じゃがいもの花が終わったら、なんと・・・実がついた。
直径1~2㎝くらい。もちろん食べられない。ソラニンという毒素の塊、らしい。
昨日と今日で田植えを終えた。
これで田んぼ仕事のメインは稲刈りまでひとまず終了、それまでは水量の管理があるが弟にお任せ
40余年前に就職して実家を離れてから、田んぼ作業をほとんど手伝わず、両親と弟に任せていた。
母が死に父が施設に入り、近所の協力を得ながらではあるが、兄弟3人での米作りも4年目、
田起こし、代掻き、田植え、草取り、稲刈り、脱穀、籾擦り、精米、、といった年間ルーチン作業。
それぞれの作業自体はそう難しいこたぁない、すこぶる旧式だが機械でするとこもある。
ただ、それぞれ年1回の作業、けっこう力仕事もあるし、週末で済まそうとガンバるんで少々疲れる。
それと田植えから稲刈りまでの間、ちょうどええ水の量を保つように管理するんはけっこう難しい。
水口から入れるのと後口から出すのと調整できるが、蒸発もするし雨降りもある。
調整をしくじると隣の田に水があふれて怒られることになる。
田植えを終えて思うに、物心ついた頃は機械なんぞなかった。
親戚にも手伝ってもらって手植えしとったんだよな~、と。
仕事の足しになったかどうか記憶は定かでないが、裸足で田んぼに入って素手で苗を植えた。
田んぼから上がると足にヒルが吸い付いとって血を吸われて大騒ぎしたような・・・。
苗を植え付けるとき苗を人差し指と中指と親指でつまんで泥の中に差し込む。
見よう見まねだった。
稲刈りは鎌で1株づつ刈って4株くらいを藁で絡むのだが、結わえるんはできんかった。今もできない。
稲木に掛けて1週間から10日ほど干して、脱穀機で稲から籾を取る。
当時、脱穀機は据え置きで稲木から干した稲を機械のとこまで運ばんといけんかった。
小学校高学年くらいになると、どれだけたくさんの稲を運べるかが弟たちとの競争ごとのようだった。
おばあちゃんが牡丹餅つくる時も、炊きあがったご飯をすりこ木で搗くのが手伝いだった。
普段食べるご飯と違うと言ったら、もち米と普通の米を半々に混ぜて炊いて搗くと牡丹餅になるんだと。
団子やちまきも作ってた。
米を粉引き屋で米粉にしてもらってきて、米粉を水で捏ねて丸い団子にして蒸す。
団子にせず、三角むすびのような形にして笹の葉で包んで蒸すとちまきだ。
味噌も自家製だった。
金だらいに煮た大豆と米麹と塩を混ぜたものを手動の機械に入れてハンドルを回す。
すると機械の横から、磨り潰された味噌のもとがウニウニウニ~と出てきて樽に受けて保存する。
他にも、盆の飾り付けや迎え火送り火を焚いたり、節分は柊の葉とイワシの頭を串で玄関に刺したり、
黄な粉は炒った大豆を粉にしたもんなんだで…とか・・・
おばあちゃんは「伝承しよう」などと思ってもなかっただろうけどね。
子供の頃のそんなこんなの話をすると、女房はほとんど経験したことがなくて新鮮なことのようだ。
自分としては、子供の頃、裕福ではなくどっちかっていうと貧乏だったけど、
今でも知恵として活きる、いろんなことを経験できとったんだな~と思う。
鳥取にUターンして、家庭菜園や花を育てるスローライフってのは贅沢なことなんかもしらん。
で、女房が所望していた
石臼が、我が家にやってきた~