ケンのブログ

日々の雑感や日記

三月七日

2018年03月07日 | 日記
イチロー選手の移籍先がマリナーズに決まったというニュースを
見たときちょっと涙ぐんでしまった。
この方どこまでもできるところまでやる方なんだなと思って。
キャンプが始まってもまだ移籍先が決まらないので
僕は半分諦めていた。
本当に辛抱強く決める方なんだなと思う。
年棒が全盛期の35分の一に下がっても契約するのも
なかなかできることではない。
今までにかせぐだけかせいでしまっているといえばそれまでかもしれないけれど
普通の人間だったら給料が三十五分の一に下がれば
こんなに下がったんか、俺もダメだなと落ち込んでしまう。
それに稼いでも稼いだだけ使ってしまってすっからぴんという人も
すくなからずいるのも事実。
辛抱が肝心ということは金光様もおっしゃっている。
せっかく信心していても辛抱、堪忍がたりないと
おかげを落としてしまうと。
おかげを落とすという言い方が金光さん独特の言い回しだけれど
簡単でわかりやすい表現だなと思う。
イエスや釈迦の教えは外国語を日本語に
翻訳したもので接するので翻訳の際に生じる
言葉のずれで解釈がおかしくなることもある。
僕に今思い浮かぶ典型的な例は
聖書は律法という言葉を使うけれど
英語の聖書では立法はlawとなっている。
lawは日本語に訳すと法律。
こうなるとなぜ日本語に訳すとき律法、法律と使い分けるのか
わからなくなってくる。
しかし、英語では律法と法律は一律でlaw と言うことを
しるとすこし知識というか考え方の幅が広がる。
例えばモーセの十戒にあなたは殺してはならないとあるけれど
これは今日の殺人罪としても通用する。
日曜日がおやすみという法律があるかどうか知らないけれど
日曜日がお休みの起源もモーセの十戒の
安息日を覚えてこれを聖とせよが起源であることは
ほぼ間違いない。
日本で日曜日が聖なる日という感覚はないけれど。
ヨーロッパでは毎週日曜日に教会で演奏して
そのことで高い評価と信頼を得ているオーケストラもある。
もちろんあなたは盗んではならない、も今日の窃盗罪として
通用する。
ところが律法と法律を混同することで生じるまちがいというものもある。
先日、社会の入試問題を見ていたら
神の前にはみな平等で信仰すればだれでも救われると
説いた人物は誰かまたその教えはという問題があって
答えはイエスでキリスト教となっていた。
それを見たとき僕はこんな入試問題があってもいいのかと思った。
僕の知る限り聖書のどこにも神の前には人間は平等とは書いてない。
このことは新渡戸稲造も指摘していて

例えば、男性の場合においてさえ、お互いに平等であるというのは
法廷や投票の場合など極めて限られた場合においてだけである。
このように考えてみると両性(男女)の平等に関する議論で悩むこと自体が
無駄に思えてくる。
アメリカの独立宣言が、すべての人間が平等に作られていると言うとき
それは人間の知能や肉体的能力に関して言われたわけではなかった。
それは単に、その昔ウルビアヌスが「万人は法のもとに平等である」と
述べたことを反復しているにすぎない。この場合、人間の平等の
基準は、法律上の権利にあるとされていたのである。

と武士道という書物のなかで述べている。
そう、法の下の平等という観念はあるけれど
神の前に平等という観念はない。
ここを読んだとき新渡戸稲造ってすごいおじさんだなと
感心してしまった。
しかし、神の前に平等という言葉はないけれど
金光さんは神の前にはみな氏子
天が下には他人はいない。といっておられる。

これもまた日本の神さんに特有の日本人には
とてもわかりやすい表現だなと思う。

ちょっと話が書き始めた時とはあらぬ方法に進んでしまったけれど
イチローが日米4000本安打を記録したとき
王貞治さんは「イチローくん、いや、イチローさん
気のすむまで野球をやってください」とコメントされた。
そのときは王さんがイチローくんといったあとイチローさんと
言い直すことに驚いてしまい、王さんのことがますます好きになったけれど
今では結局あのとき王さんがおっしゃった通りの展開になっていることに
驚いてしまう。
イチローさん、出場機会が減っても気にしませんから
気のすむまでやってくださいと僕も言いたい気持ちになってくる。