車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

香久山(かぐやま)神社 in 福島県郡山市小原田

2024年09月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市小原田に鎮座される「香久山(かぐやま)神社」。御祭神は『大綿津見命(おおわたつみのみこと)・誉田別命(ほむたわけのみこと)』。本来であれば鳥居からの画像なのですが、3月11日の地震により倒壊したとの事。改めて災害のすさまじさに心を打ち砕かれ・・言葉にできない痛みに胸がつぶれます。

由緒「治承4年(1180)、平清盛が天皇・上皇を京よりお連れし摂津福原に遷都のおり、宮廷秘録のうちに吉備津彦命に連なる系譜の人に守られ陸奥へ下向、香久山の地で「八竜神」と呼び宝物を守護した事に始まる。慶長19年(1614)の棟札に「祭神:八竜神社」と記され、村の鎮守として鎮座。寛文12年(1672)・元禄2年(1689)・享保7年(1722)等、造建の棟札が数多く残る。明治二年(1869)に、旧社奉安地の名をとり 「香久山神社」 と改称。」

拝殿額は阿吽の龍に守られ、それを掲げ持つのは二人の力神。これほど凝った拝殿額を見るのは福島県では初めて。

向拝彫刻は不敵な面構えの龍。鋭い眼光はおそらく目に玉が嵌めこまれているからでしょう。

貫には、楽しげにボタンを咥える獅子と・・鼻が切れてしまった象😅。

同じく牡丹の花茎を噛み締める獅子と、更に影の薄い象😅。

ゆったりとした時間が流れる境内、私たちの他に人の姿は無く、ただ緩やかに時間が流れるのみ・・

余談ですが、昭和20年代、西田敏行氏はこの神社の社務所を改築した一軒家で小学校二年~中学卒業までの間を過ごしたそうです。

参拝日:2015年6月25日

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阿邪訶根(あさかね)神社 in 福島県郡山市大町

2024年09月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市大町、郡山駅近くの町なかに鎮座される「総産土 阿邪訶根(あさかね)神社」。御祭神は『猿田毘古命・平忠通公・宇迦之御魂命』

「康平年中(1060~)に伊勢の国:阿坂より猿田毘古命の分霊を迎え、「道祖神社」として創建。「うぶすな様」の愛称で親しまれてきた歴史ある古社。「うぶすな」は「うむ・むすぶ・すな(産む・結ぶ・土)」の意であり、安産・縁結び・地まつり(地鎮祭)の霊験 あらたかなる事で知られる。御祭神である『平忠通公』は平良文の子孫と言われ、弓の名手として武勇の誉れ高く、のちの三浦氏の祖として伝えられる。寛治3年(1089)に公の霊を当社に合祀し「御霊宮」と改称。明治初年「忠通神社」となり、明治22年に「阿邪訶根神社」となり現在に至る」境内由緒より

清々しい緑に覆われた参道

拝殿横に掲揚された日の丸が殊のほか清々しく、おのずと背筋がしゃんと伸びる😊。

木の陰で全体が見えませんが、本殿は平入りの八幡造に近い構造をしており、前後の社殿を繋ぐ合いの間を長くとられている様式が特徴的と説明されています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和八年七月吉日奉納の狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬を手にしています。

上の画像で見ると、拳固を貰う寸前で首をすくめる仔狛さん。でもって親狛さんは、絶妙な寸止め😅

福島型ですが、立体的な螺髪や横に広い顔立ち、更に仔狛の扱い等、石工の個性が光る一対。

境内の一画、覆い屋の下に納められた県指定重要文化財「法華曼荼羅供養塔」「源頼義、義家が奥羽平定をしたあとの治暦3年(1067)に建立したとも、奥羽平定後、敵、味方の戦死者の霊をとむらうために建てられたともいわれている。 供養塔は高さ2.43メートル厚さ30センチ、碑の表は風化が進んでいるが、仏の姿を表す梵字(ぼんじ)などを配置した曼荼羅が刻まれている。」現地案内より

境内西、道路に面して建立されていた板碑三基。拝殿側より「月夜見命」「山神」「湯殿山」

東日本大震災により倒壊した「西参道鳥居」。柱の下方に几号水準点の「不」が刻まれているそうですが、胸にこみ上げる物を抑えるのが精一杯で・・確認はできませんでした。(几号水準点は、明治初期に高低測量を行うために設置された基準となる測量点。イギリス式の測量法に従い、漢字の「不」に似た記号を不朽物に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点としたもの)

この日私たちが目にしたのは、境内の隅々まで、体を擦りつけるように屈みこんで除染作業をされておられた方々。未曽有の災害の後、このように遠方から参拝に詣でる事が出来たのは、皆様方のお陰である事を決して忘れません。私たちに出来る事はたかが知れていますが、それでも精一杯のエールを送り続けようと、さらに思いを強くした場面でした。

未曾有の災害を経てもなお、全ての命を慈しむかのごとく、空に枝を広げる御神木の清々しき緑・・見上げて、もう一度深く一礼をして・・境内を後にします。

参拝日:2015年6月25日

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御神名一口メモ

平忠通(たいらの ただみち)公』、平安時代中期の武将。清和源氏の棟梁・源頼光に仕え、弓の名手として剛勇を鳴らした。三浦氏・鎌倉氏の祖。

 

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安積國造(あさかくにつこ)神社 in 福島県郡山市清水台

2024年09月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市清水台に鎮座される「安積國造(あさかくにつこ)神社」。御祭神は『和久産巣日神(わくむすびのかみ)・天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)・比止禰命(ひとねのみこと)・誉田別命・倉稲魂命』

「成務天皇5年(AD327)、勅命により安積国造に任ぜられた比止禰命は、安芸国より当地へ赴任。国を開くにあたり、赤木山に社稷(しゃしょく)の神として和久産巣日神、天湯津彦命を祭り、四方八丁の稲城(いなき)を築いた。安康天皇2年(455)、赤木山の社稷に合祀され、国造神社と号した。延暦年中(782~806)、坂上田村麻呂、東征の際に宇佐八幡大神を合祀。永承年中(1046~1053)、源頼義東征の折に戦勝祈願し「幕内」の地名を付す。寛治元年(782~806)、源義家東征の際、神領を寄進。天和3年(1683)、八幡大神が赤木山の国造神社から、稲荷大神が安積伊東氏古城内から清水台へ奉遷。明治5年(1872)、国造神社が清水台へ奉遷、3社を総称して安積国造神社と号した。」公式HPより

文化7年(1810)再建の拝殿、市内では数少ない江戸時代の建築。

鳥居前左右より神域を守護されるのは、玉を取る阿形さん。仔狛を遊ばす吽形さん。仔狛の丸っこいお尻がこの上なく可愛い😍

が、可愛さはそんな物じゃない。私たちもこの狛犬さんを見た時は思わず歓声を上げたほど😆😆 背中によじ登って得意げに下の仔狛さんAを見おろす仔狛君B。悔しそうに見上げる仔狛をなだめるように背中を叩く親狛。この構図、関西や上信越などでもたまに目にしますが、どれも文句なく可愛い💛

まるで見守るような眼差しの阿形さん、人の世界も神獣の世界も、親子の情愛は同じなのかも知れません。

拝殿向かって左に「白王稲荷神社」

稲荷社の石鳥居前左右より神域を守護されるのは、稲荷の眷属とされる神狐さん一対。何百という神狐さんを見てきました、こんなに優しいお顔の神狐さんは初めてかもしれません。

阿形さんの前足に縋りつく子狐さん、吽形さんの腹の下でうずくまる子狐さんですが、左前脚の空間がかなり気になります。ともあれ、阿吽ともに子狐さんを連れているのは、ちょっと珍しいタイプ。

吽形さんの前足に縋って、しきりと何かをねだる風情の仔狐さん。

おねだりの理由は、吽形さんの背中によじ登って得意絶頂の子狐さん。開ききった後ろ足の可愛さ、得意げに揺らす尻尾。狛も狐も、むろん人の子も、子供の心理は同じようです😊

白王稲荷神社に奉納された「高遠の透かし灯籠」。高遠の石工が造ったもので、明和7年(1770)に高遠の商家によって奉納されました。

神楽殿に奉納された『天宇受売命(あまのうずめ)』の神楽面。

笛に太鼓・・懐かしい神楽囃子が耳に聞こえてきそう。

三の鳥居正面に鎮座する「安積発祥」の碑と磐座。

「安積艮斎(あさか ごんさい)先生」像と「昌平黌教授贈従四位昆斎安積先生誕生地」碑。「第55代宮司安藤親重の三男。二十四歳で江戸神田駿河台に私塾を開き門弟を教育。小栗上野介、岩崎彌太郎、前島密、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、吉田東洋、秋月悌次郎・・・門人は二千二百八十余名に上る。」私の知る名前も多く登場します。

安積艮斎先生のイメージイラストが描かれた絵馬。

参拝日:2015年6月25日

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御神名一口メモ

『和久産巣日神(わくむすびのかみ)』、伊邪那美神の子、豊受大御神の父。
『天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)』、邇芸速日命が天磐船で河内国に降臨する際に従った。

『比止禰命(ひとねのみこと)』、天湯津彦命の10世孫。阿尺国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられ、阿尺(安積)の国を開いた。

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豊景神社(とよかげじんじゃ) in 福島県郡山市富久山町

2024年09月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市富久山町福原に鎮座される「豊景神社(とよかげじんじゃ)」。御祭神は『豐斟渟命(とよくむぬのみこと)・鎌倉権五郎景政公(かまくらごんごろうかげまさこう)』

由緒「天喜四年(1056)、前九年の役で陸奥の国に向かう鎮守府将源頼義・義家父子は、凶作で苦しむ里人を救うため、『豐斟渟命(とよくむぬのみこと)』をお祀りする「御霊宮」を福原の郷に創建。後の後三年の役の折、再び訪れた源義家の命により、渦の元凶の竜蛇を家臣の鎌倉権五郎景政公が退治。その功績に感謝し、天養元年(1144)に合祀。天正十六年(1588)の郡山合戦により社殿を消失。元和二年(1616)現在の地に遷宮。寛保二年(1742)、神祈官令により「正一位御霊宮」となる。明治元年(1868)神仏分離令により「豐景神社」と改称。」富久山町HPより

参道入り口、手水舎近くより神域を守護されるのは大正十二年十月吉日建立の狛犬さん一対。

毬を手にする吽形さん。仔狛を抱く阿形さん。いわゆる福島型と呼ばれる一対ですが、表情の優しさと毛並みの美しさがモロ私好み😊。

仔狛さんのアップ。得意げな面持ちと末頼もしい四肢で、しっかりとその存在をアピール。

狛犬さんの優し気な独特の表情とスタイルがいたくお気に召した私。親愛の情を込めて大きくアップで😊

濃い緑の陰に護られるように、社殿へと一直線に続く参道。

参道途中より神域を守護されるのは、背筋をピンと伸ばした大きく胸を張る狛犬さん一対。綺麗にカールした顎下の毛と真っ白な歯に真っ白な爪、玉を思わせる目が一層の迫力を添えています。

御大典記念のまだ新しい台座の上より神域を守護される小さな狛犬さん一対。おそらく、折れてしまった足を守るための処置でしょう。陰に追いやられる事なく、きちんと守護のお役目を任されている事に気持ちが和みます。

境内の一画にあった石造の収蔵庫。福原太々神楽のお道具などが収蔵されているのかもと思いますが、仔細は不明。4月と10月の例大祭で奉納される福原太々神楽は、福島県指定の重要無形民俗文化財に指定されています。

参拝日:2015年6月25日

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御神名一口メモ

『豐斟渟命(とよくむぬのみこと)』、天地開闢の際に現れた神代七代の二番目の神。「豊かな(=トヨ)雲(=クモ)」の意であり、雲を神格化した存在とされる。

鎌倉権五郎景政公(かまくらごんごろうかげまさこう)』、平安時代後期の武将。相模国鎌倉を領して鎌倉氏を称した。後三年の役に従軍した際、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。右目の療養をした土地(現:千葉県野田市)に「目吹」の地名が残る。

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ご当地マンホールとマンホールカードB in 福島県郡山市

2024年09月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

明治政府の国費による開発事業「安積開拓・安積疏水事業」。郡山市の歴史を語る時、この事業は忘れてはならない存在です。武士の世が終わり、新しい国づくりが始まった時、東北開発の先駆けとして選ばれたのが、ここ郡山の「安積野(あさかの)の地」。江戸時代、宿場町として栄えた郡山。周辺には、肥料や飼料、薪等をとるための原野が残っており、それを開墾するため、猪苗代湖から水を引く「安積疏水(あさかそすい)の開削事業が進められます。実に、延べ85万人の人々が携わり、3年の月日を費やした大事業。この安積疏水の開削の決定を機に、5,000人の町の周辺に、約2,000人余の士族が全国から集い、国の威信をかけた大事業「国営安積開拓(あさかかいたく)」が動き始めました。仔細は「安積開拓・安積疏水」へのリンクをクリックして下さい。

なお「安積開拓・安積疏水」は、「未来を拓いた『一本の水路』ー大久保利通❝最後の夢❞と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代ー」として日本遺産に認定されています。

郡山市キャッチフレーズは「ひらけ 未来へ こおりやま

昨日に続いて郡山市のマンホールは「磐梯山」を背景に、「猪苗代湖」、手前に「馬入新田の水芭蕉」がデザインされています。

「開成山公園」と「市章」がデザインされた農業集落排水マンホール。

「郡山公会堂」と、「市の木・ヤマザクラ」「市の花・ハナカツミ」がデザインされた空気弁。

郡山公会堂

「市の木・山桜」がデザインされた仕切弁

「市の花・ハナカツミ」がデザインされた仕切弁

「市の鳥・カッコウ」がデザインされた仕切弁

昭和42年(1967)4月1日制定制定の市章は「昭和5年に制定され、改めて制定。「山」の字の小篆(しょうてん)を図案化したもので、藩政時代から郡山代官支配下の「郡山」の標識として長い間使用されてきたものです。」公式HPより

「空気弁付き消火栓」は初見です。

電気

郡山市イメージキャラクター『がくとくん』と妹の『おんぷちゃん』。郡山市を「日本一魅力あるまち」にするため、毎日がんばっています。

撮影日:2015年6月25日&2015年6月26日

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マンホールカード・頂きました

2016年8月1日、第2弾として全国40自治体で44種類(累計64自治体74種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「郡山市B」のマンホールカードは、「郡山市湖南公民館」でいただけます。

1997年に設置開始されたマンホールには「磐梯山」と「猪苗代湖」、「水芭蕉」がデザインされています。

「郡山市湖南町の下水道は、「特定環境保全公共下水道」といって、 猪苗代湖の水質改善を目的に、2002年に共用開始しました。その環境への想いを込めて制作したのがこのマンホール蓋で、勇壮な姿の「磐梯山」と 天鏡湖と呼ばれる「猪苗代湖」を背景に馬入新田の湿原に群生する清楚な花「水芭蕉」を表現したものとなっています。湖南町の観光名所のひとつ 「布引風の高原」に聳え立つ風力発電は圧巻の一言で、そこから臨む猪苗代湖と磐梯山も絶景です。加えて、日本遺産に認定(2016年4月)された 猪苗代湖を水源とした「一本の水路」のストーリーには、安積開拓に懸けた先人の夢が偲ばれます。」

 

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ご当地マンホールとマンホールカードA in 福島県郡山市

2024年09月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

郡山市(こおりやまし)は福島県の中央部、中通り中部に位置する、中核市指定都市です。本宮市、二本松市、大玉村、三春町、会津若松市、田村市、猪苗代町、天栄村、平田村、小野町、須賀川市に隣接。安積原野または郡山盆地と呼ばれる海抜245mの平坦地を中心に市街地が広がり、西に猪苗代湖、東に阿武隈山地、北は安達太良山に接しており、市の中心部を南から北へ阿武隈川が流れています。「市の木:山桜」「市の花:ハナカツミ」「市の鳥:カッコウ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、安積郡郡山町・小原田(こはらだ)村・桑野村・三穂田村・逢瀬村・片平村・喜久田村・山野井村・富久山村・湖南村・高川村・富田村・大槻村・巌江村・永盛村・豊田村・永盛村が発足。
同じく、田村郡守山町・谷田川村・高瀬村・西田村・中田村・小泉村が発足。

1908年、田村郡守山村が町制施行、田村郡守山町となる。

1924年、安積郡郡山町が小原田村と合併、郡山市が発足。

1925年、安積郡郡山町が桑野村を編入。安積郡山野井村が町制施行・改称し安積郡日和田町となる。

1937年、安積郡富久山村が町制施行、安積郡富久山町となる。

1940年、安達郡大槻村が町制を施行、大槻町となる。安達郡高川村が町制施行・改称し熱海町となる。

1943年、永盛村が町制を施行、安積郡永盛町となる。

1954年、郡山市が安積郡富田村の一部を編入。
    安積郡永盛町が豊田村と合併、安積町が発足。
    安積郡富久山町が田村郡小泉村を編入合併する。

1955年、田村郡守山町・谷田川村、高瀬村の一部が合併、田村郡田村町が発足。

1955年、郡山市が安積郡大槻町、巌江村の一部を編入。

1965年、安積郡安積町・三穂田村・逢瀬村・片平村・喜久田村・日和田町・富久山町・湖南村・熱海町、田村郡田村町と新設合併し、改めて郡山市が発足。同年、田村郡西田村・中田村を編入。

マンホールには、「市の木:山桜」「市の花:ハナカツミ」「市の鳥:カッコウ」が、市章の三分割内に描かれています。

撮影日:2015年6月25日&2015年6月26日

市の歴史紹介ですっかりページを占領されてしまった郡山市。マンホールの数も多く、二回に分けての紹介です。

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マンホールカード・頂きました

2016年8月1日、第2弾として全国40自治体で44種類(累計64自治体74種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「郡山市A」のマンホールカードは、「郡山市開成館」でいただけます。(磐梯熱海観光物産館に変更)

1990年に設置開始されたマンホールには市章の中に「ヤマザクラ」「ハナカツミ」「カッコウ」がデザインされています。

「郡山市の下水道は1958年に事業を開始しました。 現在のマンホール蓋のデザインは、1980年に郡山市片平町に在住する主婦の手によって誕生したものです。当時は市章をあしらい、内側8個、 外側12個の穴があいた形式の蓋を使用していましたが、下水道の重要性の周知と街の美化を目的に蓋のデザインを公募し、優秀作に輝いたのが この作品です。デザインのベースは「山」を図案化した郡山市章で、そこに市の花「ハナカツミ」、市の木「ヤマザクラ」、市の鳥「カッコウ」を 描いています。カラー版の他に一色でつくられたマンホール蓋もあり、駅前を散策すると見られるかもしれません。」

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岩角寺(いわつのでら)神仏最終章 in 福島県本宮市和田東屋口

2024年09月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

境内入り口近くに不思議な姿を見せる奇岩「蛇舐石(じゃなめいし)」

「承久年代、この地に「宗基」という郷士がおりました。宗基は妻女を亡くしてから、日夜酒食に耽り、里人に過重な年貢を課し、里の婦女子を我がものとしたりと目に余る乱行を行うようになりました。そのために衣食に欠き身を滅ぼした多くの里人や娘達の怨霊が執念の蛇となって宗基を殺そうと、宗基の館の岩に群がり石を舐め、岩を崩したと伝えられています。岩に群がる蛇は全て白蛇であり、群がった姿が冠のようにも見えたので「蛇冠石(じゃかんむりいし)」とも呼ばれています。」公式HPより

「岩上の観音像は昭和52年2月、岩角寺第36世住職 俊董僧正の発願により、仙台市の宮城交通株式会社社長 千葉三二郎翁から寄進され、白蛇観音として往時の、無縁の霊を慰めるべく建立されました。」

参道入口に、昭和51年に設立された「交通安全身代地蔵尊」。現代の交通事情の悪化で、日常的に見聞きする交通事故の悲劇をなくしたいという祈りから、信者の手によって建立。

境内に建立される七福神より、日本古来の唯一の福の神「恵比寿神」。いつもは片手に釣り座を、左の小脇に鯛を抱えているのですが、ここでは両手で鯛を捧げ持っています。古くから漁業の神として祀られ、さらには商いの神ともされます。

子宝・財産・長寿の神「福禄寿」。長寿の神「寿老人」

唐末五代の頃に実在した禅僧と言われる「布袋和尚」。

石像ではありませんが境内を案内してくれる「毘沙門天」。初日に紹介した「三面大黒天」。私たちが出会えたのは六福神・・はて、弁天様は何処に?

参道の一画に座しておられたお坊様。阿羅漢のような険しい表情、浮きだしたあばら骨は厳しい修行の故でしょうか。両手をつき、穏やかな顔で参拝者を見上げるお坊様。それは遠い昔の父の面差しにも似て。

「道祖神」。その優しい姿に心動かされ・・・いつまでも共に手を取りあいて歩みたいと二人並んで手を合わせる🙏🙏。

「吾 唯 足 知」

全山が名勝天然記念物に指定される岩角山。かっての館跡でもあり、若武者だった伊達政宗が何度も訪れ、人取橋合戦の進撃基地でもあった岩角山。「ねぇ、お坊様。山頂まで行く事はできませんでしたが、沢山の素晴らしい出会いをさせて頂きました。だから・・いつかもう一度お会いできる事を願っても良いですか🙏」

参拝日:2015年6月25日

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岩角寺(いわつのでら)~石仏~ in 福島県本宮市和田東屋口

2024年09月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

「江戸時代、観音霊場巡礼は民間信仰と民衆のレクリエーションであり、心の安らぎでもありました。しかし西国までの巡礼の旅は誰もが出来るものではなかった為、当時岩角山を唯一の祈願寺としていた二本松城主 丹羽公が、名僧とうたわれた住職 豪伝和尚と力を合わせ当山を再興し、線彫仏 造立に心血を注ぎ、西国三十三観世音の霊場から御分霊を岩角山に勧請して、巡礼者のための便宜を計ると共に信仰の中心としたものです。
岩角山全山に露出した巨岩の岩肌には、三十三観世音をはじめ天神仏神の像が八百八躯彫刻されており、それぞれの仏像には奉納された信者と石工の名前と思われるものが刻まれていて、当時の人々の信仰の篤さを物語っています。」公式HPより

数多の神仏を尊い存在として敬ってはいますが、恥ずかしながら私には仏の姿を見てその御名を言える知識はありません。ここでは岩角山で出会った御仏のお姿のみを紹介させて頂きます。

うっそうとした杉木立の中、花崗岩の巨石、奇岩が露出する山容は霊場にふさわしく、 全山が名勝天然記念物に指定されている岩角山。

その地に静かにおわすお姿は、信仰の有無にかかわらず、ただひとえに美しく尊いもの。

「ほう除け苦抜き観音」

「伝教大師聖区 山家学生式」「国宝とは何物ぞ 宝とは道心なり 道心ある人を名付けて国宝と成す 故に古人言わく 径寸十枚(けいすんじゅうまい)是(これ)国宝に非(あら)ず 一隅を照らす 此れ則(すなわち)国宝なり」

法灯を頭上に捧げ持つ力神

訪問日:2015年6月25日

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上記に紹介した「伝教大師聖区」は、以下の文言で締めくくられます

「道心あるの仏子(ぶっし) 西には菩薩と称し 東には君子と号す  悪事を己に向かえ  好事を他に与え  己を忘れて他を利するは 慈悲の極(きわ)みなり」

『菩薩』:さとりを求め修行をしつつ、他者をもさとりに到達させようと努める存在。

『君子』:徳行がそなわり、学識、人格ともにすぐれた立派な人。

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岩角寺(いわつのでら)~毘沙門堂~ in 福島県本宮市和田東屋口

2024年09月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

本宮市和田東屋口に門を構える「岩角寺」。境内となる山中のいたる所に露出した花崗岩の巨石や奇岩には、線刻された西国三十三観世音や菩薩などが参拝者を迎え、一種独特の仏の世界を作り出しています。二日目の今日は県の重要文化財にも指定された「毘沙門堂」の見事な彫刻の技を紹介します。

懸魚(げぎょ)には翼竜

向拝(こうはい)には波を逆立て、身をくねらせる龍

龍の上では剣を逆手に持って構える若き武神・・これは素戔嗚尊でしょうか?

更に上の段には怯えるように身を竦める女人。上とセットであるなら、さしずめ櫛稲田姫・・

「毘沙門天」の拝殿額。向かって左には蚕の繭額が奉納。ここよりさらに上には『養蚕観世音』が安置される「観音堂」もありますが・・・・足もとが妖しい😓

無理なものはスッパリと諦めて、寺社彫刻の花形的存在ともいえるのが貫(ぬき)の獅子。口中の朱が白い木肌に凄みを与え、更に柱を押さえつける前足の力強さに圧倒されます。阿形さんは開いた牡丹を口に。

吽形さんはまだ固い蕾の牡丹を口に咥えて、参拝者(私たち)の賞賛の視線を得意げに浴びています。

別の一画の獅子と獏(ばく)。位置的に下から見上げる画像になりましたが、獏の牙と、きゅっと縮めた爪の鋭さに思わずタジタジ。

獅子の顔立ちから、これを彫り上げたのは、先の唐獅子とは別の職人ではと想像。

波頭渦巻く中を往く龍の透かし彫りに思わずタメ息がもれる、見事な海老虹梁(えびこうりょう)。

龍をアップで。何百回と繰り返した言葉ですが、すべて一本の木を彫りぬいて造られたものです。

手挟彫刻には、絢爛たる花の中に遊ぶ番(つがい)の雉。いや、それとも鳳凰か?。

屋根の四隅を支える力神、片側はほぼ真っ直ぐに、もう一方の腕は肩越しに後ろ手に。あるいは、首と肩だけで屋根の重みを支える。

両の腕を肩越しに後ろにまわし、歯を食いしばる者。同じように両の腕を後ろ手に、屋根を支えながら大きく息を吐きだす・・これもやはり阿吽の容。

明治十八年(1885)正月初寅日:奉納の絵馬。題材が分かれば面白さも増すのでしょうが、生憎と勉強不足😓

神社に狛犬は付き物ですが、お寺さんにも尊像を守護される神獣がいます。毘沙門天のお使いとされるのは「虎」。虎は一晩で千里の道を走ると言われ、毘沙門天の代わりに人々の願いを聞いて回ると伝えられています。

阿吽の一対、後姿も中々に見応え充分。

・・・・で????😆

参拝日:2015年6月25日

 

末筆になりましたが、この度の能登の豪雨災害、心よりお見舞い申し上げます。「能登は優しや土までも」・・・懐かしい幾つもの風景、温かい人々との思い出・・・私たちにできることは限られていますが、今は懐かしくも美しい能登の風景と、そこに住まわれる皆様方の無事を心から祈念させて下さい。

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一口メモ

用明二年(587)、仏教推進派の蘇我氏と反対派の物部氏との戦いに際し、戦勝を祈願した聖徳太子に、寅年、寅の日、寅の刻に毘沙門天が戦勝の秘宝を授け、見事勝利したという伝承があり、以来、虎は毘沙門天のお使いとされる。

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常光院岩角寺(がんかくじ) in 福島県本宮市和田東屋口

2024年09月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

本宮市和田東屋口に門を構える「岩角山岩角寺(いわつのでら)」。天台宗総本山比叡山延暦寺の直末寺で、正式名称は「和田山常光院岩角寺(わでんさんじょうこういんがんかくじ)」『聖観音菩薩』を本尊とします。

比叡山開創壱千二百年 不滅の法燈分灯記念「照于一隅燈籠」を潜って境内に。

「開山は人皇55代 文徳天皇 の御代、仁寿元年(西暦851年)。天台宗第3祖慈覚大師が開基された霊場です。山中に点在する露出した岩石には、それぞれに即した名が付けられ、その岩肌には江戸時代に西国より移し線刻された西国霊場33ヵ所の観世音や菩薩、天王、天神などの808躯が刻まれています。」公式HPより

大灯篭を潜り境内へ。石段脇には「六道の辻に立ち、衆生を救済する」六地蔵尊。この概念はインド・中国には無い、日本独自の思想と伝えられています。

水面が波立てば、美しい満月も歪んで映る。心もそれと同じで、動揺や計らいがあれば人の心を理解する事は出来ません。「心の池」は己が心を映し出すために造られました。

正面石段の両側に立つ約180cmの仁王尊石像は、明和四年(1767)9月の建立。「執金剛神(しゅうこんごうじん)」として、堂塔伽藍、仏法の守護神とされます。

仁王像の右手、注連縄の結界に守られた岩屋の奥に、清らかな水を満面と湛える「金華水」

慈覚大師が開山の折り、この清水にて身を清め、一刀三礼の行法にて毘沙門天王を御刻みになったと伝えられています。清水は今なお滾々と湧き続け、いかなる旱魃にも尽きることがなく、清らかな水を湛えています。

「岩窟弁天」は岩角山起名の場所であり、慈覚大師が当山開基の際この岩窟の中に一本の石角が突出していたことから岩角山の名が生まれたと伝えられています。

「岩窟弁才天 岩角山の名 此処より起る。寺宝岩角 長さ75cm 太さ15cm」岩窟内に案内がありましたが、どれが岩角なのか・・実はよく分かっていません😓

岩窟弁天の右手には、文久2年(1862)建立の「毘沙門堂」

回廊共五間四面で25坪の総欅造り。堂宇全体には緻密な彫刻が施されており、寺社彫刻好きには、ここだけで軽く半日が費やされそうな、絢爛たる見事な拵え。その仔細は後日まとめて紹介します。

七福神の尊天の一つ、大黒天が御祀りされる「大黒天堂」。奉納されていた「岩角山出世大黒天」は江戸時代 寛永元年(1624)に甲州の石工により彫刻。
この大黒天を背負い、北海道から東北地方を回向行脚していた行者の願いにより、岩角山に安置されたのが明治33年(1900)1月。以来秘宝大黒として開扇不許のまま保存されて来ました。

昭和58年、老朽した堂宇を改築、「大黒天尊像」は同年9月吉日、新殿に安置されました。

「三面大黒天」

「左面が毘沙門天・右面が弁財天」

「岩角稲荷」

🌸🍀まだまだ見所一杯の岩角寺、明日は毘沙門堂:社殿彫刻の紹介です。

参拝日:2015年6月25日

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