ケンのブログ

日々の雑感や日記

三月二十四日

2018年03月24日 | 日記
やはり、もう春だなと思う。
桜の花は順次開花している。
もう少し満開に近づいたらお宮にお花見にいこうかなと思ったり
いや、みちみち咲いている桜を眺めていればそれがお花見だから
わざわざお花見にいかなくてもと思ったり
いろいろと悩む年頃になってしまった。
まあ、そのときの気分に任せたいと思う。
昨日、新聞のコラムなどで有名な方のブログを読んでいたら
日本の教育はこの30年来英語を話せるようになる教育をということで
改革病というくらい改革が行われてきたが
ざんねんながらすべての改革は失敗だったと言わざるを得ないというようなことが
書いてあった。
なるほど僕もその通りそうおもうと思ってそのコラムを読んでいくと
様々な問題点が書いてあるだけで結局筆者の考えがどうなのかということが
ほとんど伝わってこない。
ここ何年来この筆者のコラムを読むとそう思うことが多い。
なのでもうこの筆者のコラムは読むまいと思いつつ
問題点の指摘につられてつい読んでしまった。
結局文系の学者って一度有名になるとあとは
問題点を指摘しているだけで仕事が成り立っていくのかな
とついやっかみの気持ちが出てしまう。
ちなみに村上春樹さんはあるエッセイで
結局英語を使わざるを得ないという状況に追い込まれなければ
英語は話せるようにはならない。
逆にはなさなければならない状況に追い込まれると
自然とアドレナリンが分泌してきて話せるようになる。
なのでどんな改革をしたって結局は塾が儲かるだけという主旨のことを
書いておられた。
こういう論旨の展開なら実によくわかる。
僕もほとんど同様の考え方だ。
それで英語が話せるのならかっこいいけど僕の場合
話せないのでかっこはつかないけれど。
あと同じエッセイで春樹さんは日本語の歌をうまく歌えない人が
英語の歌を歌ってもうまく歌えないように、日本語の
会話の苦手な人が英語の会話が得意になるということはあまりない
という主旨のことも書いておられたと記憶している。
これもよくわかる話だなと思う。
僕の考え方は比較的シンプルで英語の入試問題は
京都大学のように次の英文を和訳せよ
それだけで十分だしそれがベストだと思う。
もちろん普通の大学で京都大学のように
日本語になおしてもなおかつ’内容がむずかしいというような問題を
出していてはほとんどの人は点がとれなくて差がつかなくなってしまうから
大学に応じて適切な英文を選んでそれを日本語に訳す問題がいいと思う。
そのようにして日本語と英語の間を行き来する思考回路を頭のなかに作る。
それさえやっておけば、話すことが必要になった人は話す力を
身に付けていくだろうし、話す必要のない人は特に話せなくても構わない。
昔の田中角栄さんの演説が動画にアップされているけれどそこで角栄さんは
「私はニクソンともブレジネフとも首脳会談でわうわうっとやってますから
みなさん角栄は英語が話せると思っておられる。
しかし、私は英語がはなせないのであります。
ではどうしてニクソンやブレジネフと首脳会談でわうわうっとやれるか?
それは同時通訳というかたがいるからであります。
同時通訳はテレビには映らないからみなさんにはわからないだけなのであります」
と語って結構聴衆の心をひきつけている。
いまの首脳もきっと似たようなものだと思うけれど
これから英語を話せるように改革していこうという旗をまた
あげているときに政府の首脳が実は英語が話せないと正直に言ったら
国民からぼろかす言われるから角栄さんのように勢いのある演説ができないのだと思う。
最近、相撲以外テレビを見ていないけれど
本当に最近の国会は答弁にたつ人が質問に答えないというのが
当たり前になってしまったように思う。
答弁に立つ人が質問者のキーワードを拾って
質問には答えずにそのキーワードを使って持論を長々と展開する
というシーンをずいぶん見たようなきがする。
質問のキーワードを使って質問には答えずに
持論を長々と展開するというのもそれはそれでひとつの才能なのだろうけれど。
僕が子供のころ塚本三郎という民社党書記長を勤めた
愛知県選出の議員がいて、国会中継を見ていたら
塚本さんは国会で角栄首相に質問し角栄首相が質問に答える間わき見をしていた。
すると角栄さんは塚本さんに向かって
「塚本くん、話を聞いておるのかね。これは君からの質問であり
また大切なことですからね。ちゃんと聞いていなきゃいかんよ」とおっしゃっていた。
言われた塚本議員は苦笑いしていた。
僕は子供ながら角栄さんて面白い人だなと思った。
まあ、時代がかわれば国会等答弁の様子もかわるものだなと思う。
話が横にそれてしまったけれど
外国語と日本語を行き来する思考回路って結構大切な気がする。
明治以降の現代日本語は欧米の言葉を翻訳する過程で
進歩を遂げたと思うし、またその際に漢文の知識もおおいに活用されているように
思える。
漢文は文法的に語順が欧米の言葉に近いから欧米の言葉を
日本語に落とし込むのに格好の手段になる。
結局、戦前にこのような日本語を使いこなした人の文章を読むと
今日でも見事に通用するしまた、その幅広い教養と
思考の深さに驚いてしまうこともある。
英語を話せるようになる教育といわれても正直途方にくれてしまう。
電車で予備校の広告を見ると早くも新課程入試英語四技能講座というのが
出ている。
本当に英語が話せるようになる四技能なのか、入試に通るための四技能なのか
こうなってくるともう話がわからないと思う。
なんとなく今回も結局は入試に通るための四技能
予備校がアドバルーンをあげて生徒を取り込むための四技能になる
蓋然性がかなりあるように思えてならない。