車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

富田林寺内町 in 大阪府富田林市

2023年04月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる「富田林寺内町」。富田林市の中心にあり、東西に7本、南北に6本の街路で区画された東西約400メートル、南北約350メートル、面積約13.3ヘクタールの台地上に、近世の町割りをよく残した街並みが広がります。

富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄3年(1560)、本願寺一家衆興正寺第16世・証秀が、石川西側の河岸段丘上の荒芝地を百貫文で購入し、一向宗興生正寺別院を中核に開発された宗教自治都市として発展してきました。

興正寺御門跡兼帯所由緒書によれば「周辺4ヶ村(中野・新堂・毛人谷(えびたに)・山中田)の「八人衆」の協力で、芝地の開発、御堂(興正寺別院)の建立、畑・屋敷・町割等を行い、富田林と改めたことに始まるという」と記載されています。

伏見城の城門を移築したと伝わる「興正寺別院山門」は、国の重要文化財指定。

寺内町の核ともなるのが、江戸時代初期17世紀中頃の建造で富田林寺内町の中でももっとも古い建築物とされ、また現存する町家の中でも最古と考えられている「旧杉山家住宅」

杉山家は代々『杉山長左衛門』と名乗り、富田林寺内町の創設にもかかわった富田林八人衆として町を経営した旧家のひとつとされています。また明治時代に与謝野晶子らと共に活躍した明星派歌人『石上露子』の生家としても知られています。

旧杉山家住宅の向かい側にある「じないまち交流館」。富田林寺内町の歴史と文化を生かしたまちづくりを推進するとともに、地域の賑わいや交流を創出する拠点として開館されました。

いつの時代の看板でしょうか?日章旗の下には「国誉足袋」、隣は見た目にもわかりやすい白足袋と「足袋」の文字。古い看板はそれだけで面白く見飽きません。

「遠隔地取引用革袋」・・正直な話、よく分からない代物です(^^;) とはいえ、ここに展示されているものは、みんなこの町で普通に存在していたものばかりなのです。

じっくり歩くととてもではないけれど見終わるなんて無理な寺内町。今ならそれも有かと思えるのですが、この当時は行きたい場所が多すぎて、無理なスケジュールを組んでいたように思います。

19世紀中期(1854年)の築造の「葛原別邸」。18世紀末に酒屋を始めたと伝えられている葛原家の分家で、画像では見えませんが「三階蔵」で知られています。

18世紀中期の築造とされる「杉田家住宅」、屋号を「樽屋善兵衛」と称し、油屋を営んでいました。現在は「杉田医院」として看板を上げています。

18世紀中期の築造と推定される「木口家住宅」

18世紀中期の築造とされる「橋本家住宅」、屋号を「別井屋」と称し、酒造業を営んでいました。入口には駒つなぎの置石が残されています。

辻角にたてられた「あてまげのみち」。防衛上の観点から、寺内町の街路のほとんどは直行しておらず、角で少しずらされた「あてまげ」によって、まっすぐの見通しが妨げられるようにつくられています。

寺内町の町境は、屋敷裏にめぐらされた「背割り水路」で区切られ、その水路は雨水や生活排水路として今も利用されているそうです。

江戸期、周辺よりも一段高い台地上に作られた寺内町の出入り口に設けられた四坂・・聳えるような石垣沿いに続く坂道が町への入り口です。

訪問日:2008年4月26日

 

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楠公史跡・楠妣庵(なんびあん) in 大阪府富田林市

2023年04月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府富田林市役所前に「楠氏遺跡里程標」を見かけて、思わず二度見・・・こんなものが有った事を今まで気づかなかった筈がないのに?・・。気になって調べたら、以前は富田林駅前にあったとの事。何があってこちらに移されたのか不明ですが、おかげで画像に残せました。

富田林市大字甘南備に門を構える臨済宗妙心寺派の寺院「峰條山:楠妣庵(なんびあん) 観音寺」『千手観音菩薩』を本尊とします。

「楠木正行が、延元4年:暦応2年(1339)に崩御した後醍醐天皇を悼み、河内国石川郡甘南備にある峰條山の一角の地を浄め、後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置した「峰條山観音殿」と称する一殿を建立したのが起源とされる。」Wikipediaより

四條畷の戦いで正行とその弟正時が討死にした後、久子夫人は生まれ育った甘南備に隠棲し『敗鏡尼(はいきょうに)』を名乗り、楠妣庵を建てて愛する者、縁の人々の菩提を弔いながら16年間の余生をこの地で過ごしました。久子夫人の入寂後、正行の弟楠木正儀(まさのり)は、不二房行者を住持させて、観音堂改め観音寺とし、楠木一族の香華寺としました。その後、足利方に攻められ、観音寺・楠妣庵ともに兵火によって焼失。大正6年(1917)に楠妣庵が再興し、次いで観音寺も再建。本堂には楠公夫人と楠家一族の位牌が安置され、正面には「非理法権天」の額。両の柱には『明治天皇』が正成公に贈った言葉「千載之一人臣子之亀鑑(まことにせんざいのいちにん しんしのきかんにそうろう)が刻まれています。

楠妣庵に行くには表参道と裏参道の二つがあり、たまたまですが、私たちは裏参道からの参拝となりました。揃いの赤前垂れに赤いお帽子姿の六地蔵様に出迎えられて参道へ。

参道途中には、坂道に沿って建てられた覆い屋があり、傍らには「楠公夫人常用井井」の碑。久子夫人はここから湧く水を使用していたと言われ、今もそこからは綺麗な清水が湧いています。

納経所で拝観の受付を済ませ境内へ。小堂は大正6年5月(1917)、帝国芸術院会員伊東忠太博士の設計で建立された「観音堂 」。久子夫人の念持仏である『十一面観音』が祀られています。

久子夫人が隠棲したと伝えられる「楠妣庵」。同じく伊東忠太博士の設計により鎌倉時代末期の建築様式で復元。建物の内を見ることは出来ませんが、かって東宮であられた昭和天皇が行啓され、その際にクスノキをお手植えされています。

程よく苔に覆われ始めた一画、画像では見えませんが久子夫人の墓と伝えられる小さな五輪塔が建立されています。揺らめく香華の向こうに見えるものは、緑に抱かれた赤い土の道。

「石造七層塔」

楠公夫人六百年祭の折、山梨県恵林寺塔頭青松軒の山門を移築した栗材:四脚門の山門。昭和39年の建立。こちらが正式な表門と言う事で、このまま下まで。

石段参道の下に「楠公夫人と正行の像」。父:正成公の御首が観心寺の中院に戻ってきた時、正行は父の遺品の小刀をもって自刃しようとします。それを察した母は「父の遺訓に背いてはならぬ・・生きて忠を尽くすのです」と諭します。

見上げる石段の先には「後醍醐天皇の隠岐より還幸を兵庫にて奉迎せし楠公の像」。その表情は喜びに満ちています。

境内の一画にあった句碑

参拝日:2008年6月7日

楠公の史跡を訪ねる旅で外せない場所がもう一箇所・・正成公が赴いた死地「湊川」です。楠木正成は、延元元年(1336)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節しました。謀反人とされた正成の墓は長らく荒廃していましたが、元禄5年(1692)に『徳川光圀』によって【嗚呼忠臣楠子之墓】の石碑が建立されます。以来、水戸学者らによって理想の勤皇家として崇敬された楠公、維新の後には、明治天皇・大正天皇・昭和天皇による行啓もなされました。いつかは必ず参拝をと思いながら、その地に降り立てないまま時が過ぎてしまいました。

 

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楠公史跡・四條畷神社 in大阪府 四條畷市

2023年04月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

前回の観心寺参拝で『楠木正成公』の物語は終わりましたが、楠公史跡はまだ先へと続きます。桜井駅で父:正成公に諭され、一人故郷に帰った『楠木正行(くすのきまさつら)』は、やがて長じて亡き父の遺志を継ぎます。湊川の戦から12年。「四條畷の戦い」が足利尊氏の家臣・高師直(こう の もろなお)との間に始まりました。

大阪府四條畷市南野に鎮座される「四條畷神社」。御祭神は『楠木正行公』『楠木一族の将士24柱』を配祀。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社。

創立「明治天皇の思召により、明治二十二年別格官幣社に列格仰下され翌年鎮座。 楠正行公は楠正成公の嫡男であり、正成公の大楠公に対して、小楠公と申し上げる。 卿は延元元年 ( 1336 ) 湊川へ出陣せられる父君と、桜井の駅にて訣別されたが、時に御年十一歳、爾来母君に孝養を尽くして臥薪嘗胆読書練武に励み、報恩の至情を奉げた。 天平二年 ( 1347 ) 十二月、後村上天皇に拝謁、国難に殉せん事を誓い、如意輪堂の扉に鏃 ( やじり ) をもって決死の和歌を遺された。 翌年正月、敵将高師直の軍勢八幡を発し河内に至るや、正行卿一族は寡兵、よくこれを迎え撃ち、獅子奮迅せられたが、満身に槍を受け遂に殉節せられた。時に御年二十二歳の青年であった。 この正義に燃えたる小楠公の事蹟と吉野朝史の一齣は、四条畷に長く留められ万古に変わらぬ。 飯盛山は青少年の徳義掲揚を叫び、老松は史蹟を語っている。」境内由緒より

鳥居を潜った先、まっすぐに伸びる石段に一瞬たじろぎながらも、ここまで来てまさか引き返すなんて・・・杖代わりの御亭主殿を待つことにします。

登りきった石段の先、〆柱の左右より神域を守護されるのは、豊かな体を低く構えた見事な毛並みの狛犬さん一対。この子たちに会えた時点で足の痛みは遠のきました(^^;)

拝殿の正面に建つ神明鳥居は、鎮座百年にあたり伊勢神宮より贈られたもの。伊勢に奉られるのは皇祖神・天照大神。その社より鳥居を贈られる・・・ その事を思えば南朝の正当性を訴えた楠公父子の思いは、見事、叶ったとも言えるのではないでしょうか。

「境内社:御妣(みおや)神社」「正行公御母堂を祀る。 正成公なき後、正行公を始め御兄弟を国家の忠臣として育てあげられた。賢母の誉高く、女性の鑑、子育ての大神として祀られる。」由緒碑より

『楠木正行』の母君が祀られる本殿。屍となって眠る地は別々であっても、神となられた御霊は、いつも共に在る事でしょう。

「境内社:有源招魂社」「飯盛山の東峰に霊妙な有源山があります。 かつてその所に成人教学研修所があり、内外古今の先哲先人の御霊が合祀されて研修諸生の崇敬の的でありました。 過般、当四条畷神社境内に新しく神殿を奉建、2007年4月7日有源招魂社と称して御鎮座になりました。」案内より

御祭神:碑

「桜井の別れ像」、刻まれた文字は「忠考両全」・・忠と孝は本質的に同じものであるから、孝行が完全ならば忠義も全うできるの意です。

四條畷市推薦名木の楠の根元に「楠公慰霊塔」。豊中の山林で偶然に発見された古い塔で、1991年にこの地に移設されたとの事。

四条畷の戦を前にした『楠木正行』は、吉野で『後醍醐天皇』の廟を拝したのち、如意輪寺の本堂の板壁に、一族143名の名を留め、やじりを用いて辞世の句を残したと伝えられています。
【 返らじと かねて思えば 梓弓 無き数に入る 名をぞ留むる 】

河内飯盛山の山頂には「楠木正行像」があるそうですが、さすがにそんな体力はありません。

明治時代に作詞された鉄道唱歌「関西・参宮・南海篇」より

四條畷に仰ぎ見る 小楠公の宮どころ 

ながれも清き菊水の 旗風いまも香らせて

心の花も桜井の 父の遺訓を身にしめて

引きは返さぬ武士の 戦死のあとは此土地よ

参拝日:2008年6月7日

 

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楠公史跡・檜尾山:観心寺 in 大阪府河内長野市

2023年03月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府河内長野市寺元に門を構える、高野山真言宗の遺跡本山の寺院「檜尾山:観心寺(ひのおさん:かんしんじ)」。国宝である『如意輪観音』を本尊とします。出迎えてくれる山門は万治2年(1659)の再建(大阪府指定有形文化財)

山門近く・・楠公史跡を巡ってここまで来た私たちを出迎えてくれたのは、雄々しく鐙を踏む楠木正成公騎馬像。

「観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。 その後、平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。 弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。 以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。」公式HPより

本堂(国宝)は南北朝時代、正平年間(1346 ~1370)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例である。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。」Wikipediaより

修行大師像と、弘法大師礼拝石

「楠木正成公:御首塚」。延元3年、湊川の戦で敗れた楠木正成は、弟の正孝と刺し違えて自刃。正成の首級は京都の六条河原で梟首(きょうしゅ)された後、足利尊氏の命により観心寺に届けられ、この地に祀られました。

首塚の前に建てられた石碑に刻まれるのは、楠公自筆「非理法権天(ひりほうけんてん)」。江戸時代中期の故実家・『伊勢貞丈』はその意味をこのように述べています。「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する(非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず)

道興大師御廟。 讃岐国の出身で空海の十大弟子の一人である『実慧(じちえ)』。天長4年(827)に観心寺を創建。檜尾僧都・道興大師とも称され、初代東寺長者とされています。

「建掛(たてかけ)塔(重要文化財)」は、楠木正成の祈願により三重塔として建設されたものですが、湊川の戦いで正成が討死した為、初重だけとなり仏堂として改築されました。現在あるのは文亀2年(1502)に再建されたものです。

「開山堂:本願堂(大阪府指定有形文化財)」は、正保3年(1646)の再建。

「訶梨帝母(かりていも)天堂:鎮守堂(重要文化財)」は、天文18年(1549)の再建。「訶梨帝母」では馴染みが薄いですが、「鬼子母神」と言えば判り易いかもしれません。

鮮やかな緑の一帯は、後村上天皇が正平14年(1359)から約10ヶ月の間、行在所とした旧惣持院跡。緑に包まれるように「後村上天皇旧蹟」の碑が建てられています。

観心寺境内の奥深くには、「後村上天皇:桧尾陵(ひのおのみささぎ)」が、静かに鎮まっておられます。後醍醐天皇の皇子で第九十七代天皇。住吉大社で没した後、縁のこの地に陵が造られました。

「弁天堂」

観心寺の支院「中院」は楠木一族の菩提寺であり、内には『楠公学問所 中院』の碑が立てられています。案内に「正成は8歳から15歳までここで、僧の龍覚(りゅうかく)から学んだと伝わっています。」

「拝楠公家」と刻まれた碑に見送られて・・・

遠い昔、自らの義に殉じた武将の物語は、この首塚に詣でる事で最後となります。ここから先に訪ねるのは、「楠 正行(まさつら)公」を始めとした人たち縁の地。雄々しく美しい正成公に見送られ、次なる楠公史跡を訪ねるべく、河内長野の地を後にしました。

参拝日:2008年6月7日

 

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南木(なぎ)神社と楠公史跡 in 大阪府千早赤阪村

2023年03月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府千早赤阪村水分、建水分神社の境内に鎮座される「南木(なぎ)神社」。御祭神は『大楠公 (楠木正成:くすのきまさしげ)』。後村上天皇から「南木(なぎ)明神」の神号を賜わった最古の社です。

「元禄10年(1697)領主の石川総茂も正成公を尊崇し、元来、建水分神社本殿裏に祀られていた社殿が傾頽した為、現社地へ遷座再興した。しかしこの社殿も昭和9年の大風害(室戸台風)により老松が倒れて崩壊した。(御神体の大楠公尊像は総茂奉納の厨子に護られ無傷であった。) 現社殿は摂社としては破格の官幣社建築に準じて設計再造営され、昭和15年に竣功したものである。」公式HPより

拝殿は向拝の中央間を一段高くし 向唐破風屋根を付け、背面には唐破風屋根の幣殿が接続する特異な形式。2004年に檜皮葺の屋根を銅板葺に改めています。本殿は昭和13年~15年にかけて再建された一間社春日造の社殿ですが、木立に隠れて見ることは叶いません。

拝殿前より神域を守護されるのは、神殿狛犬を思わせる風貌の狛犬さん一対。鎮座される御祭神にとてもふさわしい容貌を備えた、端正な顔立ちです。

社殿向かって右前の由緒標は、陸軍大将・荒木貞夫男爵の筆によるもの。

少数の兵力で鎌倉幕府の大軍を迎え撃ち撃退した故事にちなんで作成された「除災招福の藁人形の土鈴」。河内赤阪城で挙兵した正成公は、城を包囲した幕府軍に対し、城兵の身代わりとして藁人形に甲冑を付けて敵をあざむき、突撃してきた敵に巨石や熱湯などを投げ落として撃退しました。また、藁人形へ矢を撃たせることで、それを集めて矢を補充し、敵に射返したとも伝えられています。

参拝日:2008年6月7日&2015年10月9日

千早赤阪村大字水分、千早赤阪郷土資料館の近くにある「楠公誕生地」。碑文字は幕末の三剣豪、桃井春蔵(桃井直正)の筆によるものです

『楠木正成』、幼名・多聞丸は永仁2年(1294)、現在の千早赤阪村水分山ノ井で誕生し、8~15才まで観心寺境内にある楠木家の菩提寺の「中院」で学問を習ったといわれています。武家から朝廷へと権力の移行を図った建武の新政の功労者ですが、天皇中心の政治に反旗を翻した足利尊氏に湊川の戦いで破れ、自害して果てました。

文禄年間(1592~1596)、豊臣秀吉の命で増田長盛がこの地を検地し、土壇を築き、小さな社を祀ったのが始まりとされ、明治8年には天皇への忠臣ということで、大久保利通の働きかけもあり、石碑が建立。大正6年には後の昭和天皇となられた皇太子殿下も行啓され、クスノキの植樹をされています。

楠公史跡の一つとされる「楠公産湯の井戸」碑

楠正成誕生の際、この井戸から湧き出る水で湯を沸かし産湯にしたと伝えられる「楠公産湯の井戸」。組まれた石垣の底からは今も水が湧き出ているのが見られます。

「千早赤阪郷土資料館」の中庭には、島本町の櫻井之驛にある「父子別れの像」の原型像があります。桜井で今生の別れをした父子が、こうして故郷で向かい合う姿は、命の通わぬ石像であっても胸を打たれます。

耳を澄ませば名も知らぬ鳥の声が聞こえ、近くの田からは蛙の鳴き声が聞こえる。穏やかで静かな時間が流れるこの山深い地に、遠い・・遠い昔、忠に殉じた父子がいました。

訪問日:2008年6月7日

 

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建水分(たけみくまり)神社 in 大阪府千早赤阪村

2023年03月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府千早赤阪村水分に鎮座される「建水分(たけみくまり)神社」、御祭神は中殿に『天御中主神』。左殿に『天水分神(あめのみくまりのかみ)・罔象女神(みずはのめのかみ)』、右殿に『国水分神(くにのみくまりのかみ)・瀬織津姫神』。

通称「水分(すいぶん)神社」「水分大明神」「上水分社(うえのすいぶんのやしろ)」とも称し、式内社で、旧社格は府社。古来より金剛山鎮守として、また楠木氏の氏神として崇敬されてきました。

神仏混淆の霊峰「金剛山道標」

社伝によれば「崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃。このため建武元年(1334)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。」

社殿鳥居の前より神域を守護されるのは、何か悪戯をたくらんだ子供のような・・・・無邪気と悪魔が同居した顔立ちの狛犬さん一対(^^;)

実は本殿も拝殿も、一瞬尻込みをしたくなる急な石段を登っていかなければならないのです・・・・。狛犬さんの顔がニヤニヤ顔なのは、実は頑張れの意味を込めたエールなのかも。

重要文化財の本殿は三殿で構成され、中殿は一間社春日造、左右両殿は二間社流造。各殿を渡廊(わたどの)で連結するという、全国でも唯一の珍しい様式で「水分造」と呼ばれています・・が、拝殿からでは石段がわずかに見えるのみ。(通常参拝は本殿下の拝殿迄。)

拝殿近くに鎮座される「末社:金峯神社」。御祭神『天照大御神』

本殿参道石段から見る「旧絵馬殿」と左奥に「神輿庫」

旧宝物庫

実りの秋の収穫を建水分大神の恩恵として感謝祝慶する「秋祭(御神輿渡御祭)」。富田林市、河南町、千早赤阪村の各氏子地区より20台近くの地車(だんじり)が宮入りし、神輿を中心に全地車が参集した風景は河内随一と謳われるそうです。

参拝日:2008年6月7日&2015年10月9日

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御神名一口メモ

『天水分神』、伊邪那岐神と伊邪那美神の御子神。山頂の水の分配をつかさどる神。

『国水分神』、伊邪那岐神と伊邪那美神の御子神。河口や港をつかさどる神。

『罔象女神』、水の神、水神。福井県越前市に鎮座する大滝神社の摂社・「岡田神社」では、村人に紙漉を教えた神と伝えられる。

瀬織津姫神』、祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。「人の穢れを早川の瀬で浄める」とされる。

〈祓戸四神・・・瀬織津比売・速開都比売(はやあきつひめ)・気吹戸主(いぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)〉

 

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楠公史跡・桜井駅跡 in 大阪府島本町

2023年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

楠公史跡を訪ねてみよう・・そう思ったのは『楠木正成公』縁の地、河内長野市を尋ねた時です。ご当地マンホールを探してただ歩くだけよりも、きっと素敵な発見があるに違いない!幸い、さほど遠くない島本町には楠木正成・正行親子の今生の別れとなった「桜井駅跡」が史跡として残されているではないですか。

昔、母が子守唄代わりによく歌ってくれた「桜井の決別」。幼心にも胸に響いて懐かしく、長じても忘れることなく心に残った歌詞と旋律。今回はその歌になぞって・・

青葉が清々しく影を落とす桜井まで来た正成公は、木陰に駒を止めてしみじみと戦の先行きを憂います。この戦はおそらく負けるであろう・・だがそれでも突き進まねば、後醍醐天皇のご意志は踏みにじられてしまう。正成公はここまで付き従ってきた我が子:正行を呼び寄せて静かに告げます。「父はこのまま兵庫に赴き、おそらくは彼方の浦で果てるであろう。ここまで共に来たが、お前は母のもとに帰り時期を待て」と・・。父の言葉に驚き悲しみ、共に戦い死出の旅にもお供せんと縋る正行公。正成公は後醍醐天皇より賜った刀を正行公に形見にと授け「今は時期を待て、再び大君の為に戦う為にも早く生い立つのだ。ここからは今生の別れ。正行よ、母のもとに疾く帰れ」と諭すのです。

生きて再び相まみえる事はないであろう二人・・共に見送り見返り、降り来る五月雨の中に、やがてその姿は小さくなって互いの視界から消えてゆく。

陸軍大将『乃木希典』の揮毫による「楠公父子訣別之所」碑 

『東郷平八郎』揮毫による『明治天皇』御製碑は昭和6年の建立。裏面には頼山陽の漢詩「過桜井駅址詩(さくらいえきあとをすぐ)」が彫られています。(リンク先に頼山陽の漢詩・全文掲載)

【 子わかれの  松のしづくに 袖ぬれて  昔をしのぶ さくらゐのさと 」

「「旗立松」旗掛松・子別れ松とも呼ばれています。西国街道の端にある枝を広げた老松のもとに駒を止めて楠親子が決別をしたと伝えられています。明治30年に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存しました。」案内より

旧西国街道沿いに面して、明治九年に建立された「楠公訣児之處」碑。題字は大阪府権知事 渡辺昇。裏面には英国公使ハリー・S・パークスの英文が刻まれています。

「(訳文)西暦 1336年湊川の戦いに赴くに際しこの地で子正行と別れた「忠臣」楠木正成の誌義を一外国人としてたたえるものである。駐日英国公使ハリー・S・パークス1876年11月」案内より

石扉には『後醍醐天皇』より与えられた「菊水の紋」。笠置寺に臨幸した後醍醐天皇のお召しに馳せ参じた楠木正成公。天皇は傍らの菊花一房を手に取り静かに杯に浮かべ「菊は千年の後も香るという。忠義を尽くすお前の名が千年の後も香るように、この菊水の紋を旗につけるがよい」と申されたと・・歴史は伝えます。

「忠義貫乾坤(ちゅうぎけんこんをつらぬく)」碑

「明治27年、島本村内と一部近郷の有志約150名によって建てられました。当時は「楠公訣児之處」碑と並んで玉垣の中にありましたが昭和14年、桜井駅跡の拡張工事に伴い現在地に移されました。」案内より

楠公六百年祭記念碑(昭和十年五月十六日)

2008年訪問当時の手水鉢と「櫻井驛址」

2021年訪問時の手水鉢

櫻井之驛址にある台座に刻まれた文字「滅私奉公」は、『近衛文麿』の揮毫。

南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」「多聞天王の化生(けしょう)」「日本開闢以来の名将」と称された「楠木正成公」。正成が忠誠を誓い、命を賭して最後まで仕えた「後鳥羽上皇」がこの地を詠んだ一首
 【 見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川  夕べは秋と なに思ひけむ 】

明日は正成公の生まれ故郷「千早赤阪村」の紹介です。

訪問日:2008年6月7日&2021年5月29日

 

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淡輪界隈あちこちウォッチ in 大阪府岬町

2023年03月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

岬町淡輪にある、南海電気鉄道南海本線の駅「淡輪(たんのわ)駅。岬町のマンホール探索はこの駅からスタートです。

この瀟洒な洋館風の建物は、明治31年(1898)に西村天囚が淡輪の風光を新聞に紹介したことが設置の契機となって、明治39年(1906) に南海鉄道の簡易停車場として開業しました。

『紀貫之』の「土佐日記」に【和泉の灘といふ所より出でて漕ぎ行く。海の上、昨日のごとくに風波見えず。黒崎の松原を経て行く。】というくだりが有り、その松原がこの地とされています。

大阪府阪南市箱作から泉南郡岬町淡輪にかけての海岸にある大阪府営の海浜公園「せんなん里海公園」

淡輪海水浴場、愛称「ときめきビーチ」。関西国際空港・明石海峡大橋を望む大阪湾に面した人工海水浴場は、シーズンともなると大勢の海水浴客が訪れて賑わうそうです。

里海公園には、自然体験ができる人工磯浜や遊戯場・多目的広場といった施設があり、園内には国内唯一の常設ビーチバレー競技場「潮騒ビバレー」があります。

自由に見学ができるようだったので早速、観覧席へ。昔テレビの画面越しに何度か見た事はありますが、生の試合を見るのは初めて(⌒∇⌒)

「さとうみ磯浜」は、入り江を模して人工的に造られた磯浜。磯遊びをはじめ、浜辺の様々な生き物の観察やふれあいができます。

散歩コースとしても人気のエリア、歩道上にはどこからが起点なのか不明のイルカの標識が設置。

海コース 1300M・・かなりの距離ですね(^^;)

所々に海の生き物を象ったモザイク画があり、これが中々によく出来ていて実に楽しい。

ハマグリの貝から覗く触覚(?)が予想以上にリアルで、思わず笑ってしまうほど(笑)

磯浜に作られた遊歩道。これなら多少足の問題があっても、小さなお子様でも、安心して美しい磯の景色を眺める事が出来ますね。

所々に見える人影は何をしているのでしょう?

柵につかまって見ているのは、その景色が楽しいからで、決して仲間入りしたいからではありません! 念のため(笑)

マンホール収集で立ち寄った岬町、ここからもう一っ走りすれば和歌山県だなんて、凄く不思議な感じ。今なら県境に来れば必ず隣県に足を踏み入れるのがお約束の二人も、当時はいたって素直(笑) 私たちがマンホール収集で和歌山県を訪問するのはこの時から8年後の事になります。

訪問日:2009年6月13日

 

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弘川寺(ひろかわでら)と西行法師 in 大阪府河南町

2023年03月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

河南町弘川にある真言宗醍醐派の準別格本山寺院「竜池山:弘川寺(ひろかわでら)」『役小角(えんのおづの)』作とされる『薬師如来』を本尊とします。

由緒「天智天皇4年(665)『役小角』の創建と伝えられ、天武天皇5年(676)に祈雨法が修せられ、『天武天皇より』山寺号が与えられたと云う。弘仁3年(812)『空海』によって中興され、文治4年(1188)には『空寂』が『後鳥羽天皇』の病気平癒を祈願し、その功によって善成寺を建て寺号の勅額を賜わる。文治5年、空寂を慕って『西行法師』がこの寺を訪れ、この地で没した。寛正4年(1463)、嶽山城の戦いで善成寺もろとも伽藍は焼失。その後復興し、寛延年間(1747~1750)『歌僧:似雲』がこの寺を訪れ、西行堂を建立する。」

参道の向かって左、地蔵堂の前に枝を広げるのは「隅屋(すや)桜」。説明によれば「南朝の忠臣であった『隅屋興市』が、「規(ぶんまわし)桜」の下で討死したと伝わる。「規桜」は絶えたが、その場所に「隅屋桜」が植樹され、今もその名を留めている。」(ぶんまわし・・回り舞台の別称)

参道を挟んで地蔵堂と向かい合うように、弘法大師像を御安置した「御影堂」。堂前には大師縁としてすっかり有名になった「三鈷の松」が植えられています。

 

境内入り口近くに建つ「鎮守堂」は、 寺の守護神である『八所権現』を祀ります。その石段下に建立されている『佐沢波弦』の句碑

【 時じくに 松風のおとすみひゞく 西上人(西行法師)のおきつきどころ 】

おくつき‐どころ(奥城所)とは 墓所をさす言葉で、ここには西行墳と呼ばれる西行法師の墓が存在します。【 願わくは 花の下にて 春死なん   その如月の  望月のころ 】が良く知られており、実際その歌に詠んだように、旧暦2月、この弘川寺一帯の満開の桜に見送られるように入寂したと言います。

本堂の右手から石段を上ると、江戸時代中期の浄土真宗の僧・歌人であった『似雲(じうん)法師』が建てたという「西行堂」があります。茅葺屋根のささやかな佇まいは、人生の大半を旅と歌に費やした彼にいかにも相応しい。

堂内には西行法師坐像が安置されており、左手には『川田順』の筆による歌碑。【 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 】(小夜の中山は、静岡県掛川市にある有名な難所)

西行堂から更に上に延びる石段を行けば「西行墳(墓)・似雲墳」があるのですが・・さすがにこの石段を上るにはいかにも体力不足(^^;)。人間、潔く諦める事も時には必要です。ちなみにこの石段、大阪市内電車が廃線になった時の敷き石だそうで、ここで第二の人生を得ています。何でもなく見るものや場所にも、じつは意外な歴史や物語が秘められているという、興味深い一例です。

石段途中から見下ろす西行堂

西行堂までの間に建立されていた歌碑。左は前々代の住職『南葉』による【  来たる世も  寺に住みたし時鳥(ホトトギス)】

右は『紫水』作で【 月あかき  ころともなればおもひいでよ  むつみなれてし  人はいかにと 】

【  鶯や  いつの世までを 淋しさに  】『松瀬青々』

「弘川寺」は前述の「隅屋桜」や府天然記念物に指定された樹齢350年余の「海棠」が有名ですが、実は秋の紅葉もまた見事で、本坊庭園や境内、紅葉谷・桜山などの一帯が紅葉の名所となります。

が・・・・混雑する名所が大の苦手とのたまうご亭主殿、横で深く同意する私(笑)なので、名所なる所以の季節には滅多に行きあわず、紅葉にはしばし早い「紅葉谷」

境内、いずれかの建物の屋根に見かけた・・・多分「大黒様」(笑)

締めくくりは百人一首に収録された西行法師の歌から

【 さびしさに 耐えたる人の またもあれな 庵(いほり)並べむ 冬の山里 】

参拝日:2010年10月9日

 

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柏原市内あちこちウォッチ in 大阪府柏原市

2023年03月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

柏原市と藤井寺の間を流れる「石川」に架かる吊り橋「玉手橋(たまてばし)」。昭和3年(1928)に当時の大阪鉄道が、道明寺村(現:藤井寺市)側にある道明寺駅から石川対岸の玉手村(現:柏原市)側にある玉手山遊園地への通行路として設置。

長さ151m・幅員3.2mの5径間吊橋で、主塔と橋台は鉄筋コンクリート製。部分的に装飾を兼ねたレンガで補強されており、 上路部は鉄製トラス補剛桁。アスファルトで舗装されているものの、架橋構造は典型的な吊橋となっています。

玉手橋は歩行者・自転車専用ですが、吊り橋なので渡るときに少々揺れを感じる場合があるとの事・・・う~~~ん揺れるのか。では私には無理かも(^^;)

それでも二人でなら真ん中の市境くらいまでは行けるかも・・と、珍しく吊り橋に挑戦しようと思ったのですが、生憎と駐車スペースがなく・・路上停車のままとあっては気が急いてならず、写真に収めるだけという切ない結果に終わりました。

柏原市を流れる「石川」は、その昔は「伯太川」と呼ばれていました。平安貴族の優雅な舟あそび「曲水の宴」が催されたのは、どのあたりでしょうか?

柏原市今町にある「三田家(さんだけ)住宅」。柏原市では一軒だけの、国重要文化財の建物です。

「三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ)に接し、柏原船の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。」公式HPより

富商の代表的な住宅で、明和3年(1766)の建築以後、大きな手も加えずに現在に至っているとか。個人のお宅なので、なるべくコッソリ(って、まるで怪しい人みたい)写真に収めてきました。

碑らしきものが有ると、近寄って画像に残したくなるのが習い性となった私。この碑は「白坂神社」の近くでたまたま見つけた「高井田駅開業記念碑」

柏原市高井田にある「高井田駅」は西日本旅客鉄道:関西本線(大和路線)の駅。昭和60年(1985)8月29日に新設開業されました。

「高井田横穴群」の案内標なんていうのもあります。「高井田横穴」には総数200基以上の横穴墓があり、その多くが古墳時代の線刻画を伴うことで有名・・・だそうです。

「松岳山古墳」がある松岳山の丘陵から出土したという「船氏王後(ふねし おうご)墓誌」。現在は三井文庫が所蔵し、国宝に指定されています。

路上のいろはカルタまで駆り出しての柏原ウォッチですが、取り立てて重要文化財とか登録文化財でなくても素敵なところは沢山あります。ふっと通り過ぎた見知らぬ誰かのお宅の、思わず振り向かせる佇まい・・

訪問日:2009年6月20日&2015年10月10日

 

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