時代劇で吉原と言うと、普通は引っ越したあとの新吉原を指す。
もともとは葺屋町(現代の中央区日本橋人形町付近)人形町にあったのだが、明暦の大火、いわゆる振袖火事により遊郭も灰となった。
江戸の中心といってもいい場所に遊郭があることを憂慮していた幕府はここぞとばかりに吉原の移転を命じる。
移転先は、浅草田圃と呼ばれる郊外の地。
移転先は、浅草田圃と呼ばれる郊外の地。
この時から、以前の吉原を元吉原、後の吉原は単に吉原、もしくは新吉原と呼ばれるようになった。
現代でも吉原と言うのは、土地の人間か、一部の人間(?)以外にはどこにあるのか分かりにくい場所にあるのだが、JRでいえば日暮里が最寄駅となる。
その手のお店の案内を見ると、
入谷駅約14分、三ノ輪駅約14分、南千住駅約17分、浅草駅約21分
とある。

(図説吉原入門より)
江戸時代の人間は、日本橋や神田方面からは舟、浅草方面からだと徒歩で行くのが普通であった。
柳橋(JR総武線の浅草橋駅の近く)から舟に乗って大川(隅田川)に出た客は、首尾の松を左手に見ながら、吾妻橋を潜る。ほどなくして、竹屋の渡しが見え、舟は支流の山谷堀へ入るため、左に舵を取る。
今戸橋を潜ると、舟は船宿へと着く。
船頭に酒手をいくらか弾んで、船宿へと上がる。そこからは日本堤とよばれる土手である。日本堤とは壮大な名前だが、もうひとつ近くに堤があったので二本の堤というところから、日本堤と呼ばれるようになったらしい。別名、土手八丁。これは吉原までの距離が8丁(900m弱)だったからそう呼ばれた。気が焦るのか、船宿から駕篭を使う客も多かったという。
日本堤は浅草聖天町と三ノ輪を結ぶ一本道なので、徒歩で来た客も最後はこの場所を通らなければならない。
衣紋坂を下りると、見返柳が見える。吉原への名残惜しさから、客が見返ったという場所である。
そこからは、吉原が直接見えないようにわざと屈折した五十間道(三曲りとも言われた)が広がる。さらに少し歩くと、大門(おおもん)が見える。
二間(3.6m)のお歯黒どぶと呼ばれる堀を越え、大門をくぐると、そこにはまさしく異次元空間が広がっていた。
二間(3.6m)のお歯黒どぶと呼ばれる堀を越え、大門をくぐると、そこにはまさしく異次元空間が広がっていた。

(広重画帖 新吉原衣文坂日本堤)
ずっと徒歩で行く場合はもちろん費用は掛からないが、乗り物を使用したときはどのくらい掛かったのであろう?
江戸時代の記録マニア喜田川守貞の「守貞謾稿」に記載がある。
1文=30円レートで計算してみる。
ついでに現代(令和7年3月)でのタクシー料金を調べてみる。
馬 日本橋~大門
馬 日本橋~大門
並二百文(6,000円)
白馬三百四十八文(10,440円)
タクシー料金 2,100円
駕篭 小伝馬町~大門
二朱(15,000円) *雨の場合は増賃
タクシー料金 1,600円
舟 柳橋~山谷堀
猪牙舟 百四十八文(4,440円)
屋根舟 四百文~五百文(12,000円~15,000円)
屋根舟 四百文~五百文(12,000円~15,000円)
タクシー料金 1,500円
江戸時代は乗り物の代金がかなり高かったようである。
(2012.5.16の記事を加筆修正)