かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

ギラギラ輝く太陽光に悪い方の足を晒し日光浴を楽しんで来ました。

2017-05-18 | 気ままなる日々の記録

  いよいよ今年も夏本番を迎えこの施設からも太陽光を全身に浴びて葉を広げた木々の歓喜の姿が見て取れます。

 こんな風景に目を奪われていると、いつの間にかその中に子供時代の自分が現れ”ああそうだったなあ”と懐かしくなります。

 今頃になると田植えの準備に大忙しでした。

 「田の畔草刈は以前書いたとおりです。

 もっと重労働は「田お漉(おこし)でした。二毛作で、育てていた麦を刈取り、高く盛り上げていた土を平らにする作業です、

 結構重労働で持ってきた番茶を浴びるほど飲んで汗をかき、

 首に掛けたタオルで汗を拭きながらする作業でした。

 この作業は本当は雨の日の方が楽ですが、

 お天気も意地悪でそんなに思うようにはなりません。

   最近は「田植え機」も普及してきて、広い田んぼも半日ぐらいで田植えが済むようですが     以前は親戚の方々のお手伝うを頂いても1日仕事でした。

 本当に大変なのは農家の主婦でした。

 田植えを手伝って疲れ切った体で家に帰ると直ぐ夕飯の支度です。

 お風呂は最後に入って、お湯も随分少なくなっていて「首まで湯につかって・・・といっても足首までしか湯がなかった」とよく母が笑っていました。

 田植えを終わって8月には田の草取りや施肥をして順調だと喜ぶのもつかの間9月になって台風が来ると稲は倒れ一瞬にして数か月の努力も水の泡。

 もう食べられるお米は収穫できません。

 それでも、百姓は黙々と作業を続け誰にも文句が言えません。(T)

 もう少し巨視的にみると、30年もすぎると人口は倍になりますが、田圃は倍になりません。つまり、必然的に貧乏になるということです。具体的には、農家の次男・三男は相続する田畑が無くなり、工場労働者になるしかない。と云う宿命を背負わされ、 今までの経験や技術が無になってしまいます。

 日本の場合、中国東北部《満州)へ進出してそこへ東北の農民に移住を勧めます。南米のブラジルとかへも大勢の移民をしました。

 しかし、ここでも、楽な暮らしはできません。

 本当に一国のリーダーに背負わされた課題は大変でした。また脱線し申し訳ありません。(T)

  

                    無花果畑の農作業

 

 

 

 


穴があったら入りたい。

2017-05-18 | 気ままなる日々の記録

 ここの施設は、3度の食事を各部屋へ配ってくれる。

 「名古屋食糧」とかいう給食会社が調理したものを此処の厨房へ運び込み、此処の厨房では再度火を通しお膳をつくり各部屋へ配膳してくれる。

 今朝もここの配膳の小母ちゃんが

 「いつもパソコンをやっておられて偉いですねえ。お仕事ですか?」と声を掛けてくださった。

 「いいえいえ!」と慌てた僕は「チョットブログをやっていまして・・・・」

 「まあ、ブログがおできになるの?」といわれる。

 「まあ、真似事の様なものですわ。

 子供たちへの近況報告もかねて」と頭を掻く。

 確かに最近は手の込んだ素敵なブログも多いようでそれと比べるとまあ、幼児のお絵かき程度だ。

 折角褒めて戴いたのに、最近更新してないことに気づき、慌ててパソコンを開いたところである。

今夢中になっている本は、新潮文庫「日本人はなぜ戦争へと向かったか(外交・陸軍編》NHKスペシャル取材班編著定価550円である。

 少し丁寧に読んでいるので、読み終わるまでにもう少し月日が掛かると思われる。

 昭和16年12月8日、『臨時ニュースを申し上げます」と少し上ずった声でラジオが繰り返していたことを覚えている。

 このラジオ放送に祖父と父が対照的な反応を示したので余計に良く覚えているのかもしれない。祖父は典型的な明治人間で「神国日本」を信じていてイザトなれば「神風」が吹いて我が国を守ってくれるので負けるはずがない、と信じ切っていたが、

 父は大正デモクラシーと呼ばれる時代に学生生活を送った経験があるので、我が国の後進性を良く知っていたと思われる。(T)

  

                  散歩道で  柘植の花