蕎麦やら、酒やら、料理やら・・・ピアノやら・・・それにしても、ドーナンダ?たむらん

趣味の蕎麦打ち、元来の酒好き、そして料理作りと仲間と一緒にわいわい、と
たまに思いつくあれこれと・・・趣味も

飽きもせず…

2010年03月28日 23時48分46秒 | Weblog

先週に続いて今週も山に行ってきました。
職場の同僚とその4歳の子供とで総勢5人で先週行った「武田山」にまた登りました。
子供は飽きやすいですが、面白みを感じるとすぐに飽きが飛んでいって先頭に立って登り始めたりします。
おだて、すかして、山頂までゆっくりと登ってみんなで達成感を共有して、
山頂では、子供がちょこまかと動きまわって大人をひやっとさせたりします。
でも、一緒に登ってきたという喜び、大人たちに褒められてやっぱり嬉しいのでしょう。
「また、山登りしたい」などと嬉しいことを言ってくれます。
4歳の子供との山登りで、久しく感じてなかった大人と子供との感じ方の違いを教えてくれたような気がします。
目新しい景色もなく、今週は画像はなしです。

それにしても、3月も終わりに近いというのに、気候が行きつ戻りつしています。

ねこまる様:中高年の山登り、って、たぶんですが、昔に回帰しているのかもしれません。
あるいは、若い頃は人工的なものへの憧憬というものからより自然なものへの回帰なのかもしれません。
高校生のとき、山岳部に入っていて何度か山に行きました。
それへの回帰だけではなく、やはり年齢を重ねて自然への回帰現象なのかもしれません。

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うららかな

2010年03月22日 17時41分15秒 | Weblog

春の3連休、風が強い日もあったけど総じて天気に恵まれたと言える。
特に所用もなく気候の穏やかそうな日は、散歩以上・登山未満のように近所の山に行っている。
と言っても、この2年間でまだ3、4回ほどであるが、2年間の別居生活や冬場のシーズンオフを除けば割かし行ってるのではないかと思っている。
「中高年の登山熱」などと言われて久しいが、若い人も意外と山に来ているようである。

自宅から徒歩1時間半くらいで登れる武田山という山に行ってみた。
途中、振り返ると安川という川沿いに開ける安佐南区の街並みと北向こうに荒谷山が雄大に見える。
灌木や広葉樹の茂る山道を登り切って到着した山頂からは広島市街地を一望する絶景が広がる。
瀬戸内の海、江田島や宮島はもちろん、遠く周防大島まで見通せるという。
この日、北西の風が強いにもかかわらず、東側の眺望を楽しむ側では風がさえぎられてうららかな春の陽光に包まれていた。
弁当は持参したもののビールを持って来んかったことが悔やまれてならない。
下山して、さしての疲労感もなく、健康的にまた経済的に1日を過ごした満足感に浸るのである。

ご近所近景。
白梅の花が散りかけているところに紅梅が咲いた。
ひょっとしたら桜かもしれないが私には梅と桜の花の区別がつかない。
その梅畑を見下ろす道路、我が家の接面道路であるが、その道路をささえ、道路の上の土地もささえる石積みの美しさに1枚、
この谷合いの地を田んぼへと開墾した際に、1個1個、手で積み上げられた石積みは、
コンクリートを型にはめて作ったブロックを積み上げた擁壁など及びもつかない先人の「いい仕事」を見せつけてくれる。
  後世に隙間をセメントで補強しているとは言え、先人たちが石の大きさを手で計りながら積んでいった造形の美しさを感じさせる。
こうして開墾して、さほど大きくもない1枚の田となしたにもかかわらず、
高齢化で耕作を断念せざるをえず、転用される田畑が増えている。
やがて、隙間を補修する手間や強度の関係などなどから規格化されたものに変えられるかもしれないけれど、
こうした「仕事」が確実に存在していたということは記憶にとどめておきたいと思う。


ちゃちゃジイ様:アナログ世代から見るとデジタルはまさに「革命」ですね、便利になったもんだと思います。
データ化してしまえばアナログ媒体のようにかさばらないし、劣化も生きてる間はほとんど気にしなくてもよさそうです。
ただ、「少しずつ減らす」とは、そのままにしろデジタルデータにしろ残さないことが肝要なのではないか、と思うております。

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小春

2010年03月14日 18時10分00秒 | Weblog

春の訪れとともに花々が反応する。  も  も

そして、姿は見えねど、鶯の鳴き声が響く。

 

これまで身の周りにあった「モノ」を減らすというのは、日々のゴミ捨てと違って気軽にはできるものではない。
そう、ゴミじゃなんだから。
かと言って、あまり考え過ぎても踏ん切りがつかなんだりすることもあるし、それなりのタイミングが要るものだと思う。

若い頃、ゴミは当然捨てるとして、雑誌やら本やら衣類、雑貨、人から見ればガラクタの類まで溜まる一方だったのは、
少しばかし収集癖的なところがあるのと、整理・処分のタイミングがなかった、あるいはそれを避けてきたかもしれない。
それでも、仕事の要請で転勤・引っ越しを何度か繰り返したので、それは半強制的なタイミングとなった。
また、転勤した先での住まいもさほど広くないので、そこに入るモノも自ずと限度があった。

高校卒業まで親元の実家にいたときは、本・雑誌はもちろんのことレコード、プラモデル、果てはコーラの空き缶までを本棚の上にうず高く並べていた。

同世代の人なら覚えているだろうが、今から30年か35年前のコーラの缶は海老茶っぽいメタリック塗装的な色合いだった。
その後、絵具の赤色のような缶に変わったので、メタリックの缶は更に希少なもと写ったのである。
自分のそういう収集癖のうち、そのコーラの空き缶を保存しているということが密かな満足でもあった。
でも、その空き缶の山は、おふくろにはかなり不評であった。
就職してしばらくして帰省してみたら、弟に代替わりした、かつての自分の部屋からその空き缶の山が綺麗になくなっていた。
おふくろが捨てたのだという。
就職して家を出る際に持ってこなかったからしょうがないものの、さっぱりした本棚の上を見たときはショックだった。

だから、ぼくは息子が家を出ていても、息子のモノを勝手に捨てない。

 

ねこまる様:お互いアラ50、まだまだ先はありますが、かといって何でもできる可能性が無限に広がっていう年代は過ぎてるのかな。
だからこそ、できないことを夢想することなく、できることをできる限りやって充実した壮年期を過ごしたいですね。

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特になにもなく

2010年03月07日 18時50分11秒 | Weblog

この1週間、天気がよく変わり、雨があがってもどんよりと曇り、そのうえ寒い週末だった。
いわゆる「寒の戻り」ということで春がちょっと足踏み。
ただ、先週からのあったかさで我が家のさくらんぼの花が開花してしまった。
まだ、1分咲きとも言えないけど、こんなに早く開花して大丈夫なんじゃろうかと少々心配になるのである。
去年はほとんど花がつかなんだということなので、今年は綺麗に咲いていっぱい実をつけて欲しいというのは植えた者の欲。

そのさくらんぼの木の根元にはえている水仙も1つだけ花をつけていた。
一輪とは可憐な感じで、もう少し咲きほこれば賑やかさが感じられれだろう。

自宅のすぐ近く、段々の田んぼの中に梅の木が何本があって少し前から花を咲かせている。 
先週、木だけの写真を載せたが、この梅の木の段だけならば、無理すれば桃源郷のように見えなくもない。
梅の花を愛でながら一献傾けたくなる光景なのである。

ついでに玄関に置いている寄せ植えとたぬき。

藤沢周平の小説に没頭していたことは東京在住中の時に書いた。
彼のエッセーの中に
「物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんと消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。」
というくだりがある。
30歳の頃にこのエッセーを読んでどう感じただろうかと思っても詮無いことであるが、
アラ50となって読んで妙に心に引っかって離れない。
ひとつには、現実的な話として、単身とはいえ東京で生活していたときの用品・雑貨の類を自宅に持ち帰った際に収納に困ったことがある。
妻は、当然のことながら、使えても不用品は処分しろと言う。
自分の中には、壊れて使えなくなったから最後の手段として処分というのがある。使えるものを捨てるのは憚れるのである。
とはいえ、収納もできず置き場所もない状態では、この先ずーっと小言を言われてはかなわないので、小言を誘発しない程度に処分を試みるという時期があった。
衣類も、何年前に買ったのか分からないが当時から体型が変わっていないこともあってまだ着られるのだが、
少々くたびれているものや着ることの頻度がほとんどないものも処分「させられた」のである。
また、少し前に部屋の本棚を移動した際に、手元に置いておきたいと思わないあ本を古書店に引き取ってもらったりもした。

こうして自分の身のまわりに置いていたモノを手放してみたら、
手放す前の、何か一抹の寂しさを感じるのではないかといった心配というか心持ちなどなく、
却ってすっきりしたという心持ちさえした。
こうした感じはおそらく今より若いころにはなかったのではないかと思う。
ということで、レコードやCD、写真といったまだ手をつけていないモノの整理処分に変な話、前向きになっている自分に気付いた。
痕跡は消せないけれども「モノを残さない」という処世観に少し傾倒しているのである。

 

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