ザ シンフォニーホールに第九特別演奏会を聴きに行った。
指揮 熊倉優さん
関西フィルハーモニー管弦楽団
合唱 関西フィルハーモニー合唱団。
第一楽章
冒頭は、ゆっくり目のテンポではいったけれど、だんだんテンポが早くなってきて途中からは僕の感覚で言うと早めのテンポという感じに聴こえた。
第九の第一楽章を聴く時、やはり木管楽器などが醸し出す敬虔さや、音楽全体の厳かさ、そういうものを期待するけれど、ほとんどそういうものが僕には伝わってこなかった。
それで指揮者の動きに目を凝らすと、音楽の拍子を取ることにかなりウエイトを置いた身体の動きになっているように見える。
拍子をとることにウエイトを置かなければならないオーケストラのレベルなのか、指揮者がそのレベルなのかそれはわからないけれど、音楽がさーっと流れていく感じで、音がフォルテになったところはぐっと盛り上げるという程度で、まあ、オーケストラが毎年のルーチン感覚で演奏する第九という感じに聴こえた。
第二楽章
印象は第一楽章とほぼ同じ。
音楽が拍子に沿って進んでいくという感じでこれといった引っ掛かりが演奏から感じ取ることがあまりできない。
オーボエの見せ所ではオーボエの奏者の方は一生懸命演奏しておられるように見えたけれど、演奏全体のバランスがオーボエの旋律の持つ美しさを活かすようになっているようには思えなかった。
楽章の冒頭で弦が第一主題を提示していくところでは、オケの配置が対向配置になっていたので、音がセパレートに聴こえてそこは耳に心地よかったけれど、まあ、心地よかったという程度の話と思った。
第三楽章
マイルドに演奏されてよかったとは思うけれど、要するにマイルドに拍子をとっているという領域をこえていないように思えた。
第四楽章
合唱団の方々が第一楽章が始まった当初からマスクをしておられたのでどうなることかと思っていたけれど、バリトンの独唱に続いて合唱が始まったときもマスクは着用したまま。
第九の生演奏はもう何十回と聴いていて、録音で聴いたのも含めれば、きっと何百回、何千回と聴いて、マスクを着用しない第九の合唱の音響はどのようなものであるのか耳にこびりついているので、もう弱音器をつけっぱなしにしたピアノの演奏を大きなコンサートホールで聴いているようで、「何?これ」という感じ。
合唱の音が天に突き抜けるように響いてこその第九なのに何を考えているのだろうと思う。
まあ、コロナの感染対策ということを考えておられることは明白だけれど、、、。
ドビュッシーが、岩波文庫から出ている音楽評論という書物の中で、第九の合唱について、「ここではシラーの歌詞の意味というのはほとんど問題ではなく、大切なのは合唱の持つ音響的効果、もっと言えば、合唱の持つ実質的な意味はその音響的効果である」という主旨のことを書いていたと思う。(整理整頓が悪くてドビュッシーのその本が出てこないので記憶で書いているけれど、要するにドビュッシーはそういう主旨のことを書いていた)
マスクをした合唱団が陰にこもったような音響を醸し出しているのを聴いて、本当にドビュッシーの言う通りやとしみじみと思った。
第九の第四楽章を聴いて、こころが弾むと言うよりは、むしろ、心が沈むように気持ちになったのは今回が初めてであるように思う。
音楽を演奏するときにはどんな演奏でも、それを作曲した人に思いを馳せるというのがとても大切なことと僕は思う。
ベートーベンがたとえコロナのときとは言え、マスクをした合唱団がこの曲を演奏することを望んだだろうかとそのことを考えると、僕はきっと答えは否であるような気がする。
あえて悪い言葉遣いをすれば、プロの演奏会でマスクをつけて歌うって聴衆をなめているようにも思えないわけでもないし、、、。
それでもプロのオーケストラがこのような形で第九を演奏することに意義があるとはたして言えるのかどうか、そのことをとても考えさせられる機会になった。
もちろん、マスクをしながら歌われた合唱団の方は大変だったと思うし、観客の手の消毒、検温、いつもと違うことばかり。演奏する方も、会場のスタッフの方も大変だったことと思う。
そして、演奏を聴く側もブラボーは禁止、楽章間での咳払いはできるだけ控えるように、という条件下で聴くことはそれなりの緊張を強いられるものであった。
本当に今の世相をそのまま反映した演奏会になったと思う。
第九を聴いて、やっぱりこういうときは音楽が一番だなと思わせてくれる演奏会、あるいは演奏ではなかったと僕には思えた。
しかし、それでもこうして演奏会を開いてくださった関係者の方々には感謝したいと思う。
指揮者も短期間の間にユルゲン ウルフさんから、飯森泰次郎さん、そして熊倉優さんに変更ということで満足なリハーサルもできなかったかもしれないし。本当に大変なところありがとうございましたと申し上げたいと思う。