車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

川之江城址散策 in 愛媛県四国中央市川之江

2021年01月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝である川之江の鷲尾山山頂に位置した川之江城。

約650年前の南北朝動乱の頃。南朝方であった河野氏の砦として、土肥義昌(どひ よしまさ)が延元二年(1337)に鷲尾山に川之江城を築いた事に始まります。戦国の世の習いの中で義昌は武蔵国矢口の渡で戦死。細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になるも、土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれず、河野氏に背いて長曽我部氏に内通。河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせます。しかし、天正十年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時に廃城。

戦国の世も終わった寛永十三年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとするも、寛永十九年に病没。領地は没収されて幕領となり、わずか六年の「うたかたの川之江藩」で終わりました。時は流れ、昭和59年(1984)、350年の歳月を経て、本丸跡に天守、涼櫓、櫓門、隅櫓、控塀などが建築。

とは言え、天守は犬山城天守を模したもの、その他の石垣や櫓、城門等も史実に即したものではなく、当時の名残を留めるものは、模擬天守の石垣の周囲に残存する僅かな石垣だけ。

鉄筋コンクリート造3層4階地下1階。模造であろうと模擬であろうと、満開の桜の中に聳える天守は美しい。

折りしも三月も終わりの季節。私たちには珍しい桜に彩られた城址での一時は、それだけで旅の心を満足させてくれます。

その立地ゆえに隣国との抗争の的となり、何度も主を代えたと歴史に刻まれた川之江城。天正十年(1582)長曽我部氏の攻撃を受け、落城と共に姫ヶ嶽から身を投げて命を絶った年姫の哀れを詠んだ「与謝野晶子」

【姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果ても うまして入りぬ 大名の娘は】

川之江城址には「尾藤二洲伝」の著者『白木豊』が、昭和38年にこの城山で二洲をしのんで詠んだ歌

【川之江ハ 椿さくころ良き人を しぬひて居れ鳥が おときこゆ】

『尾藤二洲』「梅花五言古詩」

此の花は花中の選 人能く汝に儔(ともがらと)するは誰ぞ

一たび孤山に従って逝き 風情独り自ら知る

吾其の淸高を愛するも 而も未だ相隨ふ能はず

早晩塵絆を解かれなば 汝に野水のほとりに就かん

「江戸時代後期の儒学者『尾藤二洲』、その性格は「恬淡簡易」と評され、甥の頼山陽と歴史への関心を分け持ち、夜の更けるのも忘れ「喜んで本邦群雄の事跡を談じ」たという。三博士の中ではもっとも詩人の素質に富み、こだわりなく詩を作る。詩は「唐を以て法と為す」べきであるが、陳腐にならないように新しい感覚のある宋詩をも読むべきである、ただし「宋人は雅俗を択ば」ないので模倣しすぎると詩の形を為さなくなる、と考えていた。二洲の詩的感興は、世俗を避ける心と結びついている。」Wikipediaより

訪問日:2013年3月29日

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三島神社~其の二 in 愛媛県四国中央市三島

2021年01月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

昨日に続いて三島神社の紹介、境内には驚くほど沢山の境内社が鎮座されており、「諸山仂神社(十六社)」もその一つ。

延徳2年(1490)建之の御社殿はかって主祭神の本殿だったもので、明治35年に現在の本殿が建立されるまで、御祭神はこちらに祀られていました。市内最古の建造物とされ、昭和37年(1962)4月1日、市有形文化財に指定されました。

旧本殿横には「小林一茶」が寛政7年(1795)に当神社に参詣した時に残した句が、現存する一茶直筆の「寛政紀行」より拡大されて刻まれています。

【冥加安(みょうがあ)れや 日本(にっぽん)の花 惣鎮守】

本殿横に祀られる「龍宝石」はもと予讃境の海中にあり、鯛寄石とも称し、鯛のすみかになっていたと云われています。江戸時代に中曽根村の庄屋・今村家が引き揚げて庭石とし、毎日、海水を中央の二つの凹みに献げていましたが、明治になり、怪異を恐れて三島神社の境内に移したと云われます。

拝殿の隣に鎮座されるのは「境内社:天神社」「菅原道真公」を奉ります。

ところでこれ・・何だと思いますか?。実は私たちも暫く分からなくて首をかしげていたのですが、唐突に閃きました!「これ、硯と墨だよ!」😲
もちろん、手前には筆もあります。流石に此処までそろった一式は、今回が初めて。あまりにも大きすぎ、何であるかを理解するのに時間が掛かりました😅

天満宮と言えば神牛さんですが、こちらでは「願かけなで牛」という事で、特に鼻の周りがピカピカ😊

社殿の隅に奉納されていた小さな一対の神牛さん・・。台座が違うので別々の奉納と思われますが、見事に対を成しています。

境内には、他に「合祀社宮(八幡神社、荒神社、幸神社、斎霊神社、外 を合祀)」「笑子神社」「住吉神社」「春日神社」「天照皇太神宮(豊受大神宮、出雲大社、宇佐八幡宮 を併祀)」「田畠神社(社日神社)」「水神社室神社」「目神社」「三鉾神社」と実に多くの神々が鎮座されています。

その一画を守護されているのは、非常に体格の良い小顔で扁平頭の狛犬さん一対。扁平ですがちゃんと角を持つ吽形さん、その顔の短さは、思わず手尺をしたくなる程😊

大きな玉に前足をかけて楽しそうに笑う阿形さん。ツンと澄ました顔の吽形さん。岩の角を利用したと思われる狛犬さんの顔立ちは、かなり個性的で狛犬好きには楽しい一対。

北参道より神域を守護されるのは、まるで威嚇するかのようにお尻を高く上げ低く身構えながら、その姿勢と裏腹に、陽気に笑う阿形さん。

閉じた歯の間から低く唸り声が聞こえてきそうな吽形さん。お世辞にも可愛いとは言えない強面ですが、この上なく頼りになりそうなのは確かですね😊

参拝日:2011年6月15日

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三島神社~其の一 in 愛媛県四国中央市三島

2021年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

四国中央市三島宮川に鎮座される「三島神社」。御祭神は『大山祇神(おほやまつみのかみ)』、相殿に『高龗神(たかおかみのかみ)・上津比咩神(かみつひめのかみ)・下津比咩神(しもつひめのかみ)・雷神』を奉ります。

由緒「奈良時代の初期越智玉澄宇摩の大領に任ぜられ今の上柏町御所の地に新館を建て宇摩郡を経営したが、年老い毎月の大三島宮参籠も出来なくなったので、養老4年旧8月23日大三島宮より奉遷し八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地を選び奉斎したのが始であり、それより此の地を三島と云う様になった。」愛媛県神社庁より

ご本殿背後の遥拝所近くより神域を守護されるのは、かっちりとした顔立ちに、くっきりと玉の目が入れられた狛犬さん一対。場所が場所だけに、体の装飾も美しく、凛々しい顔立ちです。

青銅鳥居を潜り参道を進むと、文政4年(1821)8月竣工:三間一戸、重層、本瓦葺の「随神門」。昭和37年4月1日に四国中央市指定有形文化財となりました。

随身門の内にて神域を守護される随身様、異様に白く目立つ目はインパクトが有りすぎ😓 出来れば夜には出会いたくない。

随神門内には沢山の絵馬が奉納されており、特に石鎚山登拝での、天狗を用いた絵馬が多く見られました。中で一枚、この極彩色の【鯉の滝登り】は「鏝絵」で作られたもの。

随身門の両脇より神域を守護される狛犬さん一対、笑顔がとっても優しい阿形さん。ちょっと苦みばしった吽形さんは、ちょっと好みのタイプ😊

拝殿懸魚に施された華麗な彫刻。

特に向背に寛ぐ龍の目に嵌め込まれた玉は、見上げる者の気配を察してこちらを向きそう。

神社の龍の彫刻なんてどれも同じだと言った人が居ますが、いえいえ、とんでもありません。人の手によって彫られたものには、それぞれに宮彫師の気持ちが籠められています。一度じっくりと見比べるのも楽しいですよ。

拝殿の前に鎮座される「大石神社」。ここには二千年前よりも更に遡ると伝えられる「磐座」が、当時のままの状態で保存されています。案内には、石の配置も往古のままに残され、この場所で祭祀が行われていたと記されています。

みだりに犯してはならない禁足の地を守護されるのは、一般的に護国型と言われるブロンズ製の狛犬さん一対。吽形さんの足には願掛け紐が結ばれています。

さすがに約8300m2の御神域を持つ「三嶋神社」、長くなるので続きは明日。

参拝日:2011年6月15日

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岩松地内~あちこちウォッチ in 愛媛県宇和島市津島町

2021年01月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

昔ながらの港町の面影を残す宇和島市津島町岩松地区。旧宇和島街道に沿った町並には明治から大正の建築が残されており、風情のある町並を楽しむことができます。

岩松川沿いに建つ「大畑旅館」。終戦直後『獅子文六』が執筆の為に滞在したという部屋が残されているとか。

何ともにぎゃかな看板の「大野文六堂」。前述の『獅子文六』の小説「てんやわんや」にちなんだ「文六餅」なるものが販売されているそうですよ。

岩松地区最大の建造物群とされる「西村酒造場」。白漆喰の壁と格子戸の対比が眩しいほど鮮やかで、町並の中でもかなり目立つ存在です。

さらに際立って足を止めさせる、西国三十三観音霊場 第15番札所「金龍山:臨江寺」の山門。昭和14年に建立された鐘楼門の二階部分には中央に花頭窓、左右に格子が嵌め込まれた窓が設けられ、お寺と言うよりも別の建物を髣髴させる・・優美な佇まいです。

神社と違ってお寺の場合、檀家でもない者が出入りするには何となく敷居が高く、手軽に入って参拝と言うのは意外と臆するのです。特に私達のような余所者には・・

だからと言って建物だけ写真に撮って素通りなんて・・罰当たり過ぎて😅 ご本尊様がおいでであろう本堂に向かい、神妙に手を合わせて御真言を唱えさせていただきました🙏🙏

敷居が高いと気軽に建物などを画像に収める事が躊躇われます。そんな訳で画像に残したのは山門の彫刻くらいですが、それも何故かひっそりと・・って・・・まるで不審者ですよね😅

ひっそりと写した彫刻ですが、向背の龍の躍動感は迫力満点。牡丹を咥えて振り返る獅子も魅力たっぷり、特にビックリしたような目がこの上なく可愛らしく。

さらに私たちを静かに狂喜させたのが、山門の留蓋😲。足元に紅葉が散らばり、左小脇に抱きかかえているのが鹿だとしたら「寿老人」かな?

はて、そうするとこちらはどなたを表しているのでしょう?大人と子供の組み合わせですが、どちらも半裸で剃髪しておられる所を見ると、俗世の人ではない気もします。色々と調べてみましたが、結局何も分からず😔❓

とっても活きのよいお魚がはねるのは「酒庵・まほろば」の壁。私が育った瀬戸内海の小さな漁船では「ガシラ」と呼んでいたような気がするのですが、確信はゼロ!😅

岩松の繁栄を支えていたといわれる「大庄屋:小西本家」。貞享元年(1684)宇和島から岩松に移住して酒造商を営み、三代目で苗字帯刀を許され、宇和島藩では最も家格の高い庄屋として活躍した小西家。明治初期には岩松村の土地の半分以上を所有する豪商となったと云います。

駆け足で通り過ぎた津島岩松の町歩き。本当はもっと沢山の見所があったのですが、結果としてはほぼ半分以上が「臨江寺」の紹介(極一部)となりました。八年近くも前の思い出ですが、それでもこうして振り返ると懐かしさで一杯です。

訪問日:2013年3月25日 

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宇和島市内~あちこちウォッチ in 愛媛県宇和島市

2021年01月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

築城の名手「藤堂高虎」会心の名城とうたわれた「宇和島城」。宇和島市丸之内に建ち、別名を鶴島城と呼ばれる天守は、昭和9年(1934)に天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」)に、城址は昭和12年(1937)に国:史跡に指定されました。(昭和20年7月の宇和島空襲により大手門は焼失。)

お城への入り口になるのは、三の丸跡に移設された「市指定有形文化財:藩老:桑折(こおり)氏武家長屋門」。かってこの場所には三の丸御殿が建ち、その近くにまで海が迫っていたと言います。

宇和島の天守がこの地に初めて建造されたのは慶長6年(1601)。高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主「伊達政宗」の長子「伊達秀宗」が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代「伊達宗利」の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成しました。

これまでの経験からいうと、お城への道はたいがい大変なものと相場が決まっています。様々な理由は有るのでしょうが、一番の理由は敵が容易に攻め込めない様にという一点に尽きます。

この中途半端に段差の異なった石段、慣れていないというのもありますが、昼間の明るい日差しの下でさえも歩幅の調子が狂って、危険な事この上なし。

石段の途中に、かなり大型の井戸を見つけました。説明では「宇和島城の本丸北側の井戸丸(井戸屋形)。井戸の直径は2.4m、深さ11m。井戸丸に通じる石段も往時のままに段差がそれぞれで異なる設計となっており、敵軍が攻めづらい工夫がなされている」とあります。

長い年月の中で苔むした石段、生い茂る草木が石垣の隙間からはみ出し、地面を覆い隠しています。気分的には山城にいく感じ・・

なんだかんだと言いながらでも、何とか天守までたどり着きました😄 途中までの道が嘘の様な、驚くほど明るく開けた天守台。やっぱり本物のお城は素敵で、満開の桜がさらに城を引き立たせています。「伊達なまち歩き」の顔出しは、多分伊達家の誰かなんでしょうね。

丁度団体さんとかち合ってしまって、入城は遠慮したのですが、どっちみち、往時のままの城内に気軽に入れるほど健脚でもないので、まぁ、良いか😅 お城の素敵さは十分堪能できたしね。

宇和島城を後にして住吉町に向かう途中、宇和島市駅にほんの数分立ち寄ってもらいました。目的は闘牛の像と、宇和島で最初に走ったという「ケ220・ドイツ製の蒸気機関車」。駐車帯が無かったので、ご亭主殿はロータリーを二週して、待ってくれました😅

とりあえず目的の物は写真に収めたし・・と言うことで住吉町に残された「宇和島市立歴史資料館」へ。明治17年(1884)、旧宇和島警察署庁舎として建てられた「擬洋風建築」の建物は、昭和28年(1953)に、南宇和郡西海町(現:愛南町)に移築され、同町の役場として1990まで使用。その後宇和島に里帰りをし、住吉町の樺崎砲台跡そばに復元されました。

残念ながら玄関ドアには「本日休館」の札・・好きでわざわざ予定に入れる割には、休館日を把握していない当たり・・間が抜けています😔 まぁ、この美しい外観を見る事が出来ただけで、良しとしましょう。

資料館の敷地には「旧宇和島海軍航空隊・甲種飛行予科練習生実習用教材:旧日本海軍魚雷酸素式機関部」や、「最後の小型焼玉エンジン」が屋外展示されていました。

見るべきものはこれで終わりですが、もう一つ気になるものがこの「やつしか」。何とも怪しい鹿もどきの集団が、意外とあっちこっちに出没するのです。

牛鬼ストリートの中の何処かのお店の玄関マットの中には、奉納の儀式でもしているような「やつしか」の集団がデザインされています。

「やつしか」とは宇和島地方に古くから伝えられ、350年余の伝統を持つ民俗芸能。「鹿の面を頭につけ、その面から垂れた布で上半身を覆い、太鼓を前に抱えて打ちながら歌い踊る。この「太鼓踊り」系の鹿踊りは、宮城県各地に普及。その中で、雄鹿たちが雌鹿を尋ね探して遂に発見して喜ぶ「めじしかくし」という踊りが、旧宇和島藩領となる南予一円には定着、分布している。」HPより

路上絵が出たついでに、国名勝の指定を受けた「天赦園」の庭に咲くという「白玉藤」。池泉廻遊式庭園の水面にうつる「白藤太鼓橋」・・時期が合えば実物を見たかったのですが・・

市の花は「ミカン」なので、多分これも 「天赦園」のお庭に咲く「あやめ」でしょう。

訪問日:2013年3月25日

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和霊(われい)神社 in 愛媛県宇和島市

2021年01月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

宇和島市和霊町、鎌江城跡に鎮座される「和霊(われい)神社」。御祭神は、宇和島藩家老『山家清兵衛公頼公(やんべせいべえきんよりこう)』

由緒「宇和島伊達家初代藩主秀宗の家老で、総奉行として政務を担当していた山家清兵衛公を祀る神社。伊達政宗の信頼も厚く、領民にも生き神と称される公であったが、その手腕を疎ましく思う反対派の兇刃に倒れ無念の死を遂げた。 その後藩主藩民その功績を偲び、公の御霊を和める為に建立された。」愛媛県神社庁より

随身門を潜り石段参道を登った先にて神域を守護されるのは、文化13年(1816)春建立の、大きな玉を抱いた広島型の狛犬さん一対。真正面から見た阿形さんの鼻が・・・・いや、狛犬さんのことは言えませんが😅  吽形さん・・そんなにシゲシゲと見るのは失礼ですよ!

拝殿前より神域を守護されるのは、昭和36年(1961)12月建立のブロンズ製護国型狛犬さん一対。怨霊と恐れられ、神となられた方が鎮まる社をしっかりと守っておいでです。

「境内社:竈(かまど)神社」、御祭神は『火産靈命(カグツチのみこと)』と思われます。

拝殿前より神域を守護されるのは、かなりの年代を経たと思われる狛犬さん一対。失われた四肢が災害に寄るものなのかどうか・・痛ましくはありますが、阿吽ともに、そんな些細なことなど気にしている暇はないといった風情が、この上なく頼もしく思えます。

「竈神社」の右手に鎮座される「境内社:三島神社」。御祭神は『大山祇命』と思われます。

拝殿脇より神域を守護されるのは文政7年(1824)8月吉日建立の狛犬さん一対。他の狛犬さんたちと比べるとかなり童顔に見えますが、だからって吽形さん・・そんなに驚かなくても😅

境内一杯に枝を広げる御神木「大銀杏」。無念の死を遂げた後も領民から慕われたと言う御祭神の姿を写しているようです。

神社の絵馬には、日本一の大鳥居や拝殿などと共に、和霊大祭の様子が描かれています。拝殿に奉納されていた「牛鬼」の頭は、この「うわじま牛鬼まつり」で使われたものでしょう。

境内の一隅に、どういう繋がりがあるのか、「坂本竜馬脱藩 百四十年記念」碑があります。調べてみると、坂本龍馬の4代前の先祖が屋敷神として「和霊神社」を勧請しているんですね。としても、やはりこの碑は、某大河への便乗感がぬぐえない気がするのですが😅
高知で散々目にした竜馬脱藩、まさかまたここでお目にかかろうとは、予想外でした。

今回参拝した「和霊神社」ですが、実はとても中途半端な参拝に終わってしまいました。ご亭主殿の大好きな狛犬さんも、全て見て廻れなかったし、急いだので画像の確認を怠ったことが如実に表れています。
理由は色々有ったのですが、それでも今振り返ると「残念だな」という想いがぬぐいきれません。距離的にもコース的にも決して近くは無い「宇和島市」・・再訪が叶うかどうかも定かではありません。

参拝日:2013年3月25日

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伊豫岡(いよおか)八幡神社 in 愛媛県伊予市

2021年01月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

伊予市上吾川に鎮座される「伊豫岡八幡神社」。御祭神は『誉田別命(ほむだわけのみこと)・足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)』

由緒「清和天皇貞観元年8月、豊前宇佐八幡宮を山城国男山八幡宮へ勧請の節、当地に泊船して不思議な霊験があり、畏みて宮殿を建立して奉斎したという。 旧大洲藩主の祈祷所でもあった。」愛媛県神社庁

鳥居の先に聳えるように建立されているのは、江戸時代末期・嘉永2年(1849)の建立と云われる隋神門。その先にはさらに上に続く石段が見えています。

隋神門内よりご祭神と神域を守護されるのは、僅かに朱の色が残る「矢大神・左大神」

随神様の傍らには、同じく木製の神殿狛犬さんが神域を守護されています。足元に残る薄青緑や口中の朱など・・おそらく奉納当初は、綺麗に彩色されていたのでしょう。色を失って更に凄みが増してきました。

随神門の上部には、精緻な彫刻が施されていますが、流石に遠すぎて私達のデジカメでは捉えきれません。辛うじて捉えられた龍の顔、かなりユーモラス。

石段の先、緑の小山を背景に鎮座される拝殿は、江戸時代前期:元禄7年(1694)の建立。

本殿左右、素焼きの神殿狛犬さんの足元には、魅力的な表情の鬼瓦が置かれています。が、撮影の場所としてはこれがせい一杯で、お顔の全体は見られません。

流石に記憶があやふやで確証がもてませんが、拝殿内(だと思う)には一対の木製の御神馬も奉納されています。「修復奉納:田中進」と名前があり、それなりの年代を経たものと思われます。

拝殿前の左右より神域を守護されるのは、関西では割と馴染みのある顔立ちの狛犬さん一対。文化9年(1812)正月吉日建立とあります。

鳥居の奥に鎮座される境内社。石鳥居には「文久二年(1862)壬戌三月」と刻まれています。

社殿は絵馬殿としても使われていたのでしょうか?開放的な佇まいの内側には、沢山の「菰樽」と絵馬が奉納されています。

伊予市指定文化財の「征露凱旋記念奉納絵馬」。説明には「砲弾が飛び交う激しい戦場にあって赤十字の腕章をつけた救護兵たちが負傷したロシアの敵軍将校を救護する様子を描いている。下吾川の農村兵士たちが、ロシア負傷兵に対して人類愛を貫いていたことを産土神(うぶすながみ)に報告し、後世に語りかけている貴重な文化財である。」

拝殿の左右より神域を守護されるのは、明治23年(1890)4月吉日建立の玉乗り狛犬さん一対。それぞれが抱え込んだ大きな玉には、美しい装飾が施されています。

この開放的な社殿の中には沢山の「菰樽」が積み上げられています。そしてその上に小さな親子猫がささやかに生を営んでいます。どうぞ、つつがなく命を全うできますように・・神の加護のありますように。

神社境内に分布する10基からなる「伊予岡古墳群」。うち南西部の1基は「月陵(つきのみささぎ)」と呼ばれています。

参拝日:2011年6月15日

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一宮(いっく)神社 in 愛媛県新居浜市一宮町

2021年01月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

新居浜市一宮町に鎮座される「一宮神社(いっくじんじゃ)」。御祭神は『大山積神(おほやまつみのかみ)、大雷神(いかづちのかみ)、高龗神(たかおかみのかみ)』。

由緒「大山積神は往古からの鎮座であって、雷神、高?神は和銅2年8月大三島から奉遷し、爾来、郡一の宮と崇められた。 社伝に依ると嵯峨天皇の勅願所であり、西条藩主松平公の祈願所六社のうちの一社であり、初代藩主頼純公は、寛文10年11月社領高二石を奉献、元禄7年には数度にわたって神供料を献納 し、毎年9月18日を定例にして、直参、代参を立てられた。長州毛利公も年々代参を立てられ、元和5年には長州に本社を勧請、分祀した。 社殿は推古天皇の御宇に伊予皇子の裔越智益躬が造営し、建武年中河野九郎左衛門尉、観応年中河野対馬入道、明徳年中金子氏等の造営があり、元和6年には長州毛利長門守、松山加藤左馬頭が協同で社殿を建立、宝永元年11月西条藩主頼純公が寄進し、翌年8月現在の本殿を完成した。伊与八幡神社(境内神社) 延久年中に、伊予守源頼義が、四国に四十八社の八幡を建立したうちの一社である。 毛利元就、特に崇敬し、慶長年中萩に分霊を勧請して伊与八幡宮と称した。 江戸高輪邸にも奉斎して代々信仰した。安産の神として婦人の信仰が厚い。」公式HPより

一の鳥居から二の鳥居へ、参道の傍らより神域を守護されるのは、とても人(獅子)の良さそうな穏やかな顔の狛犬さん一対。でもニコニコばかりではダメだと、吽形さんは眉をしかめています。

毎年秋の新居浜太鼓祭りでは、この随神門から高さ約5.4mの太鼓台が通過して宮入が行なわれます。その為、隋神門中央の部分が一段高く作られているます。

隋神門内には矢大神と左大臣がそれぞれに持ち場を固め、大切な神域を守護されています。

随神門より神域を守護されるのは、太い眉が特徴のちょっと貴族ちっくな顔立ちの狛犬さん一対。阿形さんは何か大きな声で叫び、吽形さんはぐっと歯をかみ締めてその様子を見ています。

拝殿の前には〆柱があり、左右に百度石と標柱が建立。拝殿の右手後方に僅かに見えているのは「伊與八幡神社」の社殿。

拝殿前の標柱の上より神域を守護されるのは、阿吽共に大きな玉を前足で抱えた狛犬さん一対。高いところから見下ろしているからなのか、なんだか得意げな顔。

「一番楠」の根元に鎮座される「楠木神社」。古来よりその楠に棲み付いていたとされる神使「小女郎狸」が祀られています。

祠の左手には「小女郎狸」を詠んだ川柳二首が刻まれた碑。

【南無三宝 小女郎憑きたる 桜鯛】狸通

【遠会釈(とおえしゃく) 人美しく 誰だろう】伍健

 

境内のクスノキ群は、国指定の天然記念物ですが、中でも拝殿脇の「一番楠(根回り約15m目通り約9m)」は樹齢1000年ほどと推定され、見事な葉陰を境内に作り上げています。

【百千鳥 江湖に名ある 樟(楠)の宮】酒井黙禅

【秋高し 神木として 一の樟(楠)】矢野樟坡

【かがやきて 神ながらなる 樟(楠)若葉】富安風生翁

句碑が続いたところで、西参道を守護される狛犬さん一対。低く構えた姿勢は特に珍しくもありませんが、このお顔が・・・・そう、誰かに似ている気がするのですが・・・はて?誰でしたっけ?😅

二基の鳥居の右手に鎮座されるのは、境内社「新居神社」。御祭神は「事代主命」

由緒「伊予十四郡の内の三十三社の一社である。往古より国司の崇敬が厄い。明治43年7月16日、海神社、春宮神社、恵美須神社の境内末社の天満宮、風神社を、恵美須神社に合併合祀して新居神社と改称したが、昭和32年8月19日一宮神社の境内神社となる。」愛媛県神社庁より

鳥居の内より神域を守護されるのは、浪速型に近いフサフサたてがみの狛犬さん一対。足に結び付けられたお手製の賽銭カゴがとてもいい味を醸しています。

「新居神社」社殿の左隣には、かなりの年代を経た歌碑らしきものが建立されていますが、これにヒットするような情報も見つけられず、文字も読み解けません。

「新居神社」の左に鎮座される「素戔神社」。こちらにも同じような位置に歌碑のようなものが建立されていますが、先と同様、詳細は不明。

境内の一画に建立されていた「子規・漱石・極堂」句碑。

【童ら能(の) 蝉(せみ)さし尓(に)来る 社可那(かな)】子規

【風に聞け 何れ可先に 散る木の葉】夏目漱石

【 樟 (くす)千年 神さびをはす 宮の秋】柳原極堂

「清道」と刻まれた文字碑、江口町の小笠原常善氏の奉納。

吹き抜けの建物は絵馬殿でしょうか?それとも新居浜太鼓祭りの際の神官席でしょうか?これも詳細は不明。

鉄製の網籠の中に収められた御神馬、腹掛けには「折敷に三文字」の御神紋が見られます。

最後は一の鳥居の内から神域を守護されていた一番年若いと思われる狛犬さん一対。まるで見せびらかすように大きな玉を抱え込んだ顔の、何とも得意そうなこと😆

   参拝日:2011年6月14日  

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東台(とうだい)神社 in 愛媛県新居浜市

2021年01月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

新居浜市東田に鎮座される「東台(とうだい)神社」。御祭神は『菊理姫命(くくりひめのみこと)』

社伝に「「東台3所大権現は紀伊国熊野3所大権現と同体也」とある。 鎮座年は未詳。浦渡神社とともに天正の兵乱に社殿、宝物など焼失した。」愛媛県神社庁より

社伝にある「三所大権現」とは、和歌山県熊野にある本宮・新宮・那智の三権現の称とあります。それと御祭神の『菊理姫命』との関連がどうにもよく分かりません。

ともあれ、拝殿近くより神域を守護されるのは、赤いヒーローマントがとてもよく似合う狛犬さん一対。小さめの耳や、団扇のように開いた尾は、岡山県などで良く見かけるタイプです。

「境内社:幸神社」「御食津神(みつけかみ)」=稲荷神を祭神とします。

境内の一画に並べられていた小さな祠もそれぞれに奉られる神々がおいでなのでしょう。決して疎かにされず大切に奉られておいでです。

参拝日:2011年6月14日

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別子銅山記念館 in 愛媛県新居浜市

2021年01月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった「別子銅山」。山根公園の南部にある大山積神社の境内には、山の斜面を利用した半地下構造の「別子銅山記念館」があり、銅山開坑以来の歴史や技術に関する資料が展示されています。建物の屋根を覆うのは、五月の開館を記念して植えられた1万本を越えるサツキ。

【この銅山(やま)を 神とし仰ぎ幾代かも 掘りつぎて來し ことの畏(かし)こさ】住友吉左衛門友成

生憎と時間が早すぎて館内の見学は出来ず、館外見学のみ。それでも日本初の鉱山列車「別子1号」を真近に見る事が出来たのはとてもラッキー。

ドイツのクラウス社から購入し、日本最初の山岳鉱山専用鉄道として利用されていた蒸気機関車「別子1号」。昭和38年(1963)10月14日に準鉄道記念物(指定番号1)に指定され、この地で静態保存されています。

「かご電車」は、1938年から閉山の1972年まで東平(とうなる)から銅山峰嶺南の旧別子までの4kmの坑内を、人の輸送用として使用したもの。

赤い車体は鉱山専用鉄道用「電気機関車ED-104号」。昭和25年(1950)鉄道電化の後、鉱石輸送増強のため日立製作所より部品を購入し、別子事業所で組み立てた自社製電気機関車です。

「坑内牽引6tトロリー電車」は、第四通洞専用の鉱石と人の牽引用に使用。思いもかけず多くの歴史遺産に出会うことが出来て、なんかとっても得した気分。朝からすこぶるご機嫌です😊

公園内には、銅山の町らしい銅版細工で新居浜太鼓台の飾りに用いられる龍の刺繍のモニュメントもあります。予定外の寄り道でしたが、とても意味深く楽しいひと時を過せました。

訪問日:2011年6月15日

 

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