ケンのブログ

日々の雑感や日記

三月二十日

2018年03月20日 | 日記
いよいよお彼岸の季節だなと思う。
暑さ寒さも彼岸までというけれど本当にずいぶん暖かくなったなと思う。
今日は雨模様の天気だけれどそれでも暖かい。
夏目漱石の小説に彼岸過ぎまでというのがある。
記憶違いだったらもうしわけないけれど
あの彼岸過ぎまでというタイトルに特に意味はなく
ただ漱石が彼岸過ぎ頃まで新聞に小説を連載するつもりで
彼岸過ぎまでというタイトルにしたと言うようなことが
確か前書きにかかれていたような気がする。
とても風流な感じのタイトルだと思う。
風流と言えば茶道の先生の前では口を滑らさないように気を付けなければ
いけないけれど漱石の草枕に
茶道の煩雑な規則を風流とすれば麻布の連隊の
前へ進め回れ右は風流の極みである。
茶道の風流とは風流を解せない人間が
大体こんな感じが風流なんだろうと見当をつけて
極めて狭い世界のなかにことさらに縄張りをはって
これが風流だといっているようなものである

とおおよそそういう趣旨のことが書かれていたと記憶している。
天才的な指摘と言えば言えると思う。
もちろんそれがすべて当たっているとは言えないけれど。

ひるがえって新渡戸稲造の武士道のなかには
人の動きの合理性を極めればそれがおのずと茶道の作法になる
という主旨の指摘がなされていた。
これも言われてみればその通りなのだろうと思う。

先日大相撲大阪場所を見に行ったとき取り直しの一番が
何番かあった。
取り直しの時の仕切りの所作は取り直しの前とは違う。
取り直しの時には一定の所作を省略して行う。
取り直しなどそれほどあるわけではないのに
どの力士も取り直しの時所作でもたつくとくことはない。
あたりまえのように取り直しの時は取り直しの仕切りの所作を
きれいな流れでこなしていく。
すごいことだなと驚いてしまった。

僕は頭がとても片寄っていて
相撲の仕切りの所作など大きな所作は割りとよく気づくけれど
茶道の細かい所作にはなかなか気づかない。

夏目漱石が茶道の煩雑な所作を風流とすれば麻布の連隊の
前へ進め回れ右は風流の極みであると言いたくなる気持ちは僕にも少しわかる。

もちろん相撲のしきりの所作も茶道の所作におとらず
風流であると思う。

同じく草枕で主人公が小説を適当に
ページをめくりながらアットランダムに読んでいたら
女性から最初から読まないのかという指摘を受ける。
主人公は最初から読んだら最後まで読まなければならないと反論する。
女性はそれをきいて最初から最後まで読まなければストーリーが
わからないではないかと指摘する。
その指摘をきいて主人公はこれは女の指摘だと思う。
ストーリーがわからないとつまらないのというのは女の指摘だと。
その気持ちも僕には何となくわかる。
小説のあらすじをいろいろ紹介するようなブログを書いている人は
僕の経験上、概して女の人がおおい。
僕は頭が片寄っているので外国の長い小説を読んでいると
ストーリーがわからなくなってしまうことがままある。
しかし、文章そのものが面白ければストーリーがわからなくなっても
最後まで読むことができる。
逆にストーリーについていけても文章がつまらなければ
途中で読むのをやめてしまうというか挫折してしまう。
先日もストーリーにはついていっているのにつまらなくなってきて
挫折してしまった小説がある。

まあ、いろいろだなと思う。