← 国民栄誉賞を受賞したころの森 光子さん
ヒビヤ芸術座『放浪記』 初演の一場面
女優の森 光子さんが亡くなった。 92歳だった。
彼女の一代の当り役、菊田一夫の作・演出による『放浪記』は演劇史上の名作と謳われた。
41歳で林 芙美子役をつかみ、89歳まで演じきった。上演は2017回を数えるという。
私はその初演の舞台をヒビヤの芸術座で見ている。
まだ芸術座の近くに当時は「日劇」があり、『君の名は』で一躍有名になった数寄屋橋も健在であった。
『放浪記』の初演は1961年。私はまだ学生だった。「昭和」のよき時代であった。
「花のいのちは短くて 苦しきのみこそ多かりき」
まず林芙美子の名文句がスクリーンに写し出され、幕間には、あの石段の多い「尾道」の風景だった。
そこに流れたのは古関裕而の哀切な音楽である。
もちろん森 光子の体当たりの演技は今もめに焼き付いている。
世間でよくいわれる「放浪記」の劇中にやる森 光子の「でんぐり返し」。ずいぶん話題になった。
森 光子さんの自伝『人生はロングラン』(日本経済新聞刊)を読むと、この「でんぐり返し」はオリンピックの「床運動」がヒントになったらしい。。
私は『放浪記』の舞台5、6回ほど観ているが、すべて「芸術座」である。
『放浪記』の好きな場面はどこですかと聞かれたことがある。
好きな場面というよりは、私がもっとも印象に残っている場面が二つある。
一つは尾道で行商人親子にご飯をご馳走になって帰るところだ。
森 光子(=林芙美子)は、行商の女の子に声をかける。
「お嬢ちゃん・・・・・いつかは、きっと、しあわせになるのよ、私もなるけ」
この 「 私もなるけ 」は、いかにも菊田一夫らしい台詞である。
林芙美子は好きな男と世帯をもって、また男に捨てられ、実家の尾道に帰ってきたのだが・・・・昔、惚れた隣島の男をよびだすが、教諭になっていた
男は、すでに結婚しており、子供がいたのである。
そんな人生のドラマが、この尾道の場に凝縮されていた。
ちなみに、初演で行商人の女の子を演じたのは中山千夏だった。
もう一つは、終幕。
作家になった林芙美子をかつての同僚である女流詩人・日夏京子が訪れる場面である。
「お芙美、あんた、ちっとも幸せじゃないんだね」
これは奈良岡朋子がいちばんうまかった。
林芙美子のライバル役の日夏京子は何度か代っている。
初演は浜 木綿子だった。その後、奈良岡朋子、池内淳子、黒柳徹子、樫原文枝、山本陽子と、私が知っているだけでも4,5人の女優さんが演じている。
←左の画像は雑誌『東宝』に掲載された菊田一夫による『放浪記』の台本。
世間では、森 光子は『放浪記』でいきなり主役をつかんだと思っている。
またマスコミも、そう書いてきた。
実は、それ以前に森 光子は同じ菊田一夫の『がしんたれ』で、林芙美子を
演じている。
そのときの林芙美子は端役にすぎなかった。
でも、劇中に登場する森 光子の芝居を見て、菊田一夫に『放浪記』を書こう
という意欲を湧き上がらせた。
のちに、菊田一夫は語っている。
「姿、かたちこそ違え、この役をこなせるのは森 光子だけ」と。
その言葉どおり捨て身で熱演し、みごとに菊田一夫に応えたのである。
私は『がしんたれ』、『放浪記』の森 光子扮する林芙美子を見ている。
この二作品はヒビヤ「芸術座」という収容人数 700人ほどの小さな劇場(こや)で生まれた。
すくなくとも「放浪記」によって森 光子が、「がめつい奴」で三益愛子が、「軌跡の人」で有馬稲子が、「雪国」で若尾文子が、実に無数の名作の成功があった。
ことに森 光子にとっては『放浪記』の芸術座は、ふるさとの劇場ではなかったか。
最後に森 光子さんが下積み時代に詠んだ川柳を紹介して、この稿の筆を擱きたい。
あいつより上手(うま)いはずだがなぜ売れぬ