今日、たまたま演歌を聴く機会があった。
「閨(ねや)の月影」という歌。
最後のサビのところは家に帰ってきて調べるとこんなふうになっている。
「朝に 昼に 夜に 月に 想い
窓を叩く風の音に目覚め
あなたさがすの
夢は夢のままね 閨(ねや)の月影」
結局、最後のサビの歌詞を見ると、恋い焦がれる思いは夢のままということなのだろうか。
しかし、いずれにしても雅な歌詞だなと思う。
閨(ねや)の月影という言葉を見て思い出す歌がある。
百人一首に収められているこんな歌だ。
「夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨(ねや)の隙さへ つれなかりけり」 俊恵法師
「意味:
あなたのことを思って、夜を通して物思いにふけっているこの頃は、夜が長く感じられてなかなか明けない。部屋の戸の隙間までがなかなか白んでくれずにつれなく感じられることだ」
調べると平安時代末期頃の歌となっている。
こんなふうに物思いにふけることができるのはしあわせな事なのか 辛いことなのか。
しあわせと、つらさは 同じことの表裏かもしれないけれど、幸せなことと思いたい気持ちが僕にはある。
この「閨の月影」という歌には
闇夜にかけてく十六夜の月 というフレーズもある。
確かに十五夜をピークにつきはかけていくけれど、かけていくのもまたいいのだとおもう。
松尾芭蕉の
霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ おもしろき
ではないけれど、富士が霧で見えなくてもそれもまた趣があっていいではないかという思いは大切と思う。
そのように かけていく月もやはり趣がある。
要するに、あらゆることに面白みを感じることができるのが芸術家の大切な要素なのだと思う。
夜8時ころに空を見上げると、満月には少し足りない月が天空のかなり高いところに出ている。
一週間前は午後6時ころに半月に近い月が天空の高いところに出ていた。
月が天空の高くにくる時刻も、毎日変化するということなのだろうけれど、僕は月の運動の法則は理解できないまま義務教育の過程を終わってしまった。
なんしか、月が空の高くに来る時刻が変わってるやん とそれしかわからない。
満月に少し足りない今日の月齢を見ると13.2となっている。
十三番目の月。
ちょっと欠けているところが、またなんとも言えずいいなと思う。
スーパーマーケットに入る前にその月を見ると、雲がかかっていたけれど、スーパーマーケットから出てくると、もう雲はなく、クリアな月になっていた。
それもまたいいなと思いたい自分がいる。