車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

春日神社 in 岡山県岡山市東区西大寺

2021年08月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区西大寺新に鎮座される「春日神社」。御祭神は『天兒屋根(あまのこやねのみこと)・武甕槌(たけいかづちのみこと)・齋主(ふつぬしのみこと)・比賣(ひめ)神』

由緒「文和3年の頃、大和国春日神社から勧請したものと伝えられている。往古は田村字大明神に鎮座せられたが、その後、同村字大仏に、また寛仁7年3月に現在の社地に遷された。旧御神号を春日大明神と称し、今なおその遺跡が存している。」岡山神社庁HPより

鳥居から真っ直ぐ伸びた参道、拝殿に至る茂みの中から顔を覗かせているのは、明治39年(1906)10月吉日建立の可愛らしい狛犬さん一対。この地域の狛犬さんの特長とも言える両頬の口角が、まるで大きなえくぼのように見えます。

拝殿の向背彫刻・・・さて、これは何でしょうか?龍かなと思ったのですが違うようだし、かといって獅子でもないみたいだし・・・謎😓

注連縄が掛けられた「社日碑」には正面に五穀祖神である『天照大神』・五穀祖神の『倉稲魂命』・土御祖神の『埴安媛命』・五穀守神の『大己貴命』・五穀護神の『少彦名命』の御神名が刻まれています。

氏子たちが祭礼の折、力自慢を競った際に使われた「力石」。

参拝日:2012年4月25日

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豊原角(とよはらすみ)神社 in 岡山県岡山市東区

2021年08月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区西大寺浜に鎮座される「豊原角(とよはらすみ)神社」。御祭神は『白山比咩大神・大己貴命・少彦名命』

由緒「創建年代由緒等は不詳。備前国神名帳に、従五位上豊原角明神とあり、備前国古社128社の一つで式外の神社である。古くは豊原角明神と言われており、次第に白山権現と称えられるようになり、明治2年白山神社と改称、明治3年豊原角神社と旧社名に復したと思われる。加賀国・霊峰白山の神々をこの地に何如なる理由でお迎えしたかは、全くの謎である。当神社はもともと、豊村長沼字円定寺山の麓に鎮座していたが、西大寺浜の下荒神の地に遷座、後に現在地に再度遷座した。」岡山神社庁HPより

鳥居から一直線に伸びた参道には随身門があり、更に真っ直ぐ拝殿、本殿へと続きます。

随身門前より神域を守護されるのは、ぷっくりの口元と頬から顎にかけての巻き毛が可愛い、嘉永7年(1854)9月吉日建立の狛犬さん一対。葉団扇タイプの尾を大きく開げ、長い時を過されています。

御神紋は、石川県鶴来町に鎮座される「白山比咩神社」と同一の「三子持亀甲風花(みつこもちきっこううりのはな)」

拝殿向背彫刻の龍、逆巻く波の中から顔をのぞかせ、キッ!と天を睨んでいるのですが、スマートな所為か、今一つ迫力不足😅

「境内社:稲荷神社」

「境内社:祇園社」

「境内社:出雲大社遥拝宮」

「境内社:荒神社」

「社日碑」

「忠魂碑」

「浮き根松の跡」と題された看板には、かって豊原角神社境内と吉井川沿岸から新までの約一キロにかけて浮根の松並木があったこと。浮根の松とは、根の回りにあった土が流されて絵の様な姿になったこと。しかし昭和20年代に松喰虫の被害を受け全滅した事などが、イラストを添えて書かれていました。

参拝日:2012年4月25日

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恵美須宮と稲荷社 in 岡山県岡山市東区西大寺

2021年08月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

観音院の南西隅、岡山市東区西大寺に鎮座される「恵美須宮」。御祭神は『事代主神』

由緒「約300年前に兵庫県西宮の戎神社から分祀しされ戎様と大黒様とをおまつりした由緒あるお宮です。もとは本町の繁華街の四辻の中心にあって「おえべつさま」として人々に親しまれ境内にあった樹齢500年の「いざり松」と共に有名でした。松は太平洋戦争中に枯死し、社は昭和35年都市計画にかかり、現在の位置に遷宮されました。」岡山神社庁HPより

明神鳥居の奥、社殿前より神域を守護されるのは、天明8年(1788)戊申5月大吉日建立の浪速狛犬さん一対。

かっての賑わいが嘘のように静かな一画に引っ越されても、その大らかな笑顔は変わる事無く、参拝者を出迎えてくれます。

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吉井川に「永安橋」が初めて架けられたのは明治12年。その後昭和7年に鉄橋に、更に昭和61年に現在の橋に架け替え。その永安橋歩道の入り口に、唯一の遺構となった旧永安橋の親柱が残されています。中央には黒字に金文字で【永安橋  渡れば福の 虹が立つ】と刻まれています。

観音院口交差点の一角、それと知って見なければそのまま通り過ぎてしまいそうな植え込みの一角に、小さな「稲荷大明神」のお社が鎮座されています。

由緒書きも何もないお社ですが、大切に守られている事が一目で見て取れるお社。

そのお社の左右より神域を守護されるのは備前焼き神狐さん一対。神狐様の表情はとても柔らかく優しげで、参拝者を迎えてくれます。

阿吽共に宝珠を頭に戴いた神狐さん、貴方のお顔を見ていると私まで釣られて笑顔になりますよ😄。

訪問日:2012年4月25日

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西大寺:五福通り in 岡山県岡山市東区

2021年08月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

会陽で有名な「観音院」の境内から少し北に歩くと、通称「五福通り」と呼ばれる一角に出ます。

「五福」とは、五つの幸福、すなわち、寿命、財力、康寧、好徳、天命。裸祭りの宝木は、この五福を授ける意味で与えられた事から、この通りをそう呼ぶようになったといいます。通りには今はあまり見られなくなった看板建築の商家が建ち並び、古き昭和の面影を今も伝えています。

建築史家の『藤森照信』によって命名され「看板建築」という言葉、今は馴染みがありませんが、関東大震災の後に商店などに多く用いられた建築様式をいいます。

典型的なものは木造2階建ての店舗兼住宅の前面を、銅板やモルタルで装飾を施したもの。垂直に立ちあがった壁面は従来の日本家屋には見られない形式です。

実は五福通りのこの一画は、そうした時代を感じさせる場所として、映画のロケなどでもよく登場しています。私の好きな作品で言うと「ALWAYS三丁目の夕日」、映画ではここは東京の下町でした。

自分が見知っている場所が映画やドラマなどで登場すると、作品そのものに対してもより親しみが湧くものですが、でもその内容が下劣だったりすると、撮影を許可した人物に対して殺意を覚えます😡 とまぁ、冗談はともかく、一昔前にタイムスリップしたかのような五福通りの町並み散策、如何ですか?

訪問日:2009年9月22日

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金陵山:西大寺 in 岡山県岡山市東区

2021年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

西大寺の境内には多くの伽藍が立ち並び、いずれも長い歴史に守られてきたものばかり。寺内最古の建造物である、岡山市指定重要文化財「三重塔」は延宝6年(1678)の建立。

塔の初重内部の中央には、金剛界・胎蔵会の主尊である「大日如来」が祀られています。

仁王門を入って右、三重塔の左手に建つのは、嘉永七年(1854)の建立とされる「六角経蔵」。大工は光政村光津(岡山市光津)の名工といわれた『尾関瀧右衛門一正(1805~74年)』の造営。輪蔵は六角形の土間形式で、外側は柱が見えない大壁造・内側は柱が見える真壁造、本瓦葺の建物です。

仁王門入って左に「弘法大師」が祀られる「高祖堂」。伝18世紀末とされる建築で御影堂とも呼ばれ、国登録登録有形文化財の指定。

本堂の向かって右手、巨大な楠の横には朱の鳥居が並ぶ稲荷社が鎮座されています。

この社殿は元来、御真影と教育勅語を納めていた奉安殿として昭和10年(1935)頃に今町の初代伊原木利七氏の寄付により西大寺小学校に建てられたものです。しかし、終戦後に西大寺に移築が叶い、今日まで稲荷神社として大切に守られて来ました。

稲荷社の鳥居横にある樹齢約150年の楠、薬の木とも言われる「活力の楠」には、悩みや苦しみを消除する力があると云われています。

西大寺伽藍の奥深くに鎮座されるのは明治13年(1880)建立の「牛玉(ごお)所殿」。拝殿・釣殿・本殿・奥殿よりなる複合建築で、集住大工の一派として著名な邑久大工の「田渕勝義」が長時間をかけて完成させました。

倉敷の瑜伽大権現と四国の金比羅大権現との両参りが盛んであった頃、西大寺牛玉所殿が加わり、江戸時代後期に三社参りとして隆盛をみたといいます。中央本尊に鎮守 牛玉所大権現と金毘羅大権現を合祀し、脇には疫病除けなどのご利益がある青面金剛が祀られています。

第一駐車場へとむかう参道には、ご本尊の御影を模した千手観音と並ばれて「北向き地蔵」が祀られています。地蔵菩薩本願経に「地蔵菩薩を北向きに供養すれば土地家屋安穏にして失亡天に生じ、現世には福寿増長、厄難消除下さる」と明示されているそうで、多くの方々の信仰を集めています。

お堂脇には江戸時代の素人力士「玉の森大吉」などの石塔が立てられています。玉の森は江戸時代に堂宇が炎上した際、石門に上って鐘を投げ落とし、焼失から救ったと云われています。

こうしてブログにしてみると、もっとゆっくり一つ一つの堂宇を見たかったなと、いつでも後になって同じ後悔を繰り返している気がします。また次の機会にはと思いながら、気がつけば一緒に参拝した母も鬼籍に入り、生まれ育った家も無くなってしまいました。せめて兄や義姉が健在なうちに、この後悔を取り戻せれば良いのですが😓

参拝日:2009年9月22日&2019年7月17日

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金陵山西大寺と会陽:裸祭り in 岡山県岡山市東区

2021年08月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

中世から近世にかけて金岡湊の港町、および「西大寺(さいだいじ)」の門前町として発展してきた西大寺地区。ことに、天正年間(1504~1521)から続く「西大寺の会陽(裸祭り)」は、日本三大奇祭として全国的にも有名です。

町の玄関口に当たる西大寺駅には「会陽賛歌」と題された臨場感溢れる銅像が、 褌一本の男たちによって繰り広げられる壮絶な「裸祭り」をアピールしています。それでは「裸祭り」の進行と共に西大寺の境内を紹介して行きましょう。

裸祭りの舞台となるのは、岡山市東区西大寺中に境内を構える「高野山真言宗別格本山・金陵山西大寺(観音院)」。

『千手観世音菩薩』を本尊とし、中国三十三観音霊場第一番札所、百八観音霊場(中国観音霊場、四国三十三観音霊場、九州西国霊場の3霊場の連携体)では本堂を第一番、境内の南海観音を第二番の札所とします。

寺伝によれば「今から約1200年昔、天平勝宝3年(75)に周防の国玖珂庄に住む「藤原皆足(ふじわらのみなたる)姫」が金岡の郷に草庵を開基し、千手観音を安置したのが創まりとし、宝亀8年(777)「安隆(あんりゅう)上人」が現在地に堂宇を建立したとされる。元々は犀の角を戴き鎮めた地に建立したことから、「犀戴寺(さいだいじ)」と称したが、後に後鳥羽上皇の祈願文から「西大寺」に改称したとされる。」

元文5年(1740)に再建された仁王門。国登録登録有形文化財の楼門は、高欄に回縁をめぐらした雄壮な構えで、男たちを迎えます。

一直線に本堂へ駆け込む裸の大集団に向かって御福窓より宝木が投下。その瞬間に男たちの戦いは頂点に達し激しい争奪戦が繰り広げられます。

本堂は文久3年(1863)の再建。正面12間に側面14間の巨大な構築は県下随一を誇り、御福窓などの特異な建築様式を今に伝えるとして、市指定重要文化財となっています。

熱い男たちの戦いを見守るのは、天井近くの貫から見下ろす阿吽の象。

あふれかえる熱気に身を任せるかのように満足げにうずくまるのは、屋根の龍。

貴婦人らしき人が手にしているのは、争奪戦の最中に飛び散った宝木の精霊でしょうか?

二月の真夜中、会陽の裸群が熱気で火照った体を浄めるのは、水の張られた境内の垢離取場(こりとりば)。想像しただけで気絶しそうですが、男たちの熱気は真っ白い湯気となって視界を奪います。

垢離取場鳥居の正面に静かに佇むのは「身代わり水垢離観音」。悩みや苦しみを観音様が代わりに水垢りをして流し清めてくれると云われています。

垢離取場の正面に立つ登録有形文化財の石門は、文政2年(1819)に完成した竜鐘楼。下の構えが石、上に木材が使われる造りの門は、古建築史上でも国内では数例しか確認されておらず、それらの中でも文化財的価値は、最高位に位置づけられています。

男たちの熱い戦いを見守るのは、普陀山仏教教会の交流10周年を記念して普陀山から贈呈を受け、大一番札所の西大寺にお祀りされた「南海観音像」

西大寺本坊の客殿にいたる門は、延宝頃(1673~80年)の建立と推測される鐘楼門。鐘楼の左右には、会陽の祝主・福男の名が記された行灯が掲示されています。

500年以上続く郷土の伝統行事であり、国の重要無形民俗文化財である 西大寺会陽。その熱い熱気が去った後に備前の国には春が訪れるといわれて来ました。しかし世界中に猛威を振るったコロナによって「宝木」の争奪は中止、「福男定めの儀」はくじ引き・・・。

ニュースを見た時の何とも切ない気持ちを思い返すとき、武漢ウイルスなんぞ跳ね返し、来年こそは!あの熱気がこの境内に蘇るようにと、郷土を愛する者として願わずにはいられません。

参拝日:2009年9月22日&2019年7月17日

まだまだ見所が沢山の西大寺境内、この続きは明日の「金陵山西大寺」で

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岡山護国神社 in 岡山県岡山市中区

2021年08月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市中区奥市に鎮座される「岡山護国神社」。御祭神は『岡山県出身並に縁故ある殉国の英霊』

由緒「当社は備前藩主池田章政公が、明治2年4月後楽園裏竹田河原に於て、奥羽戦争戦死者監軍、雀部八郎時宜命を始め34柱の招魂祭を執行し、同年6月上道郡門田村幣立山地180坪に社殿と碑石を建て奥羽、函館両戦争戦死者を祭祀したのを起源とす。明治7年に官祭招魂社に列せられた。大正4年に本殿遷座祭齋行。昭和14年に岡山縣護國神社と改称するも、敗戦後の連合軍の進駐により昭和21年に操山神社と改称。その後講和條約の発行に依り昭和27年に岡山縣護國神社と復称した。昭和37年10月23日には天皇皇后両陛下の御親拝を仰ぎ現在に至る。」岡山神社庁HPより抜粋

一の鳥居脇左右より、御英霊方が鎮まる神域を守護されるのは備前宮獅子一対。おそらくここに鎮まる方々の中にも、備前の焼き物に携わっていた方もいた筈・・名前しか知らない我が身うちも・・そう思うと獅子の顔も何故か優しげに見えてしまいます。

岡山市中心部を流れる旭川の東、操山(みさおやま)の緑に包み込まれるように鎮まる護国の御社。戦争を知らない世代ですが、それゆえにこそ今ある平和の礎となられた方々には深い感謝しかありません。

拝殿で手を合わせるとき、私はいつも忸怩たる思いに唇を噛み締めずにはいられません。何故この国は、命を賭して国を守ろうとした方々への感謝の心を忘れたのでしょうか。あまつさえどこかの国の嘘と言い掛りを間に受けて、ご英霊たちを貶める事を平然と言葉にし、謝罪をし続ける事が良心的などと言うようになったのでしょうか。愛国心と言う言葉は危険で野蛮な思想なのか・・それが戦争に負けた結果なのか・・決してそうではないのに。

掃き清められた境内には戦死者の慰霊碑が数多く建立されており、その一つ一つに手を合わせ、今の幸せに感謝を告げて来ました。貴方方の命の贖いの上に今私は幸せに生きています。

参拝日:2015年4月27日

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備前国総社宮 in 岡山県岡山市中区

2021年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市中区祇園に鎮座される「備前国総社宮」 御祭神は『大己貴命、須世理姫命』『神祇官八神 (神祇官で祀る8柱の神々)、備前国内128社(『備前国神名帳』に記載される神社)』

由緒「創建年代は不祥ですが、平安時代の初期と推定されています。備前国庁の祭典の場所として設けられ、備前国内(北は赤磐郡吉井町、東は和気郡・邑久郡、南は玉野市・小豆島、西は岡山市一宮)128神社のご祭神が合祀されています。そのことから当宮へお参りすると一度に128の神社にお参りしたことと同じといわれております。昭和五年十一月の陸軍大演習の際には昭和天皇陛下が玉歩を進め遊ばされました。」岡山神社庁HPより

かってこの場所には江戸中期に再建された社殿が有り、その姿は江戸時代当時の一般的な神社建築の形態をよく残していたと言います。しかし私達の前に鎮まるのは、木の香も新しい社殿。

丁度ご挨拶できた宮司様から、その経緯について色々とお話頂く事が出来たのですが、1992年2月16日の未明、何物かの放火によって社殿が焼失してしまった事・・・・ただもう言葉を失いました。あろう事か、神の鎮まる社に放火とは!!。こんな時、優しく無い私は本気で思います。神罰を畏れぬ不届き者は、真剣に神に祟られれば良い!と・・

氏子の皆様の想いは如何であったか・・けれど、それから八年後の2010年に、御本殿が再建。さらに五年後の2015年に拝殿が再建。耐用年数500年以上といわれる日本初の平安様式の社殿の完成です。そして明後日「平成27年4月29日」に拝殿の竣工を祝う「拝殿竣工祭」が開催される事になりましたと・・。竣工祭のお話しをされる宮司さん御夫妻の晴れやかで嬉しそうなお顔を、今でも鮮明に思いだします。

嬉しいあわただしさの中に居合わせた幸福を、備前国総社宮の神々に心の底から感謝申し上げます。滞在を延ばせるのなら二日後にもう一度と思いましたが、外せない予定が後に控えています。ですが、こんなタイミングで参拝できた事は何にも優る神の加護かもしれません。

明後日になれば沢山の人たちが、晴れやかに上気した顔でこの参道を行き交う事でしょう。

参道から神域を守護される狛犬さん、どうぞしっかりと人々の願いと思いの篭った神域をお守りください。

参拝日:2015年4月27日

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陣屋町足守町歩き~其の二 in 岡山県岡山市北区

2021年08月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

足守の町並の中で最も陣屋町らしい一画と言えば、白壁の長屋門と土塀に囲まれた「足守藩家老:杉原家旧邸宅」。江戸時代に備中国:足守藩の国家老を務めた居宅は、当時の家老屋敷の佇まいをほぼ完全に近い形で伝えており、県下でも唯一の貴重な建物と言われています。

正面に唐破風の屋根を構えた玄関の式台を上がると、上床つき8畳の式台の間があります。この日、訪ねてきた客人を迎えるのは、お武家の奥方ではなく段飾りのお雛様。

茅葺:寄棟造の母屋は伝統的な武家書院造の構造を持ち、今日の和風建築の原型とも言われています。

母屋の前面には池泉を主にした遠州流の小庭園があり、外側の土塀には、藩主来訪時に使用する御成門が設けられています。

玄関の奥に続く式台の間・二の間・一の間の3間が公式用の書院として使われ、特に小庭園を望む一の間は、藩主などを迎える際の貴賓室的な部屋としても使われます。

母屋の左手(東)脇には米倉の土蔵が一棟あり、私達の目を楽しませてくれる鏝絵や飾り瓦が出迎えてくれました。「蕪」「飛鶴に松」派手では有りませんが素敵な出来。

でも何と言ってもこの火難除けの亀の飾瓦の表情は、まさに秀逸。

町歩きのラストは、足守町並み保存地区の北端にある県指定名勝「近水園(おみずえん)」。樹齢数百年のカエデの古木がたたずむ大名庭園は、岡山の後楽園、津山の衆楽園と並ぶ大名庭園の一つだそうです。

園内の池泉に浮かぶのは、藩主の長寿と繁栄を象徴する鶴島と亀島。鶴島には木下家十四代当主利玄の歌碑が建てられていたとか。また、めずらしいマリア燈篭などもあります。

無粋なブルーシートの囲いの中は、復元作業中の「木下家十四代当主:木下利玄の生家」。利玄は明治十九年に生まれ、5歳で上京。学習院、帝国大学国文学科へ進み勉学に励むかたわら、歌の道へも精進を続け、後には武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌「白樺」を発刊。利玄調といわれる歌風を完成させ、明治大正の文学史に大きな足跡を残した人物です。

池畔に建つ数寄屋造りの「吟風閣」は、六代当主『木下 㒶定(きんさだ)』が京都の仙洞御所と中宮御所の普請を仰せつかった折、その残材を持ち帰って建てたもの。

3月初旬の午後4時は、町歩きをするにはもう遅い時間です。もう少し、もう少しだけと言いつつ時間を引き延ばしてみても、曇り空のような空の色が私たちを急きたてます。でもね、名残が尽きないのはそれだけ楽しい時間だったと言う事なのです。

訪問日:2010年3月3日

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陣屋町足守 町並み雛めぐり~其の一 in 岡山県岡山市北区

2021年08月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

足守川上流域の山間から平地に出た谷口の扇状地に位置する足守地区。古代より備中国の中枢の一部に位置し、江戸時代には足守藩の陣屋町として栄え、『緒方洪庵』『木下利玄』などの文化人を輩出してきました。現在も大名庭園の近水園や歴史的建造物群が残り、その町並は岡山県指定の保存地区として多くの観光客を集めています。

町並み保存地区は陣屋町のうちの町人町にあたり、藤田総本家、旧瀬原邸、難波邸など旧藩時代からの商家が、広い道の両側に格子窓の軒を連ねて、当時の面影を伝えています。足守プラザに車を置いた私達の町歩きのスタートは、この地で醤油製造業をはじめたという「藤田千年治邸」から。

木造2階建、入母屋、本瓦葺、平入、2階は黒漆喰仕上げ、虫籠窓、1階は真壁造、漆喰仕上げ、格子戸。現在の建物は江戸時代末期に建てられ、明治時代に改修したものだそうです。

内部には多くの資料と共に当時の醤油工場の様子が再現され、またかつての商家の様子を伝える展示も行われています。

商家の間から土間を通って中庭に出ると、巨大な釜場が飛び込んで来ます。多分ここで醤油の原料となる大豆を煮たんだろうな・・周囲にずらっと並べられた石は、さっき見た搾り機の重石に使ったものだろうか・・・

目を閉じると有りもしないお醤油の香りを感じ、それが展示された道具たちから連想される錯覚だと気づくのに、ほんの少し時間を要しました。当時の商品を彩っていたラベルの数々・・使い終われば捨てられてしまうものだからこそ、こうして残されているのを見ると、ただ無条件に嬉しくなります。

折りしも今日は3月3日。足守町並み保存地区一帯では、毎年2月の上旬から3月の下旬までの期間で行なわれる「陣屋町足守町並み雛めぐり」の最中。情緒あふれる町並みのいたるところに時代も形式も様々なお雛さまが並びます。もちろん、ここ藤田邸も例外では有りません。

御殿の中にお内裏様と三人官女が並んでいるお雛様、まだ子供だった頃、何処かの立派なおうちに飾られていたのを覚えています。そういえば、私の大事な大事なお雛様・・・姉の初節句に祖母が贈ってくれたという八段飾りのお雛様。あれが我が家から姿を消したのは何時の事だったのでしょうか。

明治31年ごろのお雛様は、雅な宮廷の装束を召されて仲良く並んで座っています。深蘇芳 (ふかきすおう) の袍(ほう)をお召しになられた男雛。女雛のお召し物にも同じ深蘇芳 の色が随所に使われており、しっとりとした気品を醸しています。

通い帳が並ぶ帳場の中にいるのは店の番頭さんではなく、朱い幕の上に顎を乗せた獅子頭。華やかなお雛様たちをしっかりと引き立てています。

続いて訪ねたのは、格子窓に二階の虫籠窓、なまこ壁の佇まいがかつての商家の雰囲気を偲ばせる「備中足守まちなみ館」

もちろんここでも華やいだお雛様たちに出迎えられて、気分はすっかり少女😄・・・なのに目を引くお雛様は、おそらくは母や、もっと昔の祖母の世代のものばかり。

館内にはお雛様以外にも興味深い写真などが展示されています。特に目をひいたのが「明治24年利玄公宗家継承○○○会」と表記された古い写真。白樺派の著名歌人として知られる木下利玄は、最後の足守藩主木下利恭の甥であり、利恭の後の宗家を継いだ人物です。おそらくそれに関する記念写真では無いかと思われますが、詳細は不明です。

「備中足守まちなみ館」のすぐ隣に建つ『緒方洪庵』ゆかりの寺「乗典寺」。洪庵の両親や先祖の墓が後の墓地にあるという事で、ゆきずりの縁ですが手を合わせてきました。

足守藩は、慶長六年(1601)に、太閤秀吉の正室:北政所(通称ねね)の兄であった播磨姫路城主木下家定が領地を備中に移され、二万五千石を領したことに始まります。

明治以降、急速に失われた貴重な城下町の風景が今もなお色濃く残された町並みを、お雛様と一緒に巡ってみるのもまた一興。明日は町並に残された貴重な武家屋敷を中心に紹介したいと思います。

訪問日:2010年3月3日

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