木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

清水の次郎長とSONY

2012年07月14日 | 江戸の人物
マックスバリュ清水三保店は、「清水の歴史」という小冊子を作って無料配布している。手作りながら、レイアウトの綺麗な非常によくできた小冊子である。
当然、地元の名士である清水の次郎長にも触れている。

もしも次郎長が単なるゴロツキの集まりの大将であったなら、天下の大親分なんて決して言われなかったであろう。(略)
次郎長の前半生を「義理の人」とするならば後半生はまさに「人情の人」と言えよう。(略)
人情もろくて義理がたい。おっちょこちょいだがノンビリ屋。言葉は汚いが、気持ちはきれい。ちょびちょびおせっかいをやきたがる。


任侠の世界にどっぷりと浸かっていた次郎長はまさしく、斬った張ったの世界の住人で、江戸時代が平和のまま続いていたなら、決して陽の当たる道を歩けない人物だった。
幕末の混乱は、次郎長に味方した。新政府(いわゆる官軍)の要人にしたところで、暗殺やテロの経験者だったから、殺人や殺人ほう助犯であっても、任侠の世界での罪は混乱に乗じて帳消しになった。
もうひとつ幸いしただったのは、次郎長が助けたのが新政府ではなく、旧幕軍であったことだ。
次郎長が幕軍に付いたのは、駿府という土地柄もあるのだろうが、その選択が正解だったのは、次郎長のライバル、黒駒勝蔵の命運を見れば分かる。

勝蔵は甲州に縄張りを持つ親分。
清水の次郎長と甲州の黒駒勝蔵との抗争の背後には、清水港から甲州に運ばれる「甲州行塩」問題があった。
清水港に上がった塩を清水の商人はなんだかんだと値を上げ、甲州の商人に高値で売っていた歴史がある。
また米は逆で、甲州から清水に運ばれたが、ここでも荷役等をどう分割するかで問題が起こっていた。
このことから、自然に清水と甲州は、ライバル関係にあった。

次郎長と勝蔵は血で血を洗う抗争を繰り広げて行くのだが、時代は江戸時代から明治時代に移行しようとしていた。
この時期、勝蔵は赤報隊に入隊する。
勝蔵が官軍サイドの赤報隊に入ったのは、勝蔵が幕軍と敵対する仲であったからだ。
新島を島抜けした博徒の親分「ども安」こと武居の安次郎を勝蔵が匿っていたことがあり、勝蔵は幕府から「指名手配」される身であった。
ども安は勝蔵の親分であったが、島抜けという大罪を犯したども安も捕えられ、幕府の手によって処罰される。勝蔵は、これ以来、幕府には反感を持ち、官軍寄りの赤報隊に入った。
赤報隊は、政府にいいように使われ、邪魔となったらポイと捨てられている。
勝蔵は赤報隊沈没時の渦からは身をかわし、その後、官軍の徴兵七番隊に池田数馬の偽名で入隊する。
錦の御旗を振って駒を進めている頃はよかったが、勝蔵は明治四年十月に突然、処刑されている。
詳細な理由は分からないが、赤報隊と同じく、「邪魔になったら、即切り離す」方針はいかにも新政府らしいやり方である。
一方の次郎長は咸臨丸の件から、ぐっと幕軍に近い存在となったが、これまた幸いなことに、駿府は山岡鉄舟、関口隆吉、松岡萬など幕府の関係者が政治の中心に就いた。

「清水の歴史」によると、次郎長は、

有度山(静岡市)の開発、三保(清水市)の新田開拓、巴川(清水市)の架橋などの地元事業のほかに、遠州相良(榛原郡相良町)で油田の発掘事業にも携わったり、鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市大淵次郎長町あたり)の開墾に着手。

とある。

土建事業は今も昔も旨味の多い商売である。利権を政府から正式に与えられていた次郎長は、もはやアウトローに身をやつす必要など何もない。
若い頃は武力を以て商売敵を蹴散らす必要があったが、政府からのお墨付きがあるからには、好々爺を演じていればよかったし、倣いが本当の性格になっていったのかも知れない。
次郎長が偉人であったとか、善人であったなどという話にはどうにも疑問符を付けざるを得ないが、清水の大物実業家であり、実力者であったのは間違いない。

明治八年二月、清水に「中泉現金店」が開業した。この店は知多半田港で醸造業を営む中埜又左衛門と盛田久左衛門が共同で販路を広げるために作られた。この際には、清水の有力店「松本屋」に対してM&Aが行われたが、この話を纏めたのが、次郎長である。次郎長は面倒な交渉事もおこないうる実力を有するようになっていたのである。
ちなみに、この盛田家からは後にSONYを興す盛田昭夫が出る。

あまりに理不尽な勝蔵の最期と、成功した次郎長の晩年を思うと、運命の不思議さを感じる。
次郎長の成功は、人脈に恵まれた点が大きい。
大政、小政、相撲常吉など多数の個性豊かな子分。
鉄舟など旧幕軍の支持。
次郎長の運は強かったに違いないが、人脈を捉えて離さない人間的な魅力が次郎長にあったのだろう。

鉄舟に「これからは理学が必要だ」と言われた次郎長は急いで本屋に飛び込み、「理学の本を見せてくれ」と頼んだ。すると主人は山のように本を並べ出した。文盲の次郎長は「とてもこんなに多くては駄目だ」とほうほうのていで逃げ出したという。
次郎長にはこの手の話が多い。
もしかすると、次郎長の演出ではないか、と思えるが、なんとも人間臭い話だ。
「実業家」になっても次郎長は任侠時代の暗い影を忘れていなかったし、ふんぞり返っていた訳でもないように思える。
こういった次郎長の性格に運が味方したのも知れない。



次郎長の子分、小政の写真。冷血な殺人マシンだっと伝えられる。次郎長が「実業家」に転身してからも素行が改まらず、浜松で獄中死している。



大政の写真。尾張出身。身体が大きく、槍の遣い手。次郎長一家で一番のインテリだったとされる。

梅?寺HP

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