妻籠宿の外れ、木曽路から伊那道が分岐した地点にある尾又(おまた)地区に、前垂れを掛けた地蔵板碑と共に「おしゃこじ様」が祀られています。
「おしゃこじ様」の案内によると「「御左口(ミサグチ)神」を祀る古代からの土俗信仰の神様で「土地精霊神」「土地丈量神様」「酒神」等の諸説がある謎の神様と言われている。」。これも調べていくと非常に面白い話に行き当たるのですが・・要するに謎の神様なんです。
古い街道筋を歩いていると必ず出会える石仏たち。妻籠宿二番目の石仏は明治十四年の奉納。クレオパトラのような長い髪には宝冠らしきものがあり、合わせた手には何かが握られている・・・残念ながら知識がない為見た目以上の事はわかりません。
続いての石仏は、頭上の感じからして馬頭観音ではないかと思われますが、むろん確証はありません。
こちらの石仏はこのような石室の中に納められています。
妻籠宿の石仏で検索すると必ずヒットするのが、国内唯一とされる「寒山拾得(かんざん じっとく)」像。案内によると「この石仏は昭和59年の長野県西部大地震で石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な絵が彫られているので同祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀って来た。その石垣自体、安政元年の大地震の後に積みなおされたもので、それが再び地震で崩れ石仏が出現したわけでまことに不思議な事である・・~後略」
摩耗が進んで、画像では非常に見辛くなっていますが、向かって右の人物は『寒山』で書を手に、左の人物『拾得』は箒を手に、その書を覗き込むように身を寄せています。
彫ったのは文政年間に像の隣の水舟を手掛けた広徳寺の『中外和尚』と推測されています。
寒山拾得像の横、町並みより1段高い台地に境内を構える「光徳禅寺」。
明応9年(1500)の開山とされる本堂の屋根には、ユニークな表情の留蓋獅子が空を蹴上げています。
宿場ではすっかりお馴染みの「高札場」。高札とは今で言う「官報掲示板」で幕府が庶民に対し、禁制や法度等を示したものです。
「人馬会所」は、公用の旅客に人馬を提供する為に置かれた役所。妻籠宿では本陣と脇本陣にそれぞれ人馬会所があり、半月交代で務めていました。
宿場の風景にはとても良く似合う水車。古いものではないですが水の綺麗な妻籠には殊の外しっくりと馴染んでいます。
水車小屋を横に見て坂道を登り「口留番所跡」へ。近くにあった「熊谷家住宅」は9世紀初頭に建てられた長屋の一部。昭和48年に解体復元され、南木曾町指定文化財に指定されています。
すぐ側には「鯉岩」があるのですが、何がどうで「鯉」なのか・・・・。絵解きを見れば木々の間の岩部分が鯉の頭。地面についた二つの岩がどうやら鯉のひれ。
傍らの説明によると「木曽路の名所として知られ、中山道三名石(鯉ヶ岩・烏帽子岩:吾妻橋地区・兜岩:神戸地区)の一つとして江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」にも載っていたが、明治24年の濃尾大地震で頭の部分が落ち、形が変ってしまった。」
「口留番所跡」と御亭主殿😆
些細な出来事の一つ一つが懐かしくて・・ねぇ、大きな栗が入った「ゑびやの栗ぜんざい」。もう一度、一緒に食べたいね。
きっとこれ以上の時間を過したとしても、もうこれで十分なんて事にはならない。かといって、ではまだ何処を見たいのかと聞かれても、此処とかあそことか言えない。
だから目に付く沢山の素敵を、あれもこれもデジカメに収めて、妻籠をあとにします。
2016年4月25日に木曽路(木曽路はすべて山の中~山を守り山に生きる~)が日本遺産に選定。妻籠宿の町並みもその構成遺産となっています。
訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日