田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

“お奉行”加藤剛逝く

2018-07-09 17:37:55 | 映画いろいろ
 真面目で誠実な二枚目役を演じ続けた加藤剛が亡くなった。



 映画の出世作は、理不尽な主命による悲劇を描いた小林正樹監督、橋本忍脚本の『上意討ち 拝領妻始末』(67)の三船敏郎の息子役。これは、大河ドラマ「風と雲と虹と」(76)の平将門、「獅子の時代」(80)の架空の薩摩藩士・苅谷嘉顕、そして「関ヶ原」(81)の石田三成へと、真面目で融通が利かないが故に破れていく理想家役につながる系譜だ。

 演じた歴史上の人物としては、『千利休 本覺坊遺文』(89)の古田織部、『伊能忠敬 子午線の夢』(01)の伊能忠敬、そして代表作と言っても過言ではないドラマ「大岡越前」の南町奉行・大岡忠相など。山下毅雄作曲のテーマ曲が流れると、思わず「お奉行」と声を掛けたくなる。

 松本清張原作の、野村芳太郎監督作、『影の車』(70)の気弱なサラリーマンと、『砂の器』(74)の和賀英良役は、影のある二枚目役の白眉といってもいい。

 長崎で被爆した永井隆博士を演じた木下惠介監督作『この子を残して』(83)と、続く『新・喜びも悲しみも幾歳月』(86)の灯台守の主人公役では、誠実さがにじみ出た。

 そして、ベテラン辞書編纂員を演じた『舟を編む』(13)と、主人公の映画助監督の晩年を演じた『今夜、ロマンス劇場で』(18)での、枯淡の演技も見事だった。

 どうしてもアウトローやくせ者役が目立つ中、癖や嫌味のない役に、説得力を与えることができる稀有な俳優だったと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『トゥルー・グリット』『勇気ある追跡』

2018-07-09 08:52:38 | 映画いろいろ
 テレビで『トゥルー・グリット』(10)を再見。ラストシーンはイーストウッドの『許されざる者』(92)をほうふつとさせるところもあると感じた。この映画の公開が、東日本大震災の発生で延期になったことを覚えている。



以下、初見(2011.2.24.)の際に書いたコラムを転載。

 少々前説を。本作と同じチャールズ・ポーティスの原作を映画化した『勇気ある追跡』(69)の監督は大ベテランのヘンリー・ハサウェイ。酔いどれ保安官ルースター・コグバーンをデュークことジョン・ウェイン、テキサスレンジャーのラブーフをカントリー歌手のグレン・キャンベル、14歳の依頼人の少女マティ・ロスを、当時すでに21歳だったとはとても思えないキム・ダービーが演じた。

 こちらは、全体がユーモラスな講談調で語られ、最後は明るく伝説風にまとめられていた。これは、もちろんデュークの圧倒的な存在感があってこその作り方である。デュークはこの映画で念願だったオスカーを手にし、結果的に彼の後期の代表作の一つとなった。キャンベルが歌った「ワン・デー・リトル・ガール~」と始まる主題歌も心に残る。というわけで、昔から好きな映画の一本である。

 そして、この40数年ぶりのリメーク作の監督は、くせ者コーエン兄弟で、スピルバーグがプロデュース。コグバーンをジェフ・ブリッジス、ラブーフをマット・デイモン、マティを原作と同じ年齢のヘイリー・スタインフェルドが演じている。映画全体のタッチも、前作のユーモラスな講談調から硬質なハードボイルドに変わっているが、未読の原作はこちらの方に近いという。そして原作にある後日談を生かしたラストシーンも『勇気ある追跡』の明るい伝説風とは異なり無常感が漂う。

 さて、親子ほど年の離れた性格の異なる兄弟とも呼ぶべき両作だが、意外なことにどちらもいい。いつもは変化球勝負のコーエン兄弟が、ど真ん中のストレートで勝負してきた点に心地良さを感じる。前作とは違ったアプローチを取りながら、広大なロケーション撮影、3人旅のロードムービーとしての面白さは前作をきちんと引き継いでいる。

 ブリッジスは存在感はさすがにデュークには及ばないものの、愛すべきコグバーン役を見事に自分のものにしている。デイモンは一見損な役をよく引き受けたと思う。そして、14歳のスタインフェルドはまさに“テリブル・チルドレン”。アカデミー助演賞の受賞もありと見た。

で、この後すぐに原作を読んだ。

 この原作は全体がヒロインのマティの独白による回想で語られるから、骨太な一人の少女の成長期としても面白く読める。読む前は、『勇気ある追跡』はジョン・ウェイン用に随分設定を変えていたのだろうな、と勝手に思い込んでいたのだが、ラストシーンを除けばほぼ原作通りだったので少し意外な気がした。ただし、テキサスレンジャーのラブーフについては、原作の方に見せ場が多かった。

 多用される聖書からの引用の意味、あるいは全体に流れるキリスト教的なものの考え方は、正直なところよく分からないが、今回の映画のラストに何故讃美歌が使われたのかはおぼろげながら分かる気がした。あれにはコグバーンへの鎮魂とマティの決意の強さが込められていたのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする