車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

松本城下:ふらり見て歩き~Ⅰ~ in 長野県松本市

2022年07月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本城総堀東門近くの「上土(あげつち)通り」。「総掘東門の土を堀り上げた所」に由来してつけられたこの一帯は、大正・昭和を通じた庶民文化の先端を行くハイカラな建造物が数多く現存し、その町並みを生かした「大正ロマンの街」として静かなブームとなっています。

「松本・レトロ」で検索すると真っ先に出てくる「白鳥写真館」。大正13年に建築されましたが、昭和2年(1927)に焼失。その後、火災にあった部材を活用しながら創建時の外観を再建したそうです。右に仲良く並んだ建物は「キャッスルコンピューター・技術開発センター」

東町通りと上土通りとの交差点にある「下町会館」。昭和初期に建てられた「旧青柳化粧品店」を曳家移転してファサード保存したもので、1階は雑貨と喫茶のお店のようです。

古色蒼然とした佇まいのビルには、入口に「スナック&喫茶」の文字。まるで昭和初期の映画に出てきそうな灰色のモルタル感が、いかにも退廃的な雰囲気 😊  

交差点の角地に立ち、先のビルと並ぶのは「平出酒店」。夕方からは「スタンディングバー8オンス」がオープンするそうです。

レトロな町並みのレトロな建物。場所を移して大名町通りにある松本市登録有形文化財「旧第一勧業銀行松本支店」。昭和12年(1937)に日本勧業銀行松本支店として建築。 

外壁はモルタル塗の石目調仕上げで、独特の曲線形状をしたアーチの開口部が特徴的な建物です。

湧水に恵まれた松本市では「城下町湧水群・水めぐりの井戸整備事業」で設けられた井戸が幾つかあり、2007年に作られた「大名町大手門井戸」もその一つです。

レトロな建物ではありませんが、最近は観光地にある交番とか派出所も、周りの景観に配慮したものが多くなりました。ここ「大手交番」の建物も、松本城の書院を思わせる佇まいになっています。

松本市大手の一画。一瞬、廃墟か?!と見返してしまった、壁一面が蔦に覆われた建物。ここは昭和25年(1950)創業のフレンチレストラン「鯛萬」

この時は多分結婚式に参列するんだろうと思われる人たちが、引っ切り無しに出入りしていました。こういう雰囲気のお店で食事なんて、ちょっと素敵だよね~、あ、でも私フレンチはまるっきり食べられなかったわ  😅  

ビルの合間に窮屈そうに立つ3層天守の「青翰堂(せいかんどう)書店」は昭和25年の建築。店名の「青翰」は【若い山鳩の羽】という意味だそうで、画家:滝川太郎氏が命名。残念ながらこちらのお店は2022年3月15日で閉店となったそうです。

昔ながらの雰囲気を持つ居酒屋「しづかさん」、思わず振り返ったのは「双体道祖神」さんを見つけたから。う~~ウウ 自転車が・・😓

明治21年(1888)に建てられた赤レンガの建物が「山崎歯科医院」になったのは昭和12年(1937)の事。内装も赤煉瓦なのかしら?とか、こんな歯医者さんだったら待ち時間も楽しいかも♪と、しばらく見惚れていた事が懐かしく思い出されます。

「1996年の文化財登録制度発足と同時に、第1号登録として登録有形文化財になりました。山崎歯科医院の建物は長野県におけるレンガ建築の初期の例です。屋根裏の棟木に「明治二十一年八月吉日  建築丸山善太郎  大工飯田重吉  煉瓦積酒井為吉」とあり、明治21(1888)年の建築であることがわかります。この時期、長野県内はレンガ造りの西洋館があまり造られていません。  この建物は一段ごとに長手と短手を積み替えていくイギリス積みで、壁面には小ぶりのアーチ窓を開け、寄棟の瓦屋根がのるという構造が、明治期のレンガ建築の典型を示すとともに技術水準の高さを示しています。」松本市文化財HP「松本のたから」より

これはずっと後になって知った事ですが・・2011年6月30 日に発生した 松本市南部を震源とする大地震により、松本市街地も大きな被害を受け、「山崎歯科医院」の建物も大きな被害を受けたとの事。その後、修復保存の運動などもあったそうですが、最終的に建物は解体され、カエルの陶製飾りが載った敷地北東の塀のみが保存されると聞きました。

街歩きを終えて今夜の車泊地に向かう車の中で見かけた「下島歯科医院(旧岡村産婦人科)」。昭和5年(1930)の建築だそうですが、検索したところこちらも「現存せず」となっていました。

訪問日:2010年4月16日

 

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松本城 in 長野県松本市丸の内

2022年07月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市丸の内、五重六階の美しい姿をお堀に映して建つのは、別名深志城とも称される「松本城」

永正年間(1504~1520)に、信濃守護家・小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして「深志城」が築城されたのが始まりとされています。その後、甲斐の武田氏による信濃侵攻、そして武田氏の滅亡、天正壬午の乱等の変遷を経て、徳川家康の麾下となった『小笠原貞慶』が旧領を回復し、城の名も松本城と改めます。さらに大坂の陣以後は、徳川幕府の下、『松平家』や『水野家』などの松本藩の居城となり、水野家の後は、『松平康長』にはじまる『戸田・松平家』代々の居城となりました。

大天守を中央に、画面左に辰巳附櫓、その手前に月見櫓。右手に乾小天守。文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守としては、日本最古と言われており「姫路城・彦根城・犬山城」と共に、四つの国宝城郭の一つであり、城跡は国の史跡となっています。

明治4年(1871)、この美しい城に最大の危機が訪れます。明治維新の後、松本藩は筑摩県になり、二の丸御殿に筑摩県の県庁が置かれ、同時に城内の門や塀の破却が始まりました。翌明治5年、天守が競売にかけられ、一時は解体の危機に見舞われた松本城ですが、当時、地元の有力者であった『市川量造』らの尽力によって買いもどされ、最初の難を逃れます。

次の難は明治30年代頃より天守が大きく傾きはじめた事です。この事を憂いた松本中学(旧制)校長『小林有也』らにより、天主保存会が設立。明治36年(1903)から大正2年(1913)まで10年の歳月をかけた「明治の大修理」が行われました。

昭和5年(1930)本丸と二の丸の一部が国史跡に指定。昭和11年(1936)に天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝保存法により当時の国宝に指定、昭和27年(1952)3月29日には文化財保護法によりあらためて国宝に指定されます。

内堀に架けられた登城口

一の門を潜り本丸へ、いよいよ松本城と対面  😊  

国宝天守閣を持つ姫路城・彦根城・犬山城に続いて最後の松本城訪問。この時の気持ちは兎に角「嬉しい・感激・感動」。ありきたりですが、本当にそんな感じです。足にかなり問題を抱えている私には、模擬でない天守の登城は無理。その事が悔しく情けなかった事は否めませんが、それでも手に触れられる場所に立ったという気持ちは格別でした。

秋の催し、松本城に伝わる話をテーマにした「人形飾り物展」もあったのですが、内容は今ひとつ記憶にありません。とにかく、唯々美しい天守を見続けていたと記憶しています。

今思うと馬鹿みたいですが、目をそらすと目の前の幸せが消えてしまいそうで、とにかく見ていたかった・・・いつまで?? 何時まででも😊

見知らぬ誰かにお願いした二人一緒の記念写真は、何度見ても懐かしく本当に素敵な一時だったと思うし、このまま時間が止まれば良いのにと思ったりもしました。

とはいえ、我が家でも無い公共の場所に何時までも居られる筈も無く 😓  後ろ髪惹かれながら埋橋へ。天守に続く朱塗りの橋の上は、観光客にとって絶好の撮影スポットなのか、誰もがカメラを向ける為に立ち止まります。

そうして何度も何度も、堀に映る天守を見、青空を背にする天守を見て、未練を断ち切ります。

幾たびかの存続の危機を迎えながらも、その都度に市民の情熱によって乗り越えてきた「松本城」。四百余年の風雪に耐え、戦国時代そのままの姿を今に伝え、国の宝と認められた松本城の大天守。

観光地で良く目にする「城もどき(模擬天守)」が、どんなに逆立ちしても追いつけない確かな本物。それは決して簡単に成し遂げられた事ではなく、それだからこそ価値があり、人々を曳き付けてやまないのです。

訪問日:2010年10月16日

 

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長野県護国神社 in 長野県松本市美須々

2022年07月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市美須々に鎮座される信濃國総守護「長野縣護國神社」。御祭神は『長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御英霊』

「当神社は、昭和十三年長野県民の総意によって、本県の中央であり旧陸軍松本歩兵第五十連隊に隣接する現在地に仮殿が建設され、長野県招魂社として明治戊辰以来の御英霊を奉祀し、昭和十四年内務大臣の認定を受け、長野県護国神社と改称いたしました。終戦後の神道指令により、昭和二十一年宗教法人として再発足し、昭和二十二年美須々の宮と改称。同二十九年、長野県護国神社と複称いたし、昭和三十二年、神社本庁より別表神社に指定された。」現地由来より

第二鳥居

参道正面に御本殿が鎮まられます

南十字星の下に散華せる 「嗚呼戦友」杉山茂謹書

「大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及其の周辺に祖国防衛のため挺身し、 海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し 嗚呼 友の霊何処にぞ戦終り時移りて此処に三十年 今ぞ群霊懐かしの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる吾等亡き友の昔日を偲び 御霊よ 久遠に安かれ と信濃の国各地の不変の石にこの祈願を刻し、やがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して、此処にこれを建てる  長野県ニューギニア会昭和49年7月28日」

「シベリア抑留慰霊碑」

「1945年8月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言9項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら60万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠牲者6万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。2005年8月9日シベリア抑留慰霊碑建立委員会 」

「拓友之碑」満蒙開拓青少年義勇軍・佐藤中隊碑 昭和44年建立

拓友之碑」満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊碑 昭和51年建立

「砲魂」佛印派遣討4237部隊第4中隊昭和61年建立

「繭の花」と題された歌碑

万葉歌碑【  紅の浅葉の野らに刈る草の   束の間も吾を忘らすな  】読み人しらず

祖国の未来を信じて戦い散華された方々に、心からの感謝を捧げます🙏🙏

参拝日:2016年4月21日

 

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富士浅間神社・金毘羅宮 in 長野県松本市

2022年07月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市深志、深志神社への入り口近くに鎮座される「富士浅間神社・金毘羅宮」。御祭神は『木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)・大物主神(おおものぬしのかみ) 』

境内に由緒等の記載も無く、神社庁のHPにも記載のない小さな神社ですが、塀越しにちらっと拝見した拝殿の後ろに、ちゃんと社殿が二つ鎮座されています。

鳥居の左右より神域を守護されるのは、すでに旧知の松本型狛犬さん一対。ここまで続いてくれると、この子たちがいない神社は物足りなく思えてくるから不思議。

石工:田近正一(三代目)・製作年月:昭和六年十一月 松本市街地の深志神社前の小さな神社にある狛犬。長い間その場にあることを示すように汚れや痛みも目立つ。造りとしては他の松本式狛犬との共通点が多い標準的なもの。」田近石材本店HPより

狛犬さんの向きが阿吽均等でない事に今更ながら気が付いて、さりとてどうする術もなく(^^;) 何しろデジカメを構える後ろをひっきりなしに車が通るもので、かなり焦っていた御亭主殿。まぁ、そう言うこともあります。

参拝日:2016年4月21日

 

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深志(ふかし)神社~Ⅱ~ in 長野県松本市深志

2022年07月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

昨日に引き続いての「深志神社」、境内にはいくつかの摂社が祀られています。まずは二の鳥居を潜った左手に、立川流の彫刻と極彩色に施された手水舎。

その左手奥に「境内社:恵比寿殿(恵比寿神社)」が鎮座されます。御祭神は『事代主神・大国主神』「本町一丁目の守護神として寛保2年(1742)に境内に祀られました。例祭日には恵比寿様の御神像が飾られ、商売繁盛を願います。」公式HPより

神苑を超えた先に清らかな湧水が流れる「手水鉢」が置かれ、鳩が気持ちよさそうに水番をしています。この湧水、お水取も可能だそうで、知ってたらペットボ・・・😅

手水鉢を経て三の鳥居を右に見ながら「境内社:楠公神社」へ。御祭神は『 楠正成公』「崇敬者初代赤羽茂一郎氏を始め氏子の浄財により昭和10年に創建。智・仁・勇の三徳を備え、大楠公と称される御神徳は広く霊験あらたかです。」公式HPより

そのまま手水鉢まで戻り「境内社: 市神社」。御祭神は『太市姫神(おおいちひめのかみ)・塩土之老翁(しほつちのをじ)・事代主神』「商都松本の萬商守護神とされ、「敵に塩を送る」の故事に由来した正月の伝統行事であるあめ市の神様。あめ市の期間中この市神社より文政九年(1826)制作の神輿が遷座され、本町二丁目町内に祀られます。」公式HPより

「境内社:金山神社・松尾神社・三十四末社」。左に「金山神社」御祭神は『石凝姥命(いしこりどめのみこと)・金山彦命・天目一命(あめのまひとつのみこと)』「松本金山会により鐵工・金属業の守護神として崇敬されています。」中央に「松尾神社」。御祭神は『大山咋命』「天保8年(1837)観請と伝えられ、酒造りの守護神として崇敬されています。毎年例祭には佳い新種の醸造を祈り、杉玉が新しく据え替えられます。」右に「三十四末社」「境内に数多くあった末社が、明治以降三十四末社としてまとめて祀られました。」公式HPより

「境内社: 愛染神社」。御祭神 は『草野姫命(かやのひめのみこと)』「古くは愛染明王・染殿社と称されました。愛染講により染物業の守護神として崇敬されています。」公式HPより

北参道から境内に入った右手に絵馬殿があり、80数面に及ぶ江戸時代中期以降の奉納絵馬が保存されています。御正忌大祭記念事業で常設の絵馬殿として改修されたとの事、参道からでもその素晴らしい絵馬を拝見する事が出来ます。最初の絵馬は「誉田別尊(後の応神天皇)を抱く武内宿禰の図」

「石山寺にて源氏物語を執筆する紫式部の図」。式部は石山寺で「源氏物語」を書いたと言われています。

「弓の名手『源為朝』「痘鬼神」を退ける図」。鬼にしては凶暴さに欠ける半裸の男二人・・でも多分「痘鬼神」(笑)

「別れを惜しむ女性」

「上杉謙信と武田信玄:天保七年(1836)六月奉納」上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いの一場面、馬上の謙信の刀を軍配で受ける信玄の図は有名です。

菊水の旗印がみえるので「湊川の戦に臨む南朝軍」。タイトルは勝手に「~だろう」と解釈したものなのでツッコミは無しで 😅  。でも正解をご存知の方は是非!コメント欄に。

広い境内には沢山の歌碑や句碑、顕著碑等が建立されています。まずは御祭神「菅公御神筆歌碑」【  こちふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ   延喜元年御詠 】

「参議有長:歌碑 明治三十二年三月建立」【  天満る 神のめぐみぞ なほ深き ふかしてふ名の 世々にたえずば  】

「狂歌堂真顔 文政九年丙戌九月」【  立ち廻す 高嶺は雪の銀屏風 なかにすみ絵の 松本の里  】

左は「北条庵香風情」の歌碑。右は特に説明も無く、何方の句碑なのか歌碑なのかも不明。

「自由民権家 松沢求策記念碑」「穂高町に生まれ、明治初年、国会開設運動に関わり長野県の代表として、また全国の運動の先頭に立ち請願権の確立、政党の結成などに大きく貢献しました~後略」

左「〇〇記念」碑・右「仰神威」

2010年、2016年の二度に渡る参拝で、一応 深志神社の三分の一くらいは堪能できたのではと思います。三度目の参拝はおそらく無いと思いつつも・・いつかこの美しい社殿の前に立つ日のある事を願って🙏🙏

参拝日:2010年10月16日&2016年4月21日

 

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深志(ふかし)神社~Ⅰ~ in 長野県松本市深志

2022年07月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市深志に鎮座される「深志神社」。主祭神は『建御名方命・菅原道真』。地域の人々からは「深志天神・天神様」と呼び親しまれています。

正面(西)参道、一の鳥居

朱塗りの二の鳥居

「深志神社」社号額は天保十二年(1841)に正式名称として許可された際、神祇道管領『長上卜部良芳』の揮毫による由緒あるもの。

社伝に「諏訪明神(建御名方命)の夢をたびたび見ていた信濃守護・小笠原貞宗が戦勝に感謝し、暦応二年(1339)に諏訪明神を祀って創建したのに始まる。当初は宮村宮(宮村大明神)と称した。応永九年(1402)、小笠原長基が北野天満宮(天神)を勧請。永正元年(1504)、小笠原氏の家臣が深志城(松本城)を築城すると、当社を城の鎮守・産土神として崇敬し、社殿を西面に改めた。天文二年(1533)、信濃が武田氏の支配下に入ると当社は荒廃。天正十年(1582)、小笠原氏が信濃に復帰して社殿を修造し、深志城の南方の鎌田村に小笠原氏によって勧請され創建されていた天満宮(鎌田天神)の分霊を、宮村宮の北の新宮に奉遷した。天保十二年(1841)に正式な社名を「深志神社」と定めた。」Wikipediaより

二の両部鳥居左右より神域を守護されるのは、建立年不明の狛犬さん一対。御亭主殿いわく、おそらくは江戸時代中期の頃と思われるが、確証は持てないとの事。

別にいつの時代であろうと良いものは良い。救い上げるような目線で見上げる吽形さん。大らか過ぎる笑顔で参拝者を迎える阿形さん。見上げる私まで笑顔になって気分が晴れやかになります。

2010年に参拝をし、2016年の参拝で懐かしく再開した狛犬さん。兎にも角にも壮健な姿が拝見できて何よりです 😊 

画像左手に「天満宮」、その左下に僅かに見える社殿は「八坂神社」「元禄十三年津島神社より勧請、特別な由緒がありご本殿に並び祀られる。」右奥に「宮村宮」の両本殿。「両殿とも一間社流造極彩色銅版葺で、明治八年の建替。2002年の菅公千百年御正忌大祭記念事業で、荘厳な本殿として全面的に改修されました。」公式HPより

本殿前「幣殿を伴う拝殿は入母屋造極彩色銅版葺で、正面には伏見宮貞愛親王御親筆の社号額(明治30年)が掲げられています。本体部は江戸中期の営繕とされ、時代と共に増改築されてきましたが、2002年に本殿と同じくすべて改修されました。」公式HPより

伏見宮貞愛親王御親筆の社号額

社殿蟇股には京都北野天満宮と同じ「星梅鉢」の御神紋。梁に描かれた白梅の古木が、鮮やかな社殿に美しく映えています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和三年六月二十五日建立。『刻者・有賀 新作、小池 福太郎』 による、ちょっと不思議な雰囲気の狛犬さん一対。

何かに似ている・・と考えていて不意に思い出したのは、京都大江山の鬼の博物館に収蔵されていた鬼。これとそっくりな顔が😲  あれは鬼瓦だったか、それとも鬼面だったのか、なにはともあれ、不思議な愛嬌のある一対。

参道正面に「神楽殿」「江戸時代前期寛文十二年(1672)に建立され改修が重ねられた、当神社に現存する最古の建物。元は拝殿で、優美な姿はそのままに瓦から銅版に葺き替えられました。」公式HPより

天神さんで知られる深志神社、境内には注連縄が張られた牛舎の中で、木彫りの神牛さんがゆったりと座っています。

「神牛 博労町 御世忌一千年祭(明治三十二年)に氏子町会である博労町より奉納されました。松本の著名な彫刻家『原田蒼渓』刻」駒札より

木肌を生かした神牛の姿は、いまにも顔を上げてこちらを振り向きそうな迫力。各地の天神様に参拝するたびに、この木彫りの神牛さんを思い出します。

天神様の神使いの撫で牛さん、ちゃんと人の手で撫でられる場所で、顎を上げて待っておいでになります 😊

覆い屋の下に保存されていた御神木の株

二度に渡っての参拝となった「深志神社」。まだまだ見所が一杯ですが続きは明日の深志神社~Ⅱ~で。

参拝日:2010年10月16日&2016年4月21日

 

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筑摩(つかま)神社 in 長野県松本市筑摩

2022年07月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市筑摩に鎮座される「筑摩(つかま)神社」。御祭神は『息長帯比売命(神功皇后)、誉田別命(応神天皇)(以上八幡神)、多紀利比売命、狭依比売命、多岐津比売命(以上宗像三女神)』

「信濃国司時代の総社にして、足利時代には信濃守護職小笠原氏の祖神として崇敬せられる。延暦年間、坂上田村麿、信州反賊征討の時、この地に駐軍し賊兵討平の後、賊魁八面大王の首を境内に葬る(境内に鬼塚あり)其の際神徳を感じ当社本殿を改築せられしと云う。永享八年、兵燹に罹り社殿灰燼に帰すも永享十一年に再建。慶長十五年、松本城主石川光長の臣吉田清兵衛の名により拝殿を建築。維新前は八幡宮と称したが、明治八年県社に列すると同時に筑摩神社と改称。」長野神社庁HPより

2010年の参拝画像。薄闇の中に浮かび上がる三間社流造、檜皮葺の本殿。松本地方最古の建造物であり、昭和5年(1930)5月23日に国重要文化財に指定されています。

二の鳥居は鮮やかな朱塗りの両部鳥居

鳥居前左右より神域を守護されるのは、一段とゴージャスな鬣の松本型の狛犬さん一対。

「石工:田近勝之助(二代目)、正一(三代目)・製作年月:昭和5年 長野県宝の指定を受けている筑摩神社拝殿を背に参拝者を迎える大きな狛犬。他の松本式狛犬とは、大きさや首の下にまで伸びるたてがみなど多くの違いが見受けられる。」田近石材本店HPより

二の鳥居を潜り参道真っ直ぐに、銅板葺・切妻(平入)の神門

緩やかな曲線の檜皮葺き屋根を持つ入り母屋造りの拝殿は、慶長15年(1610)に松本藩主:石川氏によって造営されたもので、長野県宝の指定。

前回の参拝では時間が遅すぎて境内の其処かしこをゆっくり見学する事も出来ず、慌ただしい参拝で終わってしまいましたが、今回は思う存分に美しい境内を拝見させて頂けました。

境内の左手には松本市指定重要文化財で「鳴らずの鐘」と呼ばれる梵鐘があります。もとは筑摩神社別当寺の梵鐘で、永正十一年(1514)小笠原長棟が寄進した旨の陰刻があります。

境内の歌碑、裏面に「正親町三條〇〇 親萬延元庚申」の刻が有るのですが碑文は達筆すぎて・・・😥

筑摩神社の西側に祀られる「飯塚」は「鬼塚」とも呼ばれ、八面大王の首を埋めた場所と云われています。

最期の画像は「縣社 筑摩神社」の社号標の横にあった小さなお社。境外摂社なのか、それともお旅所なのか・・不明。

「日露戦役 大捷紀念碑」

参拝日:2010年10月16日&2016年4月21日

 

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須々岐水(すすきがわ)神社 in 長野県松本市里山辺

2022年07月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市里山辺に鎮座される「須々岐水(すすきがわ)神社」。御祭神は薄川の神でもある『須々岐水神、建御名方命、素盞鳴命』

「古来より須々岐水神と称され、この地の開拓の祖神として薄川の神を祀り、山家(やまべ)郷民の信仰を得て現在に及んでいる。その創始は薄川流域に古代人が定着し農業が始められた頃と推定される。平安初期に山家郷開発の祖となった須々岐氏の奉祀するところとなった。鎌倉時代になり、諏訪上社系の神氏が山家氏となり、地頭職として山辺郷を領知するようになり、御祭神を建御名方命、素盞鳴命と改められた。」

「寛永年間、城主戸田氏より一・二・三の鳥居を寄贈され、現存する木造大鳥居はその三の鳥居と考えられる。中世より卯年酉年には諏訪同様の御柱祭が行われる。」

「また享保年鑑より逐次御船が造られ、さらに天保年間に至り諏訪の名匠立川一門による見事なお船が完成され、今日見る九艘の優雅なお船祭りが行われている」「」内は境内案内より抜粋

境内はうっそりと緑に包まれ、その神秘的な雰囲気に思わず深呼吸。知らずに背筋が伸び、気持ちが心地よくぴんと張り詰める感覚。

拝殿額の周囲には神名が示す「薄」の装飾が施されており、一見の価値あり。

拝殿近くより神域を守護されるのは、松本型の素敵なあの子たち。もはや、松本市内の神社にこの子たちがいないなんて考えられない😅 

「石工:田近勝之助(二代目)・製作年月:昭和3年4月 松本市の郊外、里山辺にある須々岐水神社 6年に1回御柱祭りも行われるこの神社にも鬣(たてがみ)が大きく横に広がった迫力ある狛犬が鎮座する。阿形と吽形で鬣の形が変わっていることも特徴的。」田近石材本店HPより

本殿向かって右手前に「一之御柱」、続いて「二之御柱」、画像にはありませんが本殿裏手に「三之御柱」、「四之御柱」が屹立しています。

神楽殿屋根には「梶の葉」の御神紋

「須々岐水神社」は「薄の宮」とも呼ばれ、その記録は貞観9年(867)以前に遡ります。「山奥の大明神平に降りた神が、薄の葉に乗って薄川を下り薄畑に着き現在の社地に移ったが、その際に川底で薄の葉がこすれ片葉になった。諏訪明神を祀る社跡の傍らには片葉の薄がある」との記録があります。社務所の一画に注連縄で囲われた場所があり、その中に僅かばかりの薄が生えていましたが、それが「片葉のススキ」なのかどうか・・。

一段高い石垣の上、囲いの中に神明造の「境内社:大神社」。御祭神は『天照大神』

御柱の「曳き綱」

お船倉

参拝日:2010年11月17日

 

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多賀(たが)神社 in 長野県松本市出川町

2022年07月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市出川町に鎮座される「多賀(たが)神社」。御祭神は『伊邪那岐命、伊耶那美命』

拝殿には由緒額が有るのですが、文字の小ささ+画像が小さい所為で読み取れません。「滋賀県の多賀大社の分霊を祀る。多賀大社同様「お多賀様」と呼ばれ、延命長寿の神として信仰されている。秋の例祭では「寿命餅」が授与され、周辺市町村からも参拝者が訪れる。」Wikipediaより 

参道正面に神楽殿

神楽殿の前左右より神域を守護されるのは、例によって例の  😊 松本型狛犬さん一対。しかも阿吽ともに子連れです。

「昭和二年八月 松本市 発起兼彫刻者 田近勝之」の刻。田近石材のHPには記載が有りませんが、二代目:田近勝之助の作と明記されています。

阿形さんの手の下で遊ぶ仔狛、正面から見ると可愛いお尻が参拝者の目に触れる位置にあり、横に回ると・・不満たらたらな顔で親の尾に噛みついています😆

吽形さんの足の間で遊ぶ仔狛、何をおねだりしているのか一生懸命に見上げるその様子が何ともいじらしく可愛い😊  

片回廊がついた拝殿には「諏訪大明神・多賀大明神」の拝殿額。こちらのお諏訪さんは・・随分と影が薄い。

参道に建立された記念碑、左の碑には「天盃恩賜記念長寿碑」の文字。

「御神木」・「お百度石」

参道入り口近くには石積みの高い位置に石灯籠。「明治三七・八年 ○○記念」の刻。年号からすると日露戦争の戦勝記念と思われますが、あえて○○の部分を削っている事に気持ちがざらついたのは否めません。

手水舎

参拝日:2010年10月17日

 

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二つの千鹿頭(ちかとう)神社 in 長野県松本市里山辺

2022年07月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市里山辺神田に鎮座される「神田千鹿頭(ちかとう)神社」。御祭神は『千鹿頭神(ちかとうのかみ)』

松本市里山辺林に鎮座される「林千鹿頭(ちかとう)神社」。御祭神は『千鹿頭神(ちかとうのかみ)』

諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)において『千鹿頭神』『洩矢神(もりやがみ)』の御子神、もしくは孫神、あるいは洩矢神そのものとも云われます。二つの千鹿頭神社の社殿は、千鹿頭山山頂に仲良く並んで鎮座されていますが、長野県神社庁のHPでは、それぞれに松本市神田1-16-1と、松本市大字里山辺5203の鎮座地が表示されています。

どちらから参拝しても一つの山の頂上に鎮座されているのですが、検索すると、何から何まで分立しているそうで、それはそれで見応えがあったかもと・・山頂まで行けなかったことをちょっと後悔。

とは言え、どっちから登ってもかなりの山登りになる事は間違いないし・・、人間、なんだって諦めが肝心な時もある訳で😅 

里山辺神田千鹿頭神社の参道。

里山辺林千鹿頭神社の参道。

神田側参道入り口から見た灌漑用の「千鹿頭池」。満開のコスモスがとっても綺麗で秋のひと時を満喫する事に。ついでに持参したお弁当で昼食を。

可憐な彼岸桜もチラホラと

近くの観光案内に「千鹿頭神社・御柱」の写真があり、ここでまたもや聞き慣れたあのフレーズ😅  「支度見るなら三ノ宮(沙田神社)、女衆見るなら千鹿頭山(千鹿頭神社)、けんか見るなら薄宮」。先ほど参拝した「須々岐水神社」の名前が・・つまり我こそが一番なのだけど、一応謙遜している風を装って・・でも競争意識半端ない?😠

鳥居前の参拝で終わらせた二つの「千鹿頭神社」、最後の画像は里山辺側の参道の鳥居近くにあった旧参道。ほんの触りだけ登ってみましたが、即!回れ右。君子も凡人の私たちも「危うきに近寄らず」デス!

訪問日:2010年10月17日

かっては一つの神社であった「千鹿頭神社」でしたが、江戸時代初期の元和四年(1618)を境に、千鹿頭山尾根の東と西を松本藩と高島藩に分割。その為、それまでは一社であった千鹿頭神社の社殿及び祭祀のすべてが、神田側と林側とで並立する事になったのです。

 

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