田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『首』

2023-11-02 16:15:19 | 新作映画を見てみた

『首』(2023.8.16.角川試写室)

 天下統一を目指す織田信長(加瀬亮)は、毛利軍、武田軍、上杉軍、京都の寺社勢力と激しい攻防を繰り広げていた。そんな中、信長の家臣・荒木村重(遠藤憲一)が謀反を起こして姿を消す。信長は明智光秀(西島秀俊)や羽柴秀吉(たけし)ら家臣たちを集め、自身の跡目相続をエサに村重の捜索命令を下す。

 秀吉は弟の秀長(大森南朋)や軍師・黒田官兵衛(浅野忠信)らと共に策を練り、元忍の芸人・曽呂利新左衛門(木村祐一)に村重を探すよう指示。実は秀吉はこの騒動に乗じて信長と光秀を陥れ、自ら天下を獲ろうと狙っていた。

 宣伝文句は、北野武が構想に30年を費やして監督・脚本を手がけ、本能寺の変を題材に壮大なスケールで活写した戦国スペクタクル映画。武将や忍、芸人、農民らさまざまな人物の野望と策略が入り乱れるさまを、バイオレンスと笑いを散りばめながら描き出す、というもの。

 ところが、大河ドラマを批判し、見たことがないような戦国物を見せると豪語していた割には、グロテスクなシーンや男色シーンが目立つだけであまり新味はない。戦国版の「アウトレイジ」を見せられたような感じがした。

 何より、たけしの秀吉が年を取り過ぎていて違和感があった。せめて他の役者にやらせれば随分印象は変わったと思うが…。

 

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『ゴジラ-1.0』

2023-11-02 09:00:31 | 新作映画を見てみた

『ゴジラ-1.0』 (2023.10.18.TOHOシネマズ新宿)

 舞台は終戦直後の日本。戦争によって焦土と化し、何もかもを失い、文字通り「無(ゼロ)」になった東京に、追い打ちをかけるように突如ゴジラが出現する。ゴジラはその圧倒的な力で日本を「負(マイナス)」へと叩き落とす。戦争を生き延びた名もなき人々は、ゴジラと戦う術を探っていく。

 ゴジラの生誕70周年記念作品で、日本で製作された実写のゴジラ映画としては通算30作目。監督・脚本はVFXも手掛ける山崎貴。タイトルの「-0.1」の読みは「マイナスワン」。

 NHK連続テレビ小説「らんまん」で夫婦役を演じた神木隆之介と浜辺美波が共演。特攻隊の生き残りである主人公の敷島浩一を神木、焼け野原の東京で敷島と出会う大石典子を浜辺が演じる。そのほか山田裕貴、青木崇高、吉岡秀隆、安藤サクラ、佐々木蔵之介らが出演。

 庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(16)は、今の日本にゴジラが現れたら…というポリティカル・フィクションだったが、この映画は、“戦争とゴジラ”という原点に回帰し、まだ自衛隊が存在しない日本にゴジラが現れたら…という、今までのゴジラ映画にはなかった設定で描いている。

 山崎監督は、『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(07)のオープニングでゴジラを出したこともあるが、この映画を見ると、理論派でドライな印象を受ける庵野監督とは違い、ウエットな部分でゴジラに対する強い思い入れがあるのだろうと感じた。

 見どころの一つは“海のゴジラ”。小型船でゴジラと対峙するところは『ジョーズ』(75)、敷島が飛行機で行う空中戦は『ゴジラの逆襲』(55)の影響が見られるが、空中戦は自作の『永遠の0』(13)、巨大艦船は同じく『アルキメデスの大戦』(19)での経験が生きている。ともあれ、先の『沈黙の艦隊』同様、CG(特撮)の効果が絶大だ。

 音楽の佐藤直紀も頑張ってはいるが、いかんせんあの伊福部昭の音楽が流れると、全てをそっちに持って行かれるところがあった。

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「午後のロードショー」『オーバー・ザ・トップ』

2023-11-02 07:05:16 | ブラウン管の映画館

『オーバー・ザ・トップ』(87)(1987.7.25.大井ロマン.併映は『クロコダイル・ダンディ』)

強引なアメリカンドリーム

 妻子を捨て、トラックの運転手になったリンカーン(シルベスター・スタローン)。妻が病気との知らせを聞き、彼は10年ぶりに妻と息子と再会を果たす。リンカーンはアームレスリングを通して親子の絆の再生を試みるが…。監督はキャノンフィルムズのメナハム・ゴーラン。

 アメリカ映画には昔から父子物とも呼ぶべきジャンルがある。古くは『チャンプ』(31)『赤い河』(48)『エデンの東』(55)、最近ではリメーク版の『チャンプ』(79)『クレイマー、クレイマー』(79)『ナチュラル』(84)…。

 この映画は、そうした父子物にスタローンお得意のアメリカンドリームを足して作られたもので、それなりに面白く見られはするのだが、スタローンのアメリカンドリームは『ロッキー』(76)以降、どんどんと変わっていき、あざとさが目に付くのは否めない。

 どうやらそれは、スタローン自身の変貌とも大きく関係しているようで、下積み時代に書いた脚本を売り込んで自ら演じた『ロッキー』と、その後のロッキー・シリーズやランボー・シリーズとでは、アメリカンドリームを描きながら大きな開きがある。

 前者は、たとえ恵まれない環境にあっても、自分自信を精いっぱい燃焼させることで道は開ける、という昔ながらのものだが、後者は夢をつかむ者は強くなければならないというような強引さが目に付き、あまりいい感じがしないし、素直に入り込めない。

 スタローンは、スターになったことで大事な何かを忘れてしまったのだろうか。それとも、病める今のアメリカがそうしたヒーロー像を望んでいるからなのか。

『キャノンフィルムズ爆走風雲録』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/74e85ee1f4204b59ae02dc0dc5e24cd4

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