車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

長八記念館(浄感寺) in 静岡県松崎町

2018年10月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

漆喰(しっくい)と鏝(こて)で、絵を描き、あるいは彫塑(ちょうそ)に彩色するという独自の方法を編み出し、「左官の名工」とうたわれ、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した『伊豆の長八(本名・入江長八)』

文化12年(1815)8月5日、伊豆国松崎村明地(現松崎町)の貧しい農家の長男として誕生した長八は、3歳の頃から菩提寺の浄感寺で学問を学び、当時住職であった『正観上人』のもとで12歳の頃まで育てられました。12歳の時、同村の「左官棟梁:関仁助」のもとに弟子入り。19歳で江戸に出、御用絵師:谷文晁の高弟『喜多武清』から絵を学ぶ一方、彫刻も学び、それらの技法を漆喰細工に応用。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂御拝柱の左右に「昇り竜」と「下り竜」を造り上げ、名工「伊豆の長八」として名を馳せました。

弘化2年(1845)、「浄感寺」本堂が再建される事を知った長八は、恩師に報いるべく江戸から弟子2名を連れて本堂の再建工事に加わります。この時、寺内の天井に描いた『雲龍』や欄間を飾る『飛天の像』などの作品は今も大切に保存され、浄感寺本堂は「長八記念館」として一般公開されています。

内部の撮影は不可なので、そのすばらしい作品の数々は、公式サイトで見て頂くしかありません。ですが、ネットの画面で見る迫力は、実際に自分の目で見る感動の万分の一にも及ばないことを、今回改めて実感しました。
明治22年(1889)10月8日、78歳で没した長八の遺骨は台東区の「正定寺」に埋葬。また長八の故郷でもある「浄感寺」にも分骨され、今も香華の絶えることはありません。

【 わが秋や 月一夜も 見のこさず 】  長八・辞世の句。

撮影不可の為、長八作品は紹介できませんが、落成までに二年の歳月を要した本堂、御拝柱、梁、海老虹梁には、実に様々な生き物が彫刻されています。透かし彫りで表現された荒れ狂う波、飛沫の音まで聞こえてくるような波間をおよぐ魚・・。象、唐獅子・・堂宮彫刻の名工とうたわれた『石田半兵衛邦秀』の世界が惜しげなく展開されています。 寺社彫刻では定番中の定番「獅子と象」

吽形さんは何を咥えているのだろう?

向かいあう二羽の鳥は夫婦だろうか? 木々に咲くのは何の花だろう?一転、逆巻きうねる波頭は真っ白な泡となって海面に襲いかかり・・

美しい羽根を長く引いて語らいあう一対の鳥。荒れ狂う波間に顔を覗かせる魚影には対となる姿は見えない。

持ち送りには、豊かに美しい羽根を見せつけるように一話の孔雀

常緑の松の上に潜む一対の鷹。周囲に目を配るのは、そこに守るべきものが有るからだろうか?

金網越しで鮮明さには欠けるが、振り返りながら後に続く獅子を見返る阿形の獅子。

ともすればはぐれそうになる子獅子を気遣う親獅子。どれをとってもタメ息の出る細工ばかり。ああ、私たちやっぱり職人の手仕事が好き。こんなに素晴らしい作品を残してくれた先人にただ感謝!!

浄感寺本堂に残る入江長八の鏝絵は静岡県指定有形文化財に、石田半兵衛の彫刻は、松崎町指定有形文化財に指定されています。

訪問日:2011年11月9日

 

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伊那下(いなしも)神社 in 静岡県松崎町

2018年10月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

松崎町松崎に鎮座される「伊那下(いなしも)神社」。式内社・伊那下神社の論社。御祭神は『山神:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、海神: 住吉三柱大神(すみよしみはしらのおおかみ)、水神:龍谷水神(りゅうこくすいじん)』

「創祀年代は不詳。古来より牛原山を神をまつる場とした為に社殿はなく、嶺三本松と呼ばれる処が自然の祭場だった。年が移り土地の発展にともない、此処に神社がもうけられ、産業の守護神でもある彦火火出見尊を石火宮とたたえて尊崇。またこの神社を俗に唐大明神と称する起源は、四世紀の新羅征討の時、この国の人が皇后の御船を守り、長門の豊浦に留まり後にこの松崎に来て、ここに唐(新羅)征討の神功皇后ゆかりの住吉三神を鎮座した為であるといわれている。」公式HPより

濃い緑の葉陰に護られるように続く石段参道、その先正面に入母屋づくりの拝殿。

およそ200年前の文政元年に建立された朱塗りの拝殿

「拝殿前には目通り八メートル、枝張二十五メートル、樹高二十二メートル、樹齢約千年の母いちょうがあり、ほかの二本(父いちょう・子いちょう)とあわせて、通称「親子いちょう」といわれています。」公式HPより

大銀杏の下には、松崎にイグサの栽培を伝えた『正観上人』を讃える「琉球畳表の碑」。碑面には正観上人伝授の箴(おさ)と梭(ひ)が刻まれているとあります。

境内の緑豊かな一画、朱塗りの鳥居の奥に「長寿の泉」と伝えられる湧き水があり、由緒に「神やどる山、牛原山の麓には人の生活に欠くことのできない真水が湧き出しています。」

龍谷水神社

「神明水」と名づけられたその水は口に含むとやわらかく、かすかに深い山の香りが鼻腔をくすぐる。

神域に設けられた「精霊の森」に集う様々な鳥獣や名も知らぬ神獣たち。これらの彫刻は、何らかの理由によって伐採された木々を使って生み出されたものだそうです。切り倒されて朽ちる筈の木は、人の手によって新たな命を与えられ、森に集う精霊となって人々の営みを見守ってくれるのです。

何もかもが緑に染まってしまったかのような神域に立っていると、月並みな言い方ですが「心が洗われる」・・そんな風に感じられます。吸い込む息が磨かれて輝いてゆく・・ならば吐き出す息は少しでも汚れないものであるように・・

参拝日:2011年11月9日

 

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道の駅:花の三聖苑 伊豆松崎 in 静岡県松崎町

2018年10月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

松崎町大澤、県道15号下田松崎線沿いにある「道の駅:花の三聖苑伊豆松崎」。1991年7月1日にオープンし、1995年8月1日に、県内3番目の道の駅として登録されました。

「花の三聖苑」の名に相応しく、まず入口では直径11メートルの花時計が来館者を迎えてくれます。

敷地内には食事処「天城山房」と、隣接する日帰り温泉「かじかの湯」があり車中泊には最適の立地。 暗くなってからのお風呂探しは、近乱老と三拍子揃ったご亭主殿には、実は大変な苦行なので本当に有難いのです(笑)。

さらに敷地内には、歴史的洋風建築が大好きという私に合わせてくれたかのような素晴らしい建物が二つ。 向かって左が「三聖会堂」。右の洋風二階建ての建物は町指定文化財「旧大沢学舎」

「三聖会堂」は、郷土の三聖人の業績を中心に、松崎の歴史・文化を紹介する施設。ここでの三聖人は、幕末の漢学者である『土屋三余』。明治期の実業家として名を馳せた『依田佐二平』と、その弟で北海道の開拓に関わり「十勝開拓の父」と呼ばれた『依田勉三』の三人。

午後三時過ぎという事で館内の見学はできましたが、薄暗いせいで内容は今ひとつ。

三聖会堂の近くには礼服姿の『依田佐二平』像と、業績を記した碑。

「三聖会堂」の隣の建物は、明治6年(1873)に建てられた「旧大沢学舎」

「明治6年(1873)に、大沢村の依田佐二平が私財を投じて自宅内に洋風二階建ての公立小学校「大沢学舎」を建設し開校。大沢村・池代村・小杉原村・明伏村・峰輪村の5ケ村を学区とし、その父母を集め、子弟の小学教育の重要性を説いて子弟を入学させ、会津藩士大島篤忠を招いて校長とし、小学校の授業を開始。以来1889年までの16年間子弟の教育の場となりました。」公式HPより

明治22年(1889)の町村制の施行で中川村が誕生し、学舎は中川村役場に転用されていましたが、1993年に現在の場所に移築復元。 館内には郷土の資料などが展示されていますが、あまりの薄暗さにじっくり見学出来る雰囲気ではなく・・・

翌朝は・・・時間が早すぎる為。当然閉館中(-_-;)

敷地内で見つけた「ムベ」の実。食べると長生きするとの言い伝えから“不老長寿(不死)の実”と言われる「むべ」。その語源は、天智天皇(626~671)が琵琶湖南部の奥島山に立ち寄った際、8人の息子をもつ老夫婦に出会い、「お前たちはなぜ、このように元気なのか」と尋ねたところ、老夫婦は「この地で採れる無病長寿の果物を、毎年秋に食べているからです」と答え、果物を献上。それを賞味した天皇が「むべなるかな(もっともだな)」と言ったことから、「むべ」と呼ばれるようになったと云われています。

2011年の静岡車中泊の旅では、伊豆半島に入って最初の車泊地としてこちらを利用させていただきました。暖かいお風呂で温まり、出たらそのまま車内の寝床に直行できる幸せ・・・・・お隣同士になったおなじ車中泊の方とも仲良くなり、いつもより楽しい時間も過ごせました。
車で旅をする私達にとってこのような施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました m(__)m

訪問日:2011年11月8日

 

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船寄(ふなよせ)神社 in 静岡県松崎町

2018年10月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡県松崎町江奈に鎮座される「船寄神社」。御祭神は『積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)』「伊那下神社」に比定される、式内社(小社)の論社。

創建は不詳「江奈地区の鎮守として篤い崇敬を受けてきた。一説に、神功皇后の新羅遠征の時、この神がその艦を守ったとも伝えられ、船員や漁業者による崇敬が篤く、氏子の漁民は漁獲ごとに初穂を神前に供し、加護を祈ったと云う。」

他ではあまり見かけない素通しの拝殿、奥に一段高く本殿鞘堂。

拝殿木鼻の彫刻はおそらく象をかたどったと思われますが・・・、その鼻の上に小さな鳩の彫刻。八幡様でもないのになぜ鳩なのか??。

本殿石段下左右より神域を守護されるのは、江戸流れ垂れ耳の狛犬さん一対。「昭和9年(1934)5月19日 飯田四郎」の刻。

阿吽ともに「紙垂」を拠りこんだ〆縄が、まるで口を塞ぐように掛けられているのが気になって・・・単にずり落ちないようにと言う事でこの位置なのか、それとも余人にはわからない意味あっての事なのか・・・・。

気になるといえば屋根の上、青竹?に巻き付けられたあの紙垂が何だったのかも、結局不明(-"-)

神輿庫

参拝日:2011年11月8日

 

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ご当地マンホール in 静岡県松崎町

2018年10月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

賀茂郡松崎町(まつざきちょう)は伊豆半島南西部の海岸沿いに位置する町です。下田市、南伊豆町、西伊豆町、河津町に隣接。町の64%が山林で占められていますが、中心部に流れる那賀川・岩科川により、流域に約500haの耕地をもつ、伊豆半島西側最大の平野となっています。町内には多くの史跡があり、特になまこ壁造りの建物群は観光の撮影スポットとして人気の場所。また鏝絵界で日本屈指の名工と謳われた「伊豆の長八」の出身地としても知られています。「町の木:松」「町の花:ツワブキ」を制定。

キャッチフレーズは「花とロマンの里」

明治22年(1889)、町村制の施行により、那賀郡松崎村、岩科村、那賀郡中ノ郷村が発足

1891年、那賀郡中ノ郷村が中川村に改称。

1896年、郡制の施行により那賀郡が賀茂郡となる。

1901年、賀茂郡松崎村が町制を施行、賀茂郡松崎町が発足。

1955年、賀茂郡松崎町が中川村と合併、改めて松崎町が発足。

1956年、賀茂郡岩科村を編入。現在に至ります。

かなり頑張って探しましたが独自のマンホール類は無し。町の中心部の足湯近くにあった温泉用「断湯弁」「弁」が唯一見つけられた蓋。

伊豆文の足湯。何と更衣室まであります。

昭和40年11月3日制定の町章は「松崎町の「マ」を雄飛する鶴に見立て、「ツ」と組み合わせて太平洋にのぞむ伊豆半島の形にデザイン化、松崎町の美しい景観を表現しました。また、常に前進する町のシンボルとして、「マ」と「ツ」には理想に燃える聖火の意味をも重ね合わせました。」HPより

撮影日:2011年11月9日

 

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東福寺の五百羅漢 in 静岡県西伊豆町

2018年10月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

西伊豆町中、仁科川から道を隔てた一画に門を構える臨済宗建長寺派寺院「照嶺山・東福寺」。境内入り口に「五百羅漢寺」の碑。『阿弥陀如来』を本尊とします。

伊豆88遍路・第八十三番札所。寺伝に「創建は天福元年(1233)、弘法大師空海の旧跡に真言宗の寺院を建立し年号から天福寺と称したのが始まりと伝えられる。当初は澤田ヶ原にあったが災害の為、中の島に移り、さらに嘉元2年(1309)に境内を現在地に移す。永和3年(1337)に災害で大破し再び衰微。慶永2年(1395)に再興され真言宗から臨済宗に改宗するも、再び衰微し、文明18年(1486)に山本盛季が再興、寺号を現在の東福寺に改称。天福年間(1233~4年)に建立され、「天福寺」と称されていたが、嘉元年間(1303~5年)にこの地に再建され、「東福寺」となった。」

今回参拝の目的は「五百羅漢寺本堂の五百羅漢」の拝観。西伊豆町の観光案内で見つけた「鏝絵の五百羅漢」。ねぇねぇ、聞きましたぁ?!(ノ≧∀)ノ 鏝絵の羅漢様ですってよ!!(誰に言ってる?)

作者は、鏝絵の神様と謳われた『入江長八』の弟子で、群馬県出身の左官職人『田村利光』。大正末期、一人の檀家から、両親の供養の為「五百羅漢」の鏝絵を寄進する依頼を受けた利光は、四年と八カ月の歳月をかけて、東福寺本堂の天井に五百羅漢の鏝絵を仕上げました。東福寺の五百羅漢について詳しいことは西伊豆町の公式サイトを参照して下さい。

五百羅漢・・・文字通り五百人の羅漢様です。

羅漢様に取り囲まれた天井の中心、渦巻く紫雲から大きく身を乗り出すのは「八方睨みの龍」

この龍を中心に、四方に幾重にも渡って「五百羅漢」が、漆喰と鏝で描かれているのです。 羅漢とは阿羅漢の略称で、仏道の修業者又は悟りを開くために修業中の修業僧の事。 日本では、仏陀に常に付き添った五百人の弟子を「五百羅漢」と称し、尊崇(そんすう)の対象とされました。

「五百羅漢」が居並ぶ天井の四方には、楽を奏でる天女を配し、天上界浄土の様を現します。

霊獣を従えた天女の姿も・・

天上界に住むと言われる極楽浄土の鳥「鳳凰(ほうおう)」

こぼれ落ちんばかりに咲く山百合。極上の香りに誘われて飛び来る鳥の軽やかな羽音。

細やかに描かれた四季折々の花、その花を慕う鳥や虫の羽音さえ耳を澄ませば聞こえてくる・・そして天女は羽衣をまとい艶やかに舞う。

堂内の拝観料200円をお寺の奥様にお支払いすれば、堂内の案内と鏝絵の説明もして下さいます。通称『のん兵衛安さん』と呼ばれた作者の事。製作中のエピソード等々、時には笑い出す場面も。何が一番嬉しかったって・・・フラッシュを使用しなければ、撮影をしても良いと言われたこと。 だから、もう遠い昔の思い出なのに、その一つ一つの情景が画像と共によみがえってくるのです。

霊峰富士・・もちろん鏝絵です。

本堂の正面、ご本尊に向って並び描かれたお二人が、鏝絵の依頼主のご両親だそうです。 穏やかな表情の二人、ご母堂はさり気なく夫を気遣うそぶりで首をかしげ・・・何と穏やかに御仏の側近くに座しておられる事か・・・

左官職人『田村利光』の碧き龍に見送られて

参拝日:2011年11月8日

 

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ご当地マンホール in 静岡県西伊豆町

2018年10月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

賀茂郡西伊豆町(にしいずちょう)は静岡県伊豆半島の西岸に位置する町です。2005年、西伊豆町と賀茂村が合併し、新たに西伊豆町となりました。駿河湾に面した海岸地形は複雑で小島が多く、「伊豆の松島」とも呼ばれる堂ヶ島などの景勝地で知られ、一帯の海岸が『伊豆西南海岸』として国指定の名勝に、また「富士箱根伊豆国立公園」の一部にも指定されています。「町の木:椿」「町の花:つわぶき」を制定。

キャッチフレーズは「“ふるさと”と言いたくなる夕陽のまち「西伊豆町」」

明治22年(1889)、町村制の施行により、那賀郡仁科村・田子村が発足

1896年、郡制の施行により、那賀郡が賀茂郡へ統合。

1956年、賀茂郡仁科村、田子村が合併、賀茂郡西伊豆町が発足。

2005年、賀茂郡西伊豆町と賀茂村が合併し、新たに西伊豆町となりました。

マンホールには町章を中心にして、「津波・高潮防災ステーション」の文字が書かれています。

2005年5月21日制定の町章は「西伊豆町の「N」の文字を基調に、豊かな自然の西伊豆町を象徴的に表現しています。橙は太陽、青は海で、夕陽の美しい西伊豆町のイメージです。」HPより

上記のマンホールはいわゆる上下水道用でなく、防災用のケーブル類の蓋と思われます。下の写真のように、防波堤の内側にいくつか並んで設置されています。

消火栓は旧西伊豆町時代のものですが、見つけたときには思わず喝采を(笑)。マンホール不毛地帯では、たとえ上水道関連の蓋であっても自治体章が残っている蓋はとっても貴重。それが合併以前のものとなれば尚更。

昭和41年9月制定の初代町章は「頭文字である「西」を意匠化したものです。」

マンホールの近くにあった「スーパーデッキ潮騒の塔」。津波対策用の水門で見学も出来ます。 もちろん、高い所はお金をもっらても御免こうむりたい私には、全く縁のない名所(^^;)

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旧賀茂郡賀茂村(かもむら)は静岡県の伊豆半島西岸に位置した村です。駿河湾に面し、夕日で黄金色に染まる美しい黄金崎は、西伊豆を代表する夕日スポットとして知られています。「村の木:松」「村の花:カーネーション」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、那賀郡宇久須村が発足。

1896年、郡制の施行により、那賀郡が賀茂郡へ統合。

1896年、宇久須村の一部が分立し、賀茂郡安良里村が発足。

1956年、宇久須村と安良里村が合併、賀茂郡賀茂村が発足。

2005年、(旧)西伊豆町と合併、新たに西伊豆町となりました。

昭和48年(1973)1月制定の村章は「「カ」を変形させ、どっしりと大地に居座る姿を造形化したもの。太陽をシンポライズし、円形を観光業へと向かう道を歩む村の姿を表したもの。色は橙色が指定されている。」旧公式HPより

(※)旧那賀郡賀茂村はコースからかなり外れる為、未訪問です。

撮影日:2011年11月8日

 

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天神神社 in 静岡県伊豆市八木沢

2018年10月24日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

伊豆市八木沢、土肥港近くに鎮座される「天神神社」。御祭神は『菅原道真公』

神橋を渡り鳥居を潜った先に石段参道、突き当りに石灯籠と狛犬さんに守護されて拝殿。由緒等を示す物は何もなく詳細は不明ですが、大切にされている事は境内の清潔さが教えてくれます。

拝殿石段の上、左右より神域を守護されるのは、背を丸めて参拝者を見上げる小さな狛犬さん一対。全体に欠けが目立つけれど、顔に何とも言えない愛嬌があって好ましい一対です。

拝殿奥、覆屋の中に鎮まる御本殿

本殿の彫刻は天人と思われるのですが、手に持っているものが甕なのか琵琶なのか不明。

覆屋の彫刻は、酒を酌み交わしている尉と姥?松の木の上から想像して「高砂」・・・かな?

拝殿の貫彫刻は松の木に営巣する阿吽の鷹と三羽の雛たち。色々と社殿彫刻を見て来たけれど「松に鷹」は初見かもしれない。

吽形の鷹。松の古木が驚くほど繊細に表現されています。

拝殿内に奉納されていた額ですが、位置の関係かからだったのかどうか、彫刻部分しか残していません。御祭神:道真公がこよなく愛した「梅」

参拝日:2011年11月8日

 

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土肥(とい)の町:あちこちウォッチ in 静岡県伊豆市土肥

2018年10月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

前後に車の一台もいない国道136号線、と書くといかにも快適そうですが、言い換えればとっても寂しい山越えコース。きちんと舗装されている広い道なので贅沢言っては罰が当たるかもですが・・・お日様がある時間帯で良かった(笑)。

山越えが終わって人家が見えだした所で巨大なシイタケのモニュメントを発見。たんなる名産品の宣伝看板とか、よくある「○○の里」とかの案内かと思ったのですが違いました。軸の部分には「交通安全観音様」の垂れ幕、傘の下には観音様の御像。ちゃんとお花なども手向けられています。それにしても何故「しいたけ」?、特産品??いや、土肥町の特産は「白ビワ」の筈・・??

頭の中を駆け巡る???を脇にどけて(笑)。折角下車したのだし、橋向うの「長寿のお地蔵さん」にお参り。

ほんの少し人家の温もりを感じただけで直ぐに山、又しても山・・という言い方が本当にピッタリ来る136号線。もう山道は沢山と思い始めた頃に、やっと海が見えてきました。「雄大な海岸美と山岳美に恵まれた」とパンフレットに紹介されたとおり、海と山の光景です。

「土肥(とい)温泉」は、土肥金山開発中の1611年、安楽寺境内の坑口から温泉が湧出した事に始ります。源泉は発見者の『間部(まぶ)彦平』にちなんで「まぶ湯」と命名。 現在の土肥温泉は明治33年に馬場(ばんば)地区で飲料用井戸を掘ったところ、温泉が湧出したのが始まりと伝えられます。

海岸の近くにはホテルや旅館が立ち並んで、いかにも温泉地に来たという雰囲気。

海沿い136号線「松原大橋」のたもとには、カンカン帽に和服姿の『若山牧水』像。傍らには、大正14年5月に牧水が宿で読んだと言う歌碑。

【 花のころに 来なれて よしと思へりし 土肥に来て見つ その梅の実を 】

海岸の近くにある松原公園内には、ギネスブックに収載されている世界一の花時計があります。 直径31m、長針の長さ12.5m、短針の長さ8.8m、花時計の周囲を彩るのは約5千本の花。

正午には電子チャイムの美しいメロディーを聞けるそうですが、まさか明日までは待てません(笑)。

公園の一画に祀られる石仏様、瑞々しい花が綺麗に活けられており、地域の治安の良さが伺えます。

さぁ、がっつりと組んでしまった予定を消化するためには、もう少しピッチを上げないと(^^;) 日本一大きなだるま大師座像が安置されている「達磨寺」の看板が見えてきました。

あともう一か所、神社参拝の予定が有るので・・ここはとりあえず下から写真を一枚だけ。 今の私たちなら「折角ここまで来て素通りなんて来た甲斐がない」と嘆くところですが、これも静岡県ご当地マンホール制覇の為。最初の訪問では本当に、あそこもここも目をつぶって、見なかった事にしたのです(^^;)

訪問日:2011年11月8日

 

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浄蓮(じょうれん)の滝 in 静岡県伊豆市湯ヶ島

2018年10月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

狩野川の上流部、天城山の北西麓を流れる本谷川から流れ落ちる「浄蓮(じょうれん)の滝」。伊豆市湯ヶ島の観光名所として、また「日本の滝百選」として多くの観光客を集めています。

多分に思い込みなのですが、「滝」観光は一般道から山道経由で大変、しかも滝までの道は駐車場から結構な距離の徒歩なのでこれまた大変・・・と、最初っから敬遠していたので、まさかあの有名な滝が道路沿いのすぐ横にあるなんてこれはもう本当に想定外。

元々、滝を見るのは大好き。できれば日本各地の有名な滝は見ておきたい。でも山道が・・現地までが・・等々で敬遠していただけ。急きょ予定を変更して駐車場に車を入れ、早速滝道へ。古い道標には「此(より)奥浄蓮瀧道」

当然ですが滝に続く石段は急。それでも手摺りもあるし広さは充分。焦らなければ大丈夫、ご亭主殿もちゃんとサポートしてくれるし(*^^*)

やがて聞こえてくる、ドウドウと滝の音・・・あたりの空気は更に冷たさをましていき、その代償のように周りの全てが澄み切っていく感覚。真っ白な水の塊が、深い青の中に落ちていく・・・飛沫は同じように白いのに、水は青のまま。それは、神秘的という月並みな言葉が、決して陳腐に感じられない「神秘」に満ちた光景。

1万7000年前、伊豆東部火山群の鉢窪山スコリア丘が噴火した際に流れ出したとされる玄武岩溶岩流。 この溶岩流の壁を流れ落ちる瀑布(ばくふ)の落差は25m、幅は7mにも及び、圧倒的な存在感で私を出迎えてくれました。

滝つぼに近い岩盤には、まるで緞子の裾を絞ったように美しい、柱状節理の壁。

滝の左手の洞穴部には「ハイコモチシダ」の群生地があり、県指定の天然記念物になっています。

1917年に国内で初めて浄連の滝で群落が発見された為、別名を「浄蓮シダ」と名付けられたとか。 その昔、この滝には非常に美しい「女郎ぐも」の化身が棲んでいたと云う・・、それはもしかしたら、あの水煙の向こうのずっと奥だったのかも・・

「浄蓮」の名は、かつて滝の付近に「浄蓮寺」という寺があったからと云います。更にその名を有名にしたのは『石川さゆり』が歌った「天城越え」の一節。「寝乱れて 隠れ宿・・九十九折り・・浄蓮の滝」と書きながら思わず口ずさんでしまうほど、実はカラオケでは十八番の一つ(笑)。歌詞碑の前には、昭和の森・俳句大会最優秀作品の句碑。【こだまして 定まる浄蓮 滝の丈】

名残は尽きませんが、さりとてずっとここにとどまる事は出来ません。この後は山越えで次の目的地に向かわなければならないのです。すでに思った以上の時間を費やしています。さぁ・・駐車場へ引き返さなければ。

尽きることなく流れ落ちる瀑布は、峻烈な冷たさを保ったまま岩間を抜けて流れ、川と平行に作られた「山葵田」はつややかな一面の緑。

滝道の一画。この岩の洞窟も流れ出した溶岩流が作り上げたものなのだろうか・・・人の力の何とか細い事。自然の力の何と強大な事。

何が祀られているのか分からない祠に、二人揃って、もう一度この先の旅の無事を祈って手を合わせよう。びっしりと貼られた紙札は、その枚数だけの人の願い。滝口の祠だから祀られているのはお不動様かもしれないね。

「浄蓮の滝」を後にして向かった「道の駅:天城越え」。本来なら次に向かうのは「天城隋道」でしたが、地図で見た連続カーブの山道にあっさり却下(^^;) かといって最寄の駐車場に車を停めて歩いて往復できる程の健脚でもないし体力も無し。あれもこれも欲張れば、結局予定消化の為だけで疲れ果ててしまうからね。

訪問日:2011年11月8日

 

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