ケンのブログ

日々の雑感や日記

最高に美しいメッセージ

2021年02月04日 | 日記
丁度、夕方の通勤ラッシュの時刻にJRの幹線を走る電車に乗った。

車内はかなり混雑していた。通勤帰りの人が多い。同じ会社の人同士連れ立って帰る人も何人かいたけれど、だれも話をしない。やはり、今はそういうときなんだなと思う。コロナでないときだったら同じ会社の人同士電車に乗ればその日の会社での出来事など話しているのが普通だから。

新聞の編集手帳に目を通すとミャンマーの軍のクーデターとアウンサンスーチーさんに関して次のようなことが書いてある。

「近年のスーチーさんはイスラム系住民ロビンギャへの迫害を止めなかったことで国際社会の非難を浴びた。ノーベル平和賞を返上せよとも声まであった。だが、もしスーチーさんが軍べったりであれば、クーデターなど起こるまい。当欄でもロビンギャ問題を攻め立てたことがあるが、今になって思えば、複雑な暗部が見えていなかったかも知れない」と。

新聞はどの新聞でもそれぞれの論調というのがあるので、きっとこの編集手帳を書いた記者の方もスーチーさんのことを攻め立てたときも、新聞の論調の観点からそうしたような気がする。

新聞記者もその新聞社の社員だから、自分の好きなことだけを書けるわけではない。

記者の人もスーチーさんが軍べったりでないことはきっと前から気づいていたように僕には思える。

僕自身もスーチーさんがたとえ軍の擁護をしているとみんなから非難されても、国際司法裁判所の法廷にたったときに、その法廷に逃げずに立ったということに意味があるような気がした。

本当にスーチーさんの歩みをいろんな報道で見ていると、こんな苦難の人生があるのだろうかと思ってしまうけれど、スーチーさんに対する本当の評価が定まるのはまだこれから何年も経ってからのことになるのだと思う。

そのときはしんどくても、次の時代にのぞみをつないで生きるということはなかなかできることではないように思う。

僕は心の中でひそかにスーチーさんが次の時代にのぞみを託して生きておられることを期待しているのだけれど。

とは言ってもスーチーさんの心の中はスーチーさんにしかわからないことだけれど、、、。



時短営業に応じなかったお店に罰則を課すという新聞の記事に、実際に罰則を課すと言っても、そこまでにはかなりの手順を踏まなければならない。保健所などの役所も、そこまで手順を踏む余裕はないから、罰則が実際に課されることはまずないだろうというようなことが書いてある。

でも、やはり罰則が実際に課されるかどうかはともかくとしても、それが存在するというのはやはり重みのあることだなと思う。

正直な僕の気持ちを書くと、やはりちょっと気持ちが暗くなってしまう。


新聞の社会面に目を通すと、コロナが騒がれだしてから一年が経過するということでクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス」のイタリア人船長ジェンナロ アルマさんに取材した記事が出ている。

おもえば、この「ダイヤモンドプリンセス」でコロナの集団感染が起きたことが日本でのコロナ騒動の発端だった。

この船の中で船長は約一ヶ月の隔離生活を体験された。

記事の中に船長のジェンナロ アルマさんについてのこのような一節がある

「(アルマさんは)隔離中の一ヶ月について『私のキャリアの中で最も困難な日々だったが、最もやりがいがあった』と振り返る。その支えとなったのが、乗客から連日届いた乗員に対する感謝の手紙だった。詳細な内容には触れなかったが、『私が今までに読んだ最高に美しいメッセージで、感動的な瞬間だった』と感謝の思いを寄せた」と。

感謝のメッセージを「最高に美しいメッセージ」と表現するのはいかにもルネッサンス発祥の国イタリア人らしくて、エレガントだなと思う。

記事は最後に
(ジェンナロ アルマさん)は「Good night Diamond Prinsess」全員の下船が完了した3月1日の夜には、船内アナウンスでそう告げたあと、船長服の「正装」で最後に船を降りたという。 と結ばれている。

こういうなにかの節とか区切りのときに正装をして襟を正すという姿勢も私達には大切なことなのかも知れない。

ろくに正装などしたことのない僕が言っても説得力がないようにも思うけれど。

ちなみにこの記事を書いたのは女性の記者だけれど、アルマ船長に対してかなり好意的な記事になっている。

やっぱりイタリア人は女性にモテていいな、とついひがみ根性も頭を持ち上げてしまう、、、。












悩みって人それぞれでキリがない

2021年02月04日 | 日記
僕が読んでいる全国紙に「人生案内」というコラムがある。

そこにこんな相談が載っていた。

「70代の男性。50年も付き合ってきた友人のことで相談します。大学も就職した会社も同じでした。お互いに独身の頃はよく遊びました。世渡りの上手な彼は同期の仲間のリーダー格となり順調に出世。私は中間管理職止まりでしたが在職中はそれなりに納得していました。

お互いに在職中から大学のOB会の活動には、積極的に参加し、定年退職後にはOB会の幹部役員に。彼は在職中の実績もあって、役職の代表になり、私はナンバー2の地位で彼に協力を惜しみませんでした。やがて役員改選。私は当然、自分が代表に押されるものと思っていたのに、彼は別人を後継に指名したのです。その一瞬のうちに私の彼への友情は消え去りました。せめて彼から一言ほしかったと悔やまれます。

そのことがあって私はOB会を退会。闘病中だった彼はその後なくなりました。私の胸の内を伝えることなく亡くなったので、心の整理がつきません。どうしたらよいのでしょうか」と。

それに対する、作家の方の回答は要約すると次のようになっている。

「あなたの本質や力量、性格や才覚、長所短所をわきまえていたから、友人はあえてあなたを推挙しなかったと私は取ります。あなたに恥をかかせたくなかった。これぞ友情ではありませんか。あなたは友の真心に感謝しなくてはならない。

あなたは良い友人を持ちながら友の素晴らしいところを学ばなかった。もったいないことでした。今からでも遅くはありません。人に尊敬されている方の、せめてたち振る舞いを見習ってみてはいかがでしょう。まねすることも勉強です。心の整理もつきますよ」と。

僕はこの人生案内のコラムは割とよく目を通しているけれど、今日のこのコラムは読んでいて本当にやりきれない気持ちになってくる。

回答者の解答をもっと短く要約すると

「あなたの友人は、あなたは代表の器ではないと判断したから、あなたを次の代表に推挙しなかった。あなたはそのおかげで恥をかかなくて済んだのだから友人に感謝すべき。人に尊敬されている人の立ち振る舞いをもっと学べば心の整理もつく」ということになる。

代表になれなかったと悩んでいる人に、「お前は代表の器がなかったからなれなかっただけの話。力もないのに代表になってたら恥かいてたところやから、恥かかんと済んだだけでも感謝せな。もっと代表になるような尊敬を人から集める人の立ち振る舞いを学べば心の整理もつくやろう」と言ったら、その悩んでいる人の心の整理がつくどころか余計にその人は心が落ち込んで混乱してしまうのではないだろうか。

やっぱり実力がなかったから、代表になれんかったのか、と代表になれなかった人の悩みや悲しみが余計に深くなってしまうような気がする。

でも、こういう場合、結局は実力がなかったからとか、ご縁がなかったから代表になれなかったと、最後はそう自分にいいきかせてあきらめるしかないわけだから、回答者はそれを見越して、あえて冷たい答え方をしているのかもしれないけれど。

僕も、会社では、パンフレットの文章を書いたり、校正したり、そんな仕事ばかりしていたから、上司には「お前はできる仕事の幅が狭すぎる。もっと仕事の幅を広げな」と言われ続けて、結局それでも仕事の幅をひろげることはできずに、中間管理職にさえなれずに終わってしまった。

会社の人事報が回ってくると、いつも、「ああ、あの人は係長になったか、あの人は課長になったか」となんとなく自分が取り残されていくような気持ちで、それを眺めていた日々を思い出してしまう。

自分が会社を、離れて久しく、そういう誰がどういう役職でという考えが心を離れていたけれど、会社、そしてその後の大学のOB会に及んでも役職につけたかどうかで悩んでいる人の相談を読むと、僕も、会社の人事報を見て、さびしい気持ちになっていた頃のことを思い出して、やはりなんともやりきれないような気持ちになる。

人間、誰しも、やはり人に認められたい、そしてその結果としての役職がほしいという気持ちからは、そんなに簡単に離れられるものではないのだなとしみじみと思う。

ところでブッダ、つまりお釈迦様というのは、本当に、こちらがあっけに取られるくらいシンプルなものの考え方をするという特色がある。

本当にもうあっけにとられるくらいシンプルで、逆にそこに驚いてしまう。

たとえば、恨みや怒りををなくすにはどうしたらいいかという問に対しては
ブッダは「恨まないことによって恨みはやむ。怒らないことによって怒りはやむ」と答えている。

あまりにも当たり前すぎてあまりにもシンプルであっけにとられてしまう。

しかし、結局、恨みや怒りに打ち勝つには、恨まない、怒らない、それしかないわけで、その考え方のシンプルさを見るにつけ、そうやな、簡単なことやのに、と思うとそれがとても心の救いになる。

そのシンプルな考えで行けば、役職ににつけないと悩むのならば、それに打ち勝つには結局は役職に対するこだわりを捨てる、それしかないということになる。

でも、時と場合によっては、役職につきたいという目標が、努力の糧になることもあるわけで、、、と考えていくとキリがなくなってしまう。

若いときは、役職につくことが努力のモチーフになることもあるけれど、本当にこの新聞のコラムのように70歳を過ぎても、まだ役職のことで悩んでいたら、それはしんどいようにも思うけれど、、、。

今日、スーパーマーケットに行ったら、もう節分の飾り付けはなくなっていて、その代わりに雛あられと、菱餅を売るコーナーが開設してあった。

本当に商売は季節の先取りだなと思う