はご注進という難役。
父の又五郎も歌昇時代に何度も演じてきた役でもある。
ことに見せ場である殺陣も、そして自害のところも段取りだけになってしまった。
まだ23歳。これからの人である。大いに奮起してほしい歌昇くん!!
弁慶の歌六が不出来。義経に梅玉、錦之助の相模五郎。
● 「吉野山」
口上を挟んで清元の舞踊劇『吉野山』。
芝雀の静御前、新又五郎の忠信である。
芝雀の静御前は父雀右衛門バリの古風でたっぷりとゆたかな大きさ。
踊りもうまく忠信とのイキもぴったり。
新又五郎の踊りも味が出てきた。
「誠にそれよ越方を」からは、義太夫が入って「物語」になる。
異なった人物を踊りで表現して、その変わり身があざやか。
襲名狂言とあって早見藤太が仁左衛門。ご馳走役である。
今回の出演者を折り込んだ”役者づくし”と、長~い所作立。
ですから肝心の道行が、この三枚目のために希薄になった。
仁左衛門のうまさが、舞台をさらっていった感じである。
● 「河内山」
新歌昇の松江出雲守
切狂言は染五郎の『河内山』。松江出雲守には新歌昇である。
本役の梅玉がいるのに、この大役を新歌昇に回したのも、襲名のご祝儀の采配だろう。
てっとり早くいって、この役をやるのは10年早く、新歌昇にはいささか荷が重すぎる。
少なくても梅玉の松江候は、出てきただけで、その癇癪、そのわがままさ、その品位、さすがに十八万石のお大名であった。
しかし新歌昇はいささか生硬すぎる。おそらくこの役には手も足も出なかったのではないだろうか。
余談になるが、そもそもモデルになった松江候は遊蕩に耽ったり、女性にはだらしのないことで有名。
強制的に隠居させられた人物である。
お芝居でも腰元の浪路を妾にしようとするが、宮崎数馬という許嫁がいると断られると逆上して、押し込める。
その浪路には米吉。あまりにも”おぼこ娘”すぎる。これでは殿様が手をつけるような腰元には見えない。
対する許嫁の近習頭の宮崎数馬に隼人。こちらはそれらしく将来が楽しみな成長株である。
最後に一つ。
私は子供のころから『河内山』の芝居は知らなかったが、「とんだところで北村大膳」のせりふと「バカめ」はよく覚えていた。
しかも幕切れの「バカめ」のせりふは松江候に云うのだとばかり思っていた。
ところがこれは北村大膳に云うせりふらしい。それが松江候にもかかるという具合だとか、最近になって知ったのである。