今日は二人の『母親』の命日です。
平成二年七月三十一日没 享年67才
戒名 安養貞成大姉 私の母親
平成二十八年七月三十一日没 享年88才
戒名 和峰貞寿大姉 夫の母親
気品ある珍しい色の朝顔の花
上の方に上を向いて咲いていますので、誰にも見られずに、萎んでいきます…
(当てずっぽうに、カメラを花の方に抜けてシャッターを数回切ったら偶々一枚こんなに綺麗に撮れていました。
もっと下。私たちの目線近くで咲いてくれると良いのですけれど…)
二人の母親の命日が全く同じと言う偶然。
戒名迄同じ貞の文字。
殆ど同じ時代を生きた二人の女性。
夫の誕生年も大正9年と同じ。
昭和23年8月に10日違いで次男出産と
当時の日本の女性の平均的な経験をしています。
が、二人の母親はとても
対照的です。
私の母は『家』と言う枠の中で、百姓として一生を終わりました。
昭和41年12月25日。46才の夫が脳出血で倒れその夜に急逝。
母は43才、私は13才でした。姑と四人の子供たち。
家の為に、地べたに這いつくばって、作物や子供たちを育てました。
平成2年7月14日夜クモ膜下出血で倒れ僅か18日間の闘病生活で急逝しました。
倒れた日にも、猛暑の中、二番茶のお茶の袋を担いで夕方迄働いていたそうです。
67才の母親が炎天下一日中重いお茶の袋を担いでいたと思うと
今でも可哀想で、申し訳無くて涙が自然に出て来ます。
こんな風に咲いていると折角の美しい花が、台無しですね……
夫の母親は数年間の入院生活。
89才の誕生日を目前にして亡くなりました。
正直なところ、嫂を始め周囲の関係者はみんなホッとした様子でした…
元々プライドが異常に高くて天の邪鬼の性格の女性でしたが、
昭和56年2月52才の時に60才の舅を亡くして未亡人になってからは、
より一層自分中心の考え方に凝り固まって、言いたい放題、遣りたい放題。
義兄には、「お母さんは人を受け入れない人だから。」とまで言われていました。
舅の法事どころか盆や彼岸の供養墓参り迄疎かにしていました。
気の毒な人
一昨日の日曜日
庭に咲いている沢山の花々を持って、富士霊園の夫の両親のお墓。
故郷沼津市の私の両親を始め多くの御先祖様達の眠るお墓参りに連れて行って貰いました。
台風通過後のお墓を綺麗に拭き清めて、手作りの花束やお線香を供えると、
自然に亡き姑が気の毒に思えて来ました。
何時も常識外れで、半分異常とも思える発言や行動の連続の姑でしたが、最後の電話は真剣そのもの。
お母さん大丈夫かしらと不安になったほどです。
Гアンタにも色々意地悪したけど、アンタの方がよっぽど良かった!
息子(ケビンの本名)を宜しく。」
※誰と比較しているかと言うと、義兄の最初の奥さんや二番目の奥さん。
何時も何時も、Г私は、お父さんのいない子なんかと結婚したくなかった。」とか
罵詈雑言。未亡人の母が夜なべして縫って持たせてくれた着物に「何時も田舎臭いのばっかりなんだから!?」
とか普通の感覚の人の思い付かない半狂人の台詞の連続でした。
今は、姑への怨みなどは 『あんまり』無くなっています。
※全く無くなった訳ではありません!!
私の母や兄弟親戚友人その他関係者に行った数々の無礼な行動や発言に対しては、物凄く嫌悪感を抱いています。
ああならないようにしようと言う私の反面教師。
私の大切な配偶者をこの世に産み出してくれた生物学的な母親。
非常識な発言や行動を注意したり、制止してくれる人たちも周りにいなければ、
本人が気付く以外仕方が無いのですから、姑もある意味被害者なのでしょう…
忘れることの有り難さ
姑が旅立って丸二年。
本来ならば三回忌です。
私も年を重ねて来ましたので、忘れることも多くなりました。
新しいことを覚える為には、何かを出さないと容量が足りなくなって来ています。
負の言葉や嫌な思い出。
悲しかったことや辛かったことなど。
捨てて
棄てて
忘れて
行きたいと思っています。
私色に咲いて
二人の母親とも違う私色の明るい朝顔の花。
『母親』『妻』『祖母』等色々な枠の中で生きています。
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