昼の部の第1は『磯異人館』。
20年前に現勘三郎 が初演した幕末物である。
平成20年にこんどは勘太郎で再演され、今回の公演で3度目となる。
幕末の薩摩藩を舞台に描いたこの作品は、維新という暁を目前にしながらまだ夜空が暗いなかを、その暁を予感しながら死んでゆく若い主人公と、彼の弟や恋人が、藩の都合によって翻弄される若者の姿を描いた清新な舞台であった。
とはいうものの作劇の手法が常套的で、生麦事件の犯人として切腹した岡野新之助の遺児精之介(勘太郎)と周三郎(松也)の兄弟の悲恋と運命を描いた異色作だが、人間関係がいずれも類型的で面白くない。
「西郷隆盛のような明治の元勲たちの偉業を支えた名もない人々を描きたい」
という作者の思いがあるようだ。
だが維新史の一コマを新歌舞伎の一演目にするのは、そう簡単なことではない。
観客の歴史への感覚や関心が、作者が期待しているほど一様ではないからだ。
そこをいかに突き破るかが、作品の成否の分かれ目になるのではないだろうか。
精之介(勘太郎)というこの劇の主人公は、生麦事件で英国人を斬った罪を負って切腹した父をもつ。
彼の仕える薩摩藩はこの事件を契機として、近代化に転じ、彼はその象徴ともいえる集成館のガラス工房での薩摩切子の生産に、生きる道を見出そうとしている。
作者はそんな歴史の狭間に落ちた父と子の在り方に作意を得たのではなかろうか。
勘太郎は、そうした主人公の内面の屈折を的確にとらえ、演じきっている。
優柔とも見えるほどの穏和に振る舞うことの陰にあるものを、観る者に感得させるのである。
さらにどことなく寂しさのある清潔感がとてもいい。
対する七之助の瑠璃は、健闘しているものの冷たく見えるのは、精之介への気持ちが足りないためである。
世話物や時代物の通常の歌舞伎とちがって、新歌舞伎では比較的にリアルさが要求される。
ただ柄が役に合っているから適役というだけでない。
演技による肉付けがもっとほしい。
精之介の弟周三郎は松也(←画像/左)である。
兄とは対照的に血気盛んな若者を演じて、前半は上々だったのが、上司を斬り殺して脱藩になる後半から怪しくなる。
役目を忠実に果たしながら、非業の最期を遂げた亡き父と我が身を重ね合わせるところなど、その無念さが伝わってこない。
役の掘り下げが、充分でなく、甘いのである。
それに途中大阪へ逃げたり、また薩摩に戻ってきたり。ご都合主義が目立つ。
そんな周三郎に想いを寄せる加代に新悟(←画像/右)。
しょせん刺身のツマ的存在。気の毒だが彩だけのお役。
花道の出で、『十六夜清心』の恋塚求女かと思わせる演技。
清純さにも乏しく、色気がなさすぎる。
切狂言は『俊寛』。
俊寛役の勘三郎の代役は橋之助である。
正直言って『俊寛』という義太夫狂言に橋之助は不向きだと思っていた。
ところが意外に出来がいい。年譜を見ると、平成14年に国立、同15年に御園座、今回で3度目の”俊寛”である。
どうしたことか、最近は心理主義といおうか新劇のような『俊寛』が多い。
その主役がイトに乗ろうが乗らないでなく、竹本にのって大芝居をしてくれなければこの作品は面白くない。
橋之助の『俊寛』はまさしく理屈抜きに愉しめた。
つまりは形容本位、芸本位の『俊寛』を見せてくれた。
ことに幕切れは、少々クドさはあるが、「オーイ、オーイ」とただ叫ぶだけでなく、抑制された段階がついていて、キッチリしているのに感心した。
他に橋之助の佐藤忠信、扇雀の静御前で清元『吉野山』が中狂言にある。
(2011年3月25日 博多座昼の部所見)