5月といえば 「團菊祭」。
東京・歌舞伎座が建て替えのため、一昨年から大阪・松竹座でお引越し興業。早や3年目になる。
「新幹線から富士山が見えたとか見えなかったとか」場内でそんな話し声を耳にした。
「海老蔵フアン」か「音羽屋フアン」か知らないけれど、観客の中に東京からの遠征組もかなりいたようだ。
せっかく大阪に来たのだから、昼夜通しで見たい。、それとたこ焼きとお好み焼きもたべたい。
1等席が17000円だから、昼夜でその倍はかかる。それにホテル代、旅費などで・・・まあ10万仕事ですな。
歌舞伎は敷居が高いといわれるけれど、どこの世界だって同じ。熱狂フアンがいるものです。
「團菊祭」とは、歌舞伎史に偉大な足跡を遺した九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎を顕彰するために昭和11年から始まったものらしい。
もちろん私などまだ生まれていない時代です。
今回は團十郎、菊五郎のほかに、関西勢から坂田藤十郎、上村吉弥が参加している。
昼の部の演目は、菅原の『寺子屋」、舞踊劇「身替座禅」、切狂言は上方の「封印切」。
順序が不同だが、興味のあるお方はしばらくお付き合い願いたい。
★ 藤十郎の一世一代の忠兵衛 「封印切」
昼の部の坂田藤十郎の『封印切』の忠兵衛が感動的である。
「一世一代」という言葉がある。これを最後にこの役は演らないということである。
藤十郎の忠兵衛を見ていると、まさしく「一世一代」の芸ではないかと思われるくらいだ。
今までにない芸に新しい工風、しかも集大成の舞台のような気がしてならない。
たとえば「封印切」の忠兵衛は生と死の、もうぎりぎりのところにいる。
そういう人間の哀れさと、言うに言えない気持ち。
同じ花道なのに”出”の華やいだ気分と、”引っ込み”のときの絶望的な気持ち。
つまり、すこしの間に逆転してしまった恐ろしさと言おうか・・・・。
そういうものを、どう観客に訴えていくのか。どう芸で工風するのか?
それを見つけたかのような、今回の花道の”出”と”引っ込み”であった。
本文では、おえんが「またお近いうちに・・・・」と本舞台で忠兵衛を見送って、花道七三の忠兵衛が「近日・・近日・・・」とつぶやいて引っ込むと、ある。
今回は藤十郎自身の工風で、見せ場の多い印象的な”幕切れ”であった。
何回もやっているうちに、ひとつの役の性根からくるリアリティが濃くなるんですよ・・・・・番附で藤十郎さんは話していた。
おこがましいようだが、そのリアリティこそ上方歌舞伎のいちばん大事なところではないだろうか。
梅川に菊之助、八右衛門が三津五郎。
井筒屋のおえんに東蔵。ふっくらとした芸、上方風ではないが、味のある花車方である。
★ 「身替座禅」
とかく最近は「身替座禅」というと笑劇じみた「舞踊劇」になった傾向がある。
團十郎の玉の井。抑えるところは抑えて松羽目物の品位を保っていた。
菊五郎の右京の面白さは天下一品。
この面白さは、恋人花子との件で色気があって艶っぽく、だからおかしみが効いていることだろう。
浮気から帰っての”のろけ話”を太郎冠者に自慢する件(くだり)など、立役と女形との踊り分けがうまく、メリハリが効いている。
侍女千枝は巳之助。このところ巳之助の持ち役といってもよいだろう。
踊りがまことに端正。抑制が効いて行儀がいい。
★ 「寺子屋」
松王は松緑だが、声量といい、ニンといい、それなりの松王だが、スケールが小さい。
ことに泣き笑いの「けな気な奴・・・」からの言葉の切り方、桜丸への思い、息子小太郎への思いが散文的である。
小太郎の死を思ってつい桜丸と対照させるのが本来の姿で、桜丸を悼む心のかげに小太郎への思いがあるべきだろう。
この芝居の人間的な描写と義太夫狂言の手法のバランスが不足していろように思えてならない。
演っている本人は分かっているつもりでも、観客にはタダの説明にしか見えてこないのである。
海老蔵の源蔵を見るのは2度目。
前回よりも、段取りもスムースで引き締っている。
しかし、どうもあの目のギョロギョロが気になってしかたがなかった。
たしかに「目千両」の人だが、源蔵には不向きな気がする。
これはあくまで私見だが、松緑の源蔵、海老蔵の松王と役を入れ替えたほうが正解の気がする。いかがでしょうか?
菊之助が千代。いろは送りで焼香しながら、乳をおさえて倒れるところが印象的だった。
園生の前は吉弥。
上方のベテランだけに、出てきただけで舞台がグッと締まる。
戸浪が梅枝。玄蕃が亀三郎。父上彦三郎の声にそっくり。もう少し肩の力がぬければ有望株だろう。
言葉はわるいが、今回の若手による『寺子屋』は勉強会の域である、といえば言い過ぎであろうか・・・。