木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

山岡鉄舟と明治天皇

2014年07月20日 | 江戸の人物
山岡鉄舟は頑固一徹というか、信念の人だった。
剣豪と呼ばれながら、乱れた幕末の世にあって、ひとりも斬ることがなかった。
彼の根本にある思想は「剣禅一致」と「勤皇」である。
幕末、幕府側にありながら、常に勤皇の意思を持ち続け、明治になってからは、禅によって剣の極致を極めんと日夜努力した。
明治十三年、「天地の間には何物もないのだという心境」になって悟りをひらいた。
そんな鉄舟には興味深いエピソードが数限りなくある。
明治天皇と相撲を取った、という話も面白い。
鉄舟は、明治五年、西郷隆盛と岩倉具視らに求められて宮内省御用掛になった。
明治天皇二十一歳の時で、この後、天皇が三十歳になる血気盛んな十年間を傍に仕えた。
日時は詳らかでないが、ある日の晩餐で酒杯を重ねた天皇は法治国家の重要性を口にし、「道徳など何の役にも立たない」と極論した。
これに対し、酒席で議論が起こり、意見を求められた鉄舟は天皇に反論した。
天皇は俄かに厳しい形相となり、唐突に「相撲を取ろう」と言いだした。
鉄舟は座ったまま立とうとしない。
天皇は「ならば座り相撲だ」と言い、鉄舟を倒そうとするが、鉄舟はびくともしない。
しびれをきらした天皇は、目を突こうと飛び込んできたので、やむを得ず鉄舟は身体を僅かにそらした。
その拍子に天皇は前のめりに倒れて「無礼な奴だ」と怒る。
その後、別室で控えさせられた鉄舟は周囲に「謝罪せよ」と勧告されるが、固辞した。
「なぜ、わざとでも倒れなかったのか」との問いには「倒れれば、自分が陛下と相撲を取ったことになる。
君主に仕える身が君主と相撲を取るなど道に外れることだ」と論破。
「避けた拍子に陛下が転んだ」との指摘には、「酔った席で陛下が臣下の目を砕いたとあっては天下に暴君と呼ばれるであろう」と指摘。
開き直っているのではない。
「もし陛下がわたしの措置を不服とするのであれば、この場で腹を切る」と加え、別室に留まった。
陛下は休まれたので一旦帰れ、との侍従の言葉にも頑固として首を縦に振らず、端坐したまま夜を明かす。
翌朝、目覚めた天皇は、まっさきに「山岡はどうした」と尋ね、「別室にて控えております」との返事を得ると「朕が悪かったと伝えよ」との言葉を残した。
鉄舟は天皇の謝罪の言葉を聞いても満足せず、「実のあるところをお示しください」と要求。
ついに天皇は「以後、相撲と酒はやめる」との言葉を得た。
鉄舟はこの答えに落涙し、以後、自らの意思で自宅謹慎し、一ヶ月後にやっと出仕した。
その際には、ワイン1ダースを手にしていた。
天皇はワインを見て「禁酒のほうは、そろそろやめにしていいのか」と聞き、鉄舟が頷いたので、美味しそうにワインを口にしたとのことだ。
主従関係の在り方として、何ともいい話だ。

その鉄舟は明治二十一年七月十九日、九時十五分、座禅のまま五十三歳の短い生涯を閉じた。



鉄舟に手よる達磨の図

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