芹沢光治良の「人間の運命」という小説に、主人公次郎と名古屋地方の大手私鉄の経営者でかつ国会議員である次郎の義父、有田氏との間に次のような会話がある。
“”
(有田氏は)
「東京にいると運動不足でいかんね」
てれくさそうに、そう次郎に話しかけながら、八畳の食卓の前に坐り、食前のビールを一杯うまそうに飲み干して言った。
「わしは午後の特急で名古屋に帰ることにしたよ。仕事だ。それまでに鉄道省に寄って、うちあわせをすませてね」
「それで、いつ上京なさいますか」
「年内は無理だろうな。社員にボーナスを手渡さなければならないからな」
「ボーナスを、今でもお父さんが手渡すのですか」
「全社員に一人ひとり手渡すのだ、どんなふうに使うか想像しながら・・・愉快なものだよ」
なぜボーナスを恩恵のように渡すのだろうかと疑ったが、それには触れないで、
「年末の通常議会の開会式にも、出席なさらんですか」
「そうだなあ、年があけて、議会が解散の時には出てくるかな。思い出にもなろうが、最後を見届けておきたいからなあ」“”
この会話の中に
なぜボーナスを恩恵のように渡すのだろうかと疑ったがそれには触れないで
とある。
この場面の時代設定は満州事変の頃になっている。
その時代設定を考えれば、主人公、次郎は素晴らしい慧眼の持ち主だなと思う。
小説に描かれた次郎のものの考え方から想像して言葉を補えば
ボーナスは労働者の労働に対して経営者が支払う義務の領域に属するものなのに、それを恩恵のように思って支払うのはおかしい、と次郎が考えていることは直感的にわかる。
そしてボーナスを受け取るのは労働者の権利であると次郎は考えているであろうことも直感的に想像できる。
私達は金銭やもののやり取り、という行為において、しばしば、それが、権利、義務の領域で行われるものなのか、恩と感謝という領域で行われるものなのか区別がつかなくなってしまうことがある。
というかそもそも、そういう区別そのものを考えていないことがほとんどであるように思う。
もちろん、僕自身もそういう区別などほとんど考えていないというのが実情ではある。
しかし、もし、この小説の次郎のように、ものや金銭のやりとりが、権利、義務の領域に属するものなのか、恩と感謝という領域に属するものなのかという区別を意識できれば、人生のいろんな局面においてかなり明晰で、自分自身に対して誤りの少ない判断ができるように思う。
権利、義務の関係の事柄においても感謝を忘れなければ、なお良いように思うけれど。
なぜ恩恵のようにボーナスを渡すかと疑ってもそれには触れない、というのもお互いに、生き方における主義の違いにはなるべく触れないようにするという次郎の生き方の知恵が現れている。
こういうところ少しでも見習えればと思う。