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納骨

2013-10-07 13:36:08 | 手続き
土日を利用して大阪~神戸へ行ってきました。

母の納骨でした。

墓は神戸市須磨区、須磨寺の近く。

須磨寺は源平一の谷の合戦に所縁が深く、境内には熊谷直実と平敦盛が、
須磨海岸で戦った時の場面を再現した「源平の庭」があります。

また、この話には続きがあり、現場で首をはねられた敦盛の胴体は
須磨浦公園内の「敦盛塚」に祭られました。

熊谷直実はその首を須磨寺へ持参、「敦盛首洗いの池」で洗い、
逗留する義経に検分してもらいます。

その際、源義経が腰かけていたという「義経腰掛の松」が残っています。

首は須磨寺の「敦盛塚」(首塚)に収められました。
また、笛の名手でもあったという敦盛が持っていた笛は「青葉の笛」として、
同寺の「宝物館」に収められています。

さて、我が家の墓は須磨寺からは200mほど離れたところにあり、
高校野球甲子園大会で球児たちが泊まることでも有名な「寿楼」の北裏手になります。

離れてはいますが、言ってみれば「須磨寺からのつながり」のイメージで、
現在の管理は別団体になっているけれど、ずっと須磨寺発祥だと思っていました。

ところが今回納骨に関連して調べたところ、この墓地は古くから寺とは別のもので
いわゆる「村墓(むらばか)」だそうです。

村墓(むらばか)という言葉自体今まで聞いたこともなく知りませんでした。
辞書にもなくWikiにもない。

村墓地ともいうようですが、これも辞書になくよくわかりません。

地の村落の墓地の事だとは思いますが、墓埋法(昭和23年施行)よりもずっと以前から
それこそ何百年も前から墓地はあったわけで、まさしく先祖伝来、
当地が村落だったころからの村の人々のお墓、墓地だったようです。

一の谷の合戦(1184年)当時に既に須磨寺はあったわけで、886年に作られたそうです。
その当時すでに村墓があったかどうかはよくわかりません。

話を元に戻すと、その墓地の中に我が家の墓があります。
阪神淡路で多くの墓石が倒壊、損壊、うちの墓も倒れました。

到底起こせるほどの重さではなく、石屋さんに修復してもらったようですが、
2002年に父が亡くなった時に作り直しました。

今回の納骨で訪れた際も墓地全体の半分くらいはきれいな白御影でしたから、
1995年以降に建て直したお墓が多いようです。

時節はずれの暑い日差しの中、納骨は滞りなく行われました。

ご住職には、東大阪で懇意にしていただいていたお寺からお越しいただきました。
直線でほぼ45km、電車だと私鉄で1時間30分ほどかかります。
大変ご苦労をおかけし、またありがたいことでした。

これで6月に亡くなった母の供養の初年度の法要が終了しました。

まだ、役所関連の手続き(諸届の残が少しある)、
懇意にしていただいていた方へのご報告などが残っていますが、まずは一段落です。


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