車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

別宮(べつぐう)神社 in 福井県敦賀市櫛川

2016年07月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市櫛川に鎮座される「別宮(べつぐう)神社」。御祭神は『伊奢沙別命(いざさわけのみこと)』、また一説には『仲哀天皇・神功皇后』とも云われます。

由緒「往昔より別宮大明神と尊称し、聖武天皇天平二十年(748)蒙古襲来夜、敦賀の天地轟々震動し蒙古の軍悉く海中に覆没した伝える。この神瑞霊異を氣比宮の神官が朝廷に奏上した為、氣比宮の御造営の宣旨があった。其の折、櫛川と松原にも神社を創立したと云われている。当社御創立の以前は氏神に山神社を奉斎していたものと推想される。」敦賀郡神社誌より

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大きな耳を横に張り出した、大正4年(1915)6月建立の、エイリアンタイプの狛犬さん一対。目・口に施された彩色が鮮やかなのは、時に応じて化粧直しがされているのかもしれません。

ちなみに横顔で並べてみると、仲良しの二人がとっても楽しい相談をしているような雰囲気。人の手によって生み出された狛犬さんたち。見る角度によって想像が膨らんでくるのも、また、楽しみのの一つだったりします

本殿の傍らにあった末社に奉納されていた吽形だけの笏谷石の狛犬さん。満身創痍ですが、それでもこうして健気に神域を守護されています。

参拝日:2012年7月12日

 

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金崎宮(かねがさきぐう) in 福井県敦賀市

2016年07月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市金ヶ崎町に鎮座される「金崎宮(かねがさきぐう)」。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。御祭神は『恒良(つねよし)親王・尊良(たかよし)親王』。

境内迄の九十一の石段は、幸福の階段と名付けられています(^^;)。その理由は「九十二が無い・・・【九(く)・二(に)】つまり苦にならない」・・と言う事で「必ず駆け上がってください」と説明に書かれていますが、たどり着く前に間違いなく病院送りになります σ(^◇^;)

由緒「後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて金ヶ崎城に入城。半年の間、足利勢と戦うも遂に落城、尊良親王、新田義顕以下将兵三百余人も殉じ果てた。皇太子『恒良親王』は何とか逃れられるも、後に幽閉され 翌年京都にて他界される。金崎城落城後五百五十六年を経て明治二十六年、敦賀の人々の熱烈なる請願によって『尊良親王・恒良親王』を祭神に、社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である」

長い石段をやっとの思いで登りきると一の鳥居、その先に舞殿、拝殿が続きます。約1000本のソメイヨシノが境内を彩る金﨑宮は桜の名所としても知られており、毎年4月1日~15日に行われる「神事・花換まつり」が有名です。

舞殿の後方、拝殿には菊の御紋の神社幕が、まるで日章旗のように鮮やか。

拝殿の朱の透かし塀を背にして神域を守護されるのは、明治45年(1912)5月建立の浪花タイプの狛犬さん一対。

境内摂社「絹掛神社」。御祭神は『尊良親王に殉じた総大将・新田義顕以下三百二十一名』

鳥居前左右より神域を守護されるのは、明治45年(1912)5月建立の浪花タイプの狛犬さん一対。

絹掛神社の御社殿前より神域を守護されるのは、大正2年(1913)1月建立の狛犬さん一対。

体は小さくとも、方耳を失おうとも、御祭神が鎮まる聖域を一生懸命守護されています。

拝殿下の境内に建立されていた時計台は、「御鎮座 貮拾年記念」の奉納。

ちょっと風変わりな可愛い絵馬は、織田信長の窮地を知らせる為、妹お市が陣中に届けた小袋が手本だとか。朝倉攻めを見事勝利に導いたこの逸話から、金崎宮は難関突破の宮とも言われています。

「金崎宮」から花換えの小径を辿って更に上に行けば、国の史跡「金ヶ崎城址」に至ります。そこには、共に戦った武将たちと運命を共にする為に自刃した「尊良親王御墓所見込地」もあるとか。もう少し頑健であれば訪ねて見たかった史跡ですが、ここは謙虚にわが身を顧みて自粛(^^;)

城址碑のある場所から見えた敦賀港の風景

帰路の石段途中に鎮座されていた「愛宕神社」、鳥居の前からの拝礼で失礼させていただきました(o_ _)o

参拝日:2012年7月10日

 

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氣比(けひ)神宮~Ⅱ~ in 福井県敦賀市

2016年07月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する「氣比神宮」。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国から畿内への入り口であり、対外的な玄関口にあたる要衝であった事から、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視されました。昨日に続いての氣比神宮、大鳥居は二度目の参拝、三年後のもの・・かなり色褪せが目立ちます。

二日目の今日は、南参道から神橋を渡っての境内紹介。

一の鳥居をくぐった先より神域を守護されるのは、明治28年(1895)4月建立の浪花タイプに近い狛犬さん一対。

笏谷石の狛犬さんに比べると、とにかく人懐こい顔立ち(笑)。それはともかく・・阿形さんの口元から流れ出た黒いシミのようなもの・・非常に気になります。心無い愚者の仕業でなければ良いのですが・・

南参道からすぐ左手に、「末社:大神下前(おおみわしのさき)神社」、御祭神 は『大己貴命(おおなむちのみこと)』。こちらは2009年参拝時の画像。

「式内社で、敦賀市内氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。」公式HPより(三年後の画像)

鳥居の内より神域を守護されるのは、宝暦7年(1757)9月吉日建立のダースベーダー顔の笏谷石狛犬さん一対。うっかり手を出すと嚙み千切られそうな吽形さんの噛み締めた歯・・・怖いですよ(^^;)

大神下前神の左(向かって右)に鎮座される「末社:兒宮(このみや)」。御祭神は『伊弉冊尊(いざなみのみこと)』。平安朝時代、花山天皇寛和2年9月20日遷宮の事が残されており、その以前よりの鎮座とされます。

徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤く、公式HPいわく、母子大小の笏谷石狛犬さんが拝殿内を守護されています。

母子狛犬とありますが、おそらくは全く別個の狛犬さんを一対にしたと思われ、母とされる阿形さんは、享保11年(1726)の建立。

子とされる吽形さんは、嘉永2年(1849)の建立。似ても似つかぬ見知らぬ赤の他狛犬ですが、縁あって母子とされたのであれば、仲良くお過ごし下さいますように。

「兒宮」の隣に鎮座されるのは、摂社で式内社の「角鹿神社」。御祭神は『都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)

「崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」に由来する。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われた。」公式HPより JR敦賀駅前『都奴賀阿羅斯等』の像

境内亀池側の絵馬殿

「亀池」敦賀は名水湧出の地であり、特に境内は水脈の中心に位置し江戸時代に当宮の亀池は「日本庭園歴覧」に記された名池でもあった。明治42年、東宮殿下(大正天皇)御参拝のお茶の水に用いられた一井がその由来を語る。昭和の大造営で亀の池を改修、滝のある神水苑を整備しお水取りの参詣者でにぎわう。」公式HPより

昭和11年、当時陸軍関係者が武運を祈願して献木されたユーカリの木。傍らの案内板によれば、ユーカリが北陸の寒冷地に育つのは珍しく、敦賀市指定天然記念物となっています。

「旗掲松」南北朝争乱時代の延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたと云う「旗掲の松」。金ヶ崎城を築いて足利軍に対し奮戦したものの、一門ことごとく討ち死す。今でも旧根が朱塗中鳥居前に残り二代目が成木として雄々しく育つ。」公式HPより

参拝を終えて手水舎の近く、気になっていた「長命水」で気比神社の紹介は終わり。説明によれば、大宝2年(702)の修営途中に、突然として地下水が噴出したと伝えられており、以来、1300年以上に亘り「長命水」の名称で親しまれ、小容器で持ち帰る人もいるそうです。

参拝日:2009年6月5日&2012年7月10日

 

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氣比(けひ)神宮~Ⅰ~ in 福井県敦賀市

2016年07月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀市曙町に鎮座される「氣比(けひ)神宮」。式内社(名神大社)で、北陸道総鎮守・越前国一宮。旧社格は官幣大社。御祭神は『伊奢沙別命(いざさわけのみこと)・仲哀天皇・神功皇后』

参拝者を迎えてくれるのは、正保2年(1645)造営の木造朱塗の両部大鳥居。扁額の文字は『有栖川宮威仁親王』の染筆で、国の重要文化財に指定されています。奈良「春日大社」の大鳥居、広島「厳島神社」の海上に立つ大鳥居と共に「日本三大鳥居」の一つに数えられています。

「二千有余年前、伊奢沙別命は天筒の嶺に霊跡を垂れ土公の地に降臨したと云う。仲哀天皇御即位の後、当宮に国家の安泰を御祈願された。神功皇后三韓征伐出兵の折に御参拝され、海神を祀るように神託を受け、海神から干・満の珠を得た。仲哀天皇8年、安曇連に命じて気比神を祀らせたと云い、これが神宮の創建とされる。大宝2年(702)、文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。」公式HPより

中鳥居の正面に見える外拝殿・内拝殿、更に奥に本殿が鎮まり、周囲には『日本武尊・応神天皇・玉姫命・武内宿禰命)』を御祭神とする「東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮(四社の宮)」が鎮座されます。

「古事記」によれば、御祭神伊奢沙別命「御食津(みけつ)大神」とも称されており、「御食津」が「気比」に転訛。「けひ」は「食(け)」の「霊(ひ)」。すなわち食物神としての性格を表す名称ともいわれます。

御本殿に向かって鎮座される「九社之宮」。古来より氣比大神の御子神等関係の神々をお祀りする社として崇敬されています。

かって国宝とされた社殿群は第二次大戦の空襲で大鳥居を残してすべて焼失。現在の主要社殿は戦後の再建で、この廻廊も「昭和の大造営」によって新築落成されたもの。

廻廊を出て境内を突っ切った先、天筒山(てづつやま)に向かい合うように「土公(どこう)遥拝所」があります。

「上古、『伊奢沙別命』は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨せり」「土公は陰陽道の土公神の異称。その土砂を土公の在る地に撒けば悪しき神の祟りなし」

戦後の諸事情により、鎮座地を「敦賀北小学校」に譲る事になった「土公」ですが、神宮創建に関わる「神籬(ひもろぎ)」であるため、校庭の一角にそのままで保存され今日に至っています。鳥居の奥より遥拝所を守護されるのは、享和元年(1801)建立の笏谷石(しゃくだにいし)の狛犬さん一対。

扇のように肩から背中にかけて開いた鬣(たてがみ)の形状が、遠くエジプトのスフィンクスを想像させるという人もいますが、私にはクレオパトラの髪型に、より似てると思っています(^^;)

インパクト大のお顔、正面から!

豪快な笑い声が聞こえてきそうな阿形さん・・横顔とのギャップが(^^;)

後姿だけ見たら、ぱっつん切り髪のお姉さんみたいなストレートヘアー。お揃いの尾が何とも素敵で・・(((((^_^;)

気比神社境内には、摂社5社・末社9社の計14社が鎮座されています。まずは境内入り口近くに鎮座される「猿田彦神社」。御祭神は『猿田彦大神』。気比神をこの地に案内したとされる神です。

鳥居の内、参道中ほどより神域を守護されるのは、寛保3年(1743)8月吉日建立の笏谷石の狛犬さん一対。

横顔とのギャップ、土公さんの狛犬さんに負けずとも劣らず(笑)

世間の悩みやしがらみが全部消えてしまいそうなお顔(笑)

仏教の影響による「猿」と「申(さる)」との混同から、庚申(こうしん)の日に祀られるようになったという「猿田彦神」。その為か「蟇股」の彫刻は「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿。

こちらの狛犬さんを写真に写していると、近所に住んでいると言う人から声をかけられました。いわく、「この狛犬は非常に古いもので、しかも物凄く珍しいものである。特に尾に注目してくれ」と言うことで、改めて後姿と、注目すべき「尾」の部分のアップ。平ったいカタツムリみたい(*^^*)

素晴らしい狛犬さん、実はまだまだおいでになりますが、この続きは「気比神宮~Ⅱ~」で。

参拝日:2009年6月5日&2012年7月10日

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御神名一口メモ

『伊奢沙和気命(いざさわけのみこと)=気比大神』。海・風・食物の神。遣唐船の航海無事を祈願する為、しばしば朝廷により幣帛が奉じられた。

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