先日の連休にひっかけて妻と小笠原(父島)に行ってきた。
東京都内だけど東京港から海路約1000km、船で25時間半、交通手段は空港がないので「おがさわら丸(通称「おが丸」」と「共勝丸(貨物船)」という船しかない。
ほとんどの人は「おが丸」で25時間半かけて渡っていく。おが丸がが父島に入港して、3日後に東京港に出港するので島に3泊しないと帰りの手段がないという自ら島流し&島に缶詰になるのである。
東京・竹芝桟橋を出て25時間、父島が見えてきた。
空の色も海の色も熱帯。
八丈島は自らを「東京都亜熱帯」と称していたが、ここは熱帯だ。
父島の横にある南島内の入り江、あの穴から波がざぶんざぶん入ってきます。
父島二見港から自転車・徒歩で30分の展望台からの眺め
見渡す限りの海・海・海…
小笠原諸島は戦中は日本軍が要塞島にして、戦後はアメリカが統治して昭和43年に返還されたという歴史がある。
島の山中には今も旧軍の建物や大砲などが残っているという。
綺麗な海、砂浜の沖には戦争中に魚雷を受けて沈んだ商船の残骸が今も残っている。
そうした悲しい歴史もある。
3日間(正確に言えば、3日と前後半日づつ)の滞在で、肌がちりちりするほどの日差しを浴びてこの歳にしては恥ずかしげもなく健康的に焼けてしまった。
着いた日は自転車で半日うろついて、2日目はドルフィンウォッチングのボートで1日島周辺をクルージングして、3日目は徒歩と自転車で行ける範囲を島内探索。
島内をうろついて、くたびれたら海岸の木陰でビールを飲み横になって、うたた寝をして、日が暮れたら宿に帰って晩酌と寝酒。
島の人たちもあくせくしてないし、どこかやっぱり時間の流れ方が違う。
山中にある喫茶店の店主は、小笠原のとりこになって、家族を置いてか家族がついてこなかったからか、単身で父島に住んでいるという。
喫茶店といっても山中に手作りのベンチとテーブルあるだけ、飲み物もマンゴー、パパイヤのジュースとレモネード、ホットコーヒーの4種類。
客が来なければ、来ないほうが多いけど、畑仕事と客席の手入れで過ごすという。
また、宿泊した民宿のお兄ちゃんは、船(おが丸)が入ってないオフの日は魚釣りやサーフィンで過ごす。
島内のお店やアクティビティのほとんどは、おが丸が出港した翌日が定休日。
物資は船でしか運ばれてこないから、おが丸の出入りでスケジュールが決まるようなものである。
意外だったのは、この島には地の酒がない。八丈島では島内で島焼酎を何種類も造っているのに、父島では酒を造っていない。
唯一あるのは、父島の南にある母島で果物のリキュールを造っているだけとのこと。
酒は太古からいたるところで造られて楽しまれているものなのに父島の人たちは酒を楽しまなかったのだろうか、ほかにもっと楽しめるものがあったからなのか。
内地(島の人は本土のことを「内地」という)から見たら不便なとこだけど、内地にはない雄大で豊かな自然に囲まれてのんびりと暮している。
そして、漁業と観光くらいしかない島にとって、ここを訪れてくれる人は、島の人にとっては「よう来てくれたのう」ということなのかもしれない。
それが、おが丸が父島を出港するときに、港で出港のセレモニーがあり、たくさんの人がいつまでも手を振って見送ってくれた光景に現われているのだろう。
おが丸が岸壁を離れてから沖合に出るまで、10隻以上のモーターボートが並走して、その間ず~っと手を振って「また来てね~」とこちらに向かって叫んでいる。
航海安全祈願の太鼓演奏 お見送りの船団
こっちも手を振る。振らないと申し訳ないくらいにいつまでも並走して、手を振って見送ってくれるのだ。
おが丸の甲板で、隣にたっていた女の子は泣いていた。
「また、来よう」と思わずにはいられない。そんな気候も人情も熱いところだった。
ミイちょろり様:お久でごわす。そうね、前向きに受け止めようね、パソコンが壊れて買い替えることくらい、なんちゅうことないさ~。
チョイ悪様:生きて、生きております。↑のようなことで・・・・ご心配おかけしちょりましたが、大丈夫です。