蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ (松尾芭蕉)
蛤=はまぐり
行く秋 季語の意味・季語の解説
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冬が迫り秋が滅びゆく様子、あるいはその時期を表わす季語。
ほかの晩秋の季語、例えば、秋深し、秋寂ぶ、暮の秋などに比べ動的で、季節の移ろいをとりわけ強く感じさせる。
晩春の季語「行く春」と同様に、過ぎゆく季節への惜別の情を抱かせるが、寂寥感は「行く秋」の方が強い。
芭蕉は『おくのほそ道』の旅の終わりに、美濃の大垣で次の一句を詠んでいる。
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この句は、大垣の人々と別れ伊勢の二見浦(ふたみがうら)へ旅立つ際の「惜別の情」を、「ゆく秋」という季語に託して表現している。
なかなか分かれたがらない蛤の「ふた(蓋)」と「み(身)」が分かたれるように、名残を惜しみながら人々と別れゆくという句意であるが、「蓋・身」と「二見」がかけられていて機知に富んだ作品である。
ただ、この句を、「おくのほそ道」の旅を締め括るにふさわしい、味わい深い一句としているのは、「行く秋」という季語の持つ寂寥感であると私は思う。
31秋の季語・時候・行く秋(デジカメ).jpg
デジカメ写真
季語の用い方・俳句の作り方のポイント
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行く秋と言う季語は、俳句を鑑賞する者に、過ぎゆく秋への惜別の情を抱かせます。
そして滅びゆく秋の寂寥感を感じさせます。
さらには、その年の秋に観た風景、感じた思いなどを走馬灯のように脳裏に蘇らせます。
ですから、行く秋と言う季語は、目に映った何かさりげないものと取り合わせてやるだけで、しっかりと心に沁みる一句を成り立たせます。
行く秋や手をひろげたる栗のいが (松尾芭蕉)
行く秋や抱けば身に添ふ膝がしら (炭太祇)
火ちらちら秋も行くなり峰の堂 (加藤暁台)
長き藻も秋行く筋や水の底 (黒柳召波)
行く秋やどれもへの字の夜の山 (小林一茶)
行く秋や書棚の隅の砂時計 (凡茶)
参照 http://haiku-kigo.com/category/7337841-1.html