漆喰(しっくい)と鏝(こて)で、絵を描き、あるいは彫塑(ちょうそ)に彩色するという独自の方法を編み出し、「左官の名工」とうたわれ、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した『伊豆の長八(本名・入江長八)』。
文化12年(1815)8月5日、伊豆国松崎村明地(現松崎町)の貧しい農家の長男として誕生した長八は、3歳の頃から菩提寺の浄感寺で学問を学び、当時住職であった『正観上人』のもとで12歳の頃まで育てられました。12歳の時、同村の「左官棟梁:関仁助」のもとに弟子入り。19歳で江戸に出、御用絵師:谷文晁の高弟『喜多武清』から絵を学ぶ一方、彫刻も学び、それらの技法を漆喰細工に応用。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂御拝柱の左右に「昇り竜」と「下り竜」を造り上げ、名工「伊豆の長八」として名を馳せました。
弘化2年(1845)、「浄感寺」本堂が再建される事を知った長八は、恩師に報いるべく江戸から弟子2名を連れて本堂の再建工事に加わります。この時、寺内の天井に描いた『雲龍』や欄間を飾る『飛天の像』などの作品は今も大切に保存され、浄感寺本堂は「長八記念館」として一般公開されています。
内部の撮影は不可なので、そのすばらしい作品の数々は、公式サイトで見て頂くしかありません。ですが、ネットの画面で見る迫力は、実際に自分の目で見る感動の万分の一にも及ばないことを、今回改めて実感しました。
明治22年(1889)10月8日、78歳で没した長八の遺骨は台東区の「正定寺」に埋葬。また長八の故郷でもある「浄感寺」にも分骨され、今も香華の絶えることはありません。
【 わが秋や 月一夜も 見のこさず 】 長八・辞世の句。
撮影不可の為、長八作品は紹介できませんが、落成までに二年の歳月を要した本堂、御拝柱、梁、海老虹梁には、実に様々な生き物が彫刻されています。透かし彫りで表現された荒れ狂う波、飛沫の音まで聞こえてくるような波間をおよぐ魚・・。象、唐獅子・・堂宮彫刻の名工とうたわれた『石田半兵衛邦秀』の世界が惜しげなく展開されています。 寺社彫刻では定番中の定番「獅子と象」
吽形さんは何を咥えているのだろう?
向かいあう二羽の鳥は夫婦だろうか? 木々に咲くのは何の花だろう?一転、逆巻きうねる波頭は真っ白な泡となって海面に襲いかかり・・
美しい羽根を長く引いて語らいあう一対の鳥。荒れ狂う波間に顔を覗かせる魚影には対となる姿は見えない。
持ち送りには、豊かに美しい羽根を見せつけるように一話の孔雀
常緑の松の上に潜む一対の鷹。周囲に目を配るのは、そこに守るべきものが有るからだろうか?
金網越しで鮮明さには欠けるが、振り返りながら後に続く獅子を見返る阿形の獅子。
ともすればはぐれそうになる子獅子を気遣う親獅子。どれをとってもタメ息の出る細工ばかり。ああ、私たちやっぱり職人の手仕事が好き。こんなに素晴らしい作品を残してくれた先人にただ感謝!!
浄感寺本堂に残る入江長八の鏝絵は静岡県指定有形文化財に、石田半兵衛の彫刻は、松崎町指定有形文化財に指定されています。
訪問日:2011年11月9日